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日本のウェーバー研究はたんなるウェーバー「学習」か?

今野元『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(東京大学出版会、二○○七年)を評す
『図書新聞』2008.5.10.-5.31.


雀部幸

 

 

 

昨二○○七年一二月に、今野元が『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』と題する著作(以下、今野書)を東京大学出版会から刊行した。本書は「政治的学者ウェーバー」の伝記をその政治にかかわる言説の多面的な諸相に目配りしながら書き上げた大作である。氏がドイツのベルリン大学で研究指導を受け、ウェーバー自身の未公刊史料はもとより、かれの同時代人たちや当時の政治諸組織の未公刊史料をもみずから博捜して、ヴォルフガンク・J・モムゼンの仕事につぐ詳細なウェーバーの政治的評伝を著わしたことは、日本のウェーバー研究において新しい挑戦と見なしてよい。しかし、その大いなる挑戦と努力とがどこまで実を結んでいるかといえば、話は別である。氏自身はみずからの成果に恃むところ多大なようだが、遺憾ながら、評者の見方は異なる。

まず簡単な事柄から見ていこう。

(一)たとえば氏がウェーバーの少年時代の作文まで実際に目を通したのは、たしかにメリットではある。しかし、少年時代の作品のなかにすでにその後の「西欧派ドイツ・ナショナリスト」としてのウェーバーの本質が出そろっており、そこで打ち出された基本視点がその後も一貫して変わらなかったとまでいうのは、ウェーバーの人間的学問的な成長発展を看過する不適切な一般化だし、また、神経疾患との格闘を経、しかもなおその後遺症と闘い続けなければならなかったウェーバーの後半生を、疾患以前のウェーバーと基本的に同列に扱うことも同様に不適切な一般化である。

(二)それから、これも氏に特徴的なことだが、「倫理」論文や「教派」論文を、もっぱら政治的・政治思想史的観点から読むのは、はなはだ一面的である。もし「倫理」・「教派」論文が政治的・政治思想史的文書として読まれるべきだとすれば、世界政治のうえで英米と互角にわたり合えるドイツ国民国家の確立という氏の強調するウェーバー畢生の政治的課題からして、「倫理」や「教派」論文はことの一面の核心に迫った文書ではあっても、良くも悪しくも正統ルター派やカトリックに随従するドイツ国民の大多数をそうした国民国家の担い手へと「人間的」に形成し統合する視点はそこにはふくまれておらず、その意味ではそれらの文書は政治的見地からは一面的であり、したがって「倫理」や「教派」論文をウェーバーの政治的課題にあまりにも引きつけて読むのは、それらの論文の真価を正当に評価するゆえんではないと評者は考えるからである。

 ちなみに、氏は「倫理」論文を、「文化的プロテスタンティズムの論客」たちの「『愚鈍なカトリック教徒』に対する嘲笑を、学問的な言い回しで再現したものに他ならない」、とまで極論している(今野書七○頁)。しかし、それでは、ウェーバーが、一九○八年から○九年にかけ「工業労働の精神物理学について」実地調査し、「倫理」論文の問題関心の延長線上で、同時代の労働者の宗派的出自と特性とに論及し、「今日ではカトリックが労働適性の格差とどの程度の関連をもつか」は慎重に