マクロ経済学とは何か
作成:2008/01/08; 更新: 2009/11/16
西暦2000年秋、居酒屋にて: 「近年の不況から脱出する方法について、くどうくんのマクロ経済学者としての意見を聞かせてくれたまえ」「はい、そうですね〜この巨額の政府負債が」「いやそれは財政学だろ。マクロ経済学を使ってくれ」「はい、では金融政策を」「いやそれは金融論だろ。マクロ経済学を使ってくれ」「はい、労働市場でのミスマッチが」「それは労働経済学!」「・・・。」コントのようですが、これはほぼ実話です。このエピソードはマクロ経済学という学問分野の特徴を非常に良く表現していると思います。このページではマクロ経済学とは何かについて考えます。どちらかというと趣味的なページですので、読者の役に立つかどうかはお約束できません。どうぞ気軽に楽しんでください。また、このページは石川竜一郎氏との会話を元に書かれている箇所が多くあります。石川さんなくしてこのページは存在しません。
国家レベルならマクロか: 大昔のマクロ経済学は「巨視的経済学」なんて言われていたそうですが、鳥の目線で経済を眺めればそれがマクロ経済学になれるかというと、これも結構難しいのです。例えば、市場全体を見ましょう、といえば、それは単に市場均衡の話ですから、普通のミクロですし、また、一般均衡になっていればマクロか、といえば、(私の答えはYesですが)多くのミクロ経済学者にとって一般均衡理論はミクロのど真ん中、というイメージがあります。したがって、一般均衡もマクロの十分条件に含めたいですが、マクロ固有の性質ではないのです。また、戦略的貿易論などは国と国に関わるテーマですが、部分均衡モデルですからマクロとはみなされていませんよね。
動学ならマクロか: 近年では、だいたい世界のどの大学院に進学しても、マクロの授業といえば経済成長モデルからスタートします。その意味で、「マクロ=成長論」というイメージが一部にあるようですが、成長論はGDPに関する研究なのでマクロ変数を扱っており、さらに一般均衡になっているという点ではマクロの十分条件を楽々クリアしていると言えますが、成長論がマクロの必要条件かと言われれば、そんなことは全くありません。例えばゲーム理論も動学モデルを多く扱いますから、動学分析がマクロ固有の性質とも言えないようです。ただ、動学分析を最も取り入れているのがマクロ経済学者というイメージがありますから、かなり有力な十分条件にはなっていると思います。なお、大学院生向けには、DSGE(Dynamic Stochastic General Equilibrium)ならマクロ、という理解でとりあえず充分だと思います。そして、私がM1向けに大学院の講義を行う場合に採用している定義はこれになります。
十分条件と必要条件: 必要条件、すなわち「これを満たしていないものはマクロではない」といえるものが見つかればマクロの定義はかなり楽になるのですが、これが見つからないのがマクロ経済学の定義の難しさなのです。反面、上の議論からも分かるように、十分条件の候補は非常に多く存在しています。
経済学者経由の定義: ではどうするのか。私が提案したい定義は経済学者経由の定義です。つまり「マクロ経済学者が分析の対象としているものをマクロ経済学と定義しよう」となります。これがもっとも明確な形になったものが教科書と言えるでしょう。一般に、教科書執筆というのは特定の学問分野の守備範囲を定義する活動と言えるのではないでしょうか。
マクロ経済学者の定義: すると、ここで決定的なのが「マクロ経済学者」をどう定義するか、です。私の定義は「自分のことをマクロ経済学者と自己紹介する人のことをマクロ経済学者と定義しよう」です。まあそんなにがっかりしないでください。この定義は私がこのごろずっと使っている定義で、私はこれが現時点でもベストの定義だと思っています。例えば、誰かが「私はマクロをやっています」と言ったら他人が「あいつはマクロではない」とは言えないし、それに必要な客観基準は存在しないのです。必要条件が見つからない、とはそういう意味を持つのです。ゲーム理論の場合はそうはいきません。ゲーム理論家であるためにはゲーム理論を研究している必要があり、そのためには「戦略的環境」つまり、あるプレーヤーの行動が他のプレーヤーの損得に直接影響を与えているような環境、を扱っている必要があるので、「これはゲーム理論ではない」と示すことが可能なのです。
マクロ経済学者はいろいろ: 「自称マクロの人の研究対象」という定義がそれほど悪くないかもしれないと読者に思っていただくために、根拠を示したいと思います。現在、大学院レベルのマクロの教科書は非常に多く出版されていますが、たとえMacroeconomicsというタイトルがついていても、著者によって内容が大きく異なることを確認できます。これはミクロでは起きていない現象です。つまり著者(=マクロ経済学者)によって「マクロ経済学」として提供している教材の内容が大きく異なっているということは、著者によって定義が異なっている証拠なのです。それをいまさら「この本の内容はマクロではない」なんて主張できない以上、全てマクロ経済学と認める以外なく、すると、私の、経済学者経由での定義もそんなに悪くないと思えてくるはずです。これらの教科書で行われていることは、結局、「自称マクロ経済学者」が自分のアンテナを経済学分野全体に広げ、そのアンテナに引っかかった論文などの学術成果を要領よくまとめたものが教科書となっているのです。その意味で、教科書執筆というのはその学問分野を定義する活動なのです。では、どのような人たちが自らをマクロ経済学者と呼んでいるのでしょうか。どうも最後に残るのは精神論だけのような気がします。どんなにマクロ経済学的論文を量産している経済学者でも「俺はマクロじゃない」と強く主張する人もいます。「俺はマクロじゃない」と誰かが言ったら、それでファイナルです。議論の余地はありません。あえてひとつ候補を挙げるなら「大学院でマクロの講義をやってもよいと思っている人」でしょうか。
マクロ経済学に学派は存在しない: 意外に思う方も多いかもしれませんが、リサーチの最前線にはもはや「学派」は存在していません。大学の講義などで経済学説史の「古典派対ケインズ」なんて話題にわくわくしている学生諸君(私もそうでした)には気の毒ですが、この手の宗教対立は現在では存在していないのです。もちろん、常に論争はあるのですが、非生産的な学派対立ではなく、目の前の経済現象を理解するための論争が日々繰り広げられているのです。現在、私たち研究者の成果は「新発見」のみから判断されます。ツタンカーメンの墓を二度発見することができない以上、私たち研究者は人と異なる穴を掘るしかないのです。新発見を求めて山の西側を掘るグループと東側を掘るグループがいるからといって、いちいち「山の西側学派」「山の東側学派」と分類することが適切でしょうか。研究者は新発見を求めているだけなので、西側を掘りつくしたと思ったら東側に躊躇なく行くでしょう。もちろん、西側が大好きでずっとそこにいる研究者もいるかもしれません。西と東で発見の量が異なる可能性もあり、どちらのアプローチがより有望か、という意味で論争になったとしても、科学的に論争が進む以上、長期的には必ず決着がつきますし、さらに良いものが登場すれば、古いものは新しいものに取って代わられます。より現実のデータを正確に再現できるモデルや、現実をより深く明快に分析できる手法に軍配が上がる、このことの繰り返しです。その意味で、科学としてのマクロ経済学は現在非常に面白い段階に進んでいると言えます。なお、こういったマクロ経済学説史に興味のある方には
をおすすめします。経済学説史というと、ついついケインズやフリードマンが登場するあたりで終了すると考えてしまいますが、実際には私たち研究者の活動に直接つながっていますし、むしろここ50年くらいが特に発展著しいわけですから、このあたりのわくわく感を伝えてくれるような文献が増えて欲しいと思っています。サイモン・シンあたりが書いてくれたらなあ。ちなみに、2009年に創刊した American Economic Journal: Macroeconomics 誌において、EditorのBlanchard教授は次のようにマクロ経済学を定義しています:
Macro is the study of aggregate fluctuations and growth, and of the role of policy in that context. Such study often borrows from and interacts with research in many fields, such as monetary theory, industrial organization, finance, labor economics, political economy, public finance, international, and development.
マクロ経済学の目的: マクロ経済学者としてこのごろ気になることがあります。政府などによる経済運営の目標として、経済成長率という指標が一人歩きして、それ自身が目的化しているのではないか、ということです。ここでマクロ変数を復習すると、GDP、インフレ率、失業率の3つあり、高いGDP、低いインフレ率、そして低い失業率というのは経済運営の重要な目標となっています。しかしながら、経済運営の真の目的は「経済厚生」を高めることであって、マクロ変数はその「代理変数」(またはintermediate targets)にすぎません。ましてやGDP成長率はマクロ変数の3つのうちのひとつ。たしかにGDP成長率と国民の厚生には正の相関があると考えてよいと思いますが、50年前ならともかく、現在ほど経済学が進化しているにもかかわらず、いまだに代理変数のみを目的化し続けるのはいかがなものでしょうか。近年格差問題に関する国民の興味が高まっていますが、GDPは「平均値」でしかなく、格差問題のような分布全体を見る指標への意識が欠落しています。また、地震、犯罪、事故、病気、失業、だけでなく、私達の人生には極めて多くのリスクが潜んでいます。個人レベルでリスクに備える方法は現金を溜め込むしかないのですが、リスクに対処する市場またはそれに代わるものが存在していれば、私達はより安心して人生に挑むことができるようになり、これが社会の活性化となって経済厚生を引き上げることは経済学(不完備市場の経済学)では常識となっています。不完備市場の経済学は、以前はあまりマクロ経済学という印象が強くありませんでしたが、今では多くのマクロ経済学者が注目する重要なテーマとなっています。これが学部生向けの教科書にまで浸透してくれば、実際のマクロ経済運営にも生かされることになると思います。まだ数年(または数十年)かかるかもしれませんね。
ミクロでないマクロは必要か: マクロ経済学を定義することの意義のひとつは「すでにミクロ経済学が存在するのに、どうしてマクロ経済学が必要なのか」という疑問に答えることにあります。つまり、ミクロ経済学を積み上げさえすればそれがマクロになるはずだから、マクロという学問を別に組み上げる必要はないはずだ、という考え方です。30年以上前であれば、その答えは「ミクロを積み上げてもマクロにならない」であり、その例が合成の誤謬と言われています(知らない人は学部生向けの教科書を調べてみてください)。が、ゲーム理論が発達した今となっては、合成の誤謬は囚人のジレンマや協調ゲームなどとして表現でき、つまり合成の誤謬の問題は使用する均衡概念の問題に過ぎなかったことになります。もっと言えば、ミクロでも合成の誤謬が発生するわけで、そうなると、合成の誤謬の存在はマクロ経済学がミクロ経済学と別に存在する理由を与えてくれなくなるのです。最初、ケインズによってマクロ経済学という学問が開拓されたときには、明らかにミクロとマクロは別でした。学部生向けの教科書を見てください。例えばIS−LMモデルやその延長線上のモデルで使っている力学は必ずしもミクロの需要供給の力学とは一致しません。つまり、マクロ経済学は、当初ミクロとは別の道を歩んでいたのです。これは物理学の世界における宇宙論と量子力学のような関係だと言えます。さて、現在でも、ミクロ経済学とは別にマクロ経済学が存在して別の力学体系を提示する必要性はあるのでしょうか。もしも答えが「ある」であったならばそこからマクロ経済学を定義できるのですが、残念ながら私の答えは「必要ない」です。その理由を与えてくれるのが「ルーカス批判」です。
ルーカス批判を軽視すべきではない: 最近では多くの学部生向け教科書で「ルーカス批判」という言葉が登場しますが、必ずしもその重要性が広く理解されているとはいえないと感じています。誤解を恐れずに一言で表現するならば、ルーカス批判は「ミクロ経済学を軽視したマクロモデル」を批判したものだと考えることができます。経済の構造を完全に誤解したまま経済モデルを組み立てたとしましょう。それでも計量経済学的に精度の高い推定を行うことはできるので、その意味で見かけ上精度の高いモデルは簡単に作れます。しかし、そのモデルを使って予測を行ったとたん、完全に間違った結果を導く場合があります。これを防ぐ方法はただひとつ、経済の構造を正しくモデル化することなのです。当たり前のことを言っているだけですが、これはつまり、ミクロ経済学的な力学をマクロモデルに組み込むことの重要性を説いているものなのです。マクロ経済学が本当の意味で経済学になったのは、ルーカス登場以降だと言えると思います(予算制約式すら登場しない分析を経済学と呼べるでしょうか)。そして興味深いことに、物理学の世界でも、マクロの宇宙論とミクロの量子力学の統合が重要なテーマになっているようです。残念なことに、ルーカス批判やミクロ経済学的基礎付けを強調すると「お前は新古典派だ」などとラベルを貼られてしまう場合があります。しかし、すでに強調しているように、経済学はすでに学派対立の時代を終えています。ルーカス批判が嫌ならば、さらに上を行く分析手法を提案すれば良い、ただそれだけなのです。
ミクロ的基礎と精度の両立: さて、リサーチの最前線とは異なり、実際の政策分析や将来予測などの実務に近いところでマクロ経済学を使っている人たちからすれば、ミクロ的基礎付けはそれほど気に留めないことでしょう。それよりも予測精度が高いことが重要なはずです。そして、ルーカス批判以前のマクロモデルの人気を支えているのはその簡単さと予測精度の高さです。IS−LMに関して言えば、線形連立方程式という中高生でも扱えるような数学しか使わずに、意外と高い精度の予測に使えるので、その意味で現在も人気があります。それで十分だ、といわれてしまえば、私はもう何も言うことはありません。その場合は、大学2年生が終わる頃には必要な分析手法が身に付くはずなので、あとは新聞でも読んでくださいと言うほかありません。しかし、ミクロ的基礎付けの弱いモデルの最大の弱点は、「その予測が出てくる根拠がよくわからない」ということです。そのようなモデルのことをブラックボックスと呼びます。精度の高い予測はできるがなぜそうなるかは不明、そうなると、極端な話、星占いでも構わないことになります。「精度さえ良ければブラックボックスで構わない」となったとたん、経済学者は不用になります。経済学者よりも物理学者や数学者の方がはるかに精度の高いモデルを作ってくれるはずです。ここで私が言いたいのは、ミクロ経済学を軽視して単に精度のみを追求する姿勢は、結局のところ経済学そのものを否定する姿勢に他ならない、ということです。
でもやっぱり論争は楽しい: 学派はない、と上で断言してしまいましたが、もちろんというか、残念ながらというか、まだ多少学派論争を思わせるやりとりは残っています。昔のそれと比べるとかなり具体的な内容についての論争になってはいますが、「なんだかんだいってマクロの魅力は論争だよな」と感じさせてくれます。最近盛り上がった(ている)論争といえば、Fiscal Theory of the Price Level、金融政策分析における貨幣不要論(というかM不要論)などを思い起こしますが、このページの読者に是非ご紹介したいのは:
です。学派対立という図式で言うなら、1は新古典派サイドが、ルーカス登場以降どれだけマクロ経済学が進歩してそれが実際の政策に生かされているかについて主張していて、2はケインズ経済学サイドから、ルーカス登場以降、いかに政策に直結した分析が停滞したかについて指摘があります。80年代以降のマクロ経済学説史的な読み物を望んでいる方々にはどちらもおすすめします。2は、学者としての態度を、新古典派は「scientist」、ケインジアンは「engineer」に例えていて、非常に洞察に富んでいます。いずれにせよ、論争、というのはもしかするとマクロ固有の性質なのかもしれません。
経済学と経済政策との距離感: では、最先端の経済学研究と実際の経済政策はどのような関係にあるべきなのでしょうか。旧態依然とした経済学を何十年も信じ続けて処方箋を書くのも危険ですが、かといってどこかの天才が最近思いついたばかりの処方箋をすぐに使うのもやはり危険が大きいと言えます。上で述べた「scientist」としての態度は、目の前の危機の本当の原因を解明し、最も適切な処方箋をそこから発見する、というものです。このような仕事は私たちのように大学で基礎研究を行っている研究者の仕事だと考えて良いでしょう。実際、世界がインフレに苦しんでいた時代には多くのインフレ研究が進みましたし、1997年の通貨危機の後には通貨危機の研究が加速しました。近年の金融危機は今後多くの金融危機研究を生むでしょう。本来、こういった地道な研究から正しい処方箋は得られるはずなので、原因究明もせずにドカンと金融緩和や公共事業をすれば良いという発想は危険に思えます。確かにこれは正論なのですが、残念ながら基礎研究は非常に時間のかかる仕事です。現場では特効薬の開発をのんきに待ってはいられないはずです。「今何をすべきか」を決めなければならない立場の人たちは、やはりその時点で最も頑健性の高い理論(=多くのテストを合格した理論)に立脚した政策を打ち出すべきでしょう。これが上で言う「engineer」の態度です。その時点で手に入るものの範囲内でベストを尽くす必要があるという意味では、医療の現場で働く医師たちと同じです。開発されたばかりで全く臨床試験を行っていない新薬や治療法を患者に与えることは医療の現場では行われていないはずです。研究者たちは常に新しい治療法や治療薬の開発に励み、現場の医師たちは定期的に先端医療を学びつつも、現場での応用は段階を踏みながら導入する。経済学研究と経済政策の、私が考える理想の距離感は、まさに医学における研究と現場の距離感と同じだと思っています。
おわりに: マクロ経済学を定義するのは非常に困難で、そしてそれは決して悪いことではなく、他の分野との違いがよくわからないけど、マクロ経済学的精神で書かれたものをマクロ経済学と呼ぶ、というあいまいな分野であることはむしろ健全である。これが現時点での工藤の考えです。どうしてこんなことを書きたいと思ったのか、いまだに正直よくわかりません。楽しんでくださる読者が一人でもいたら幸いです。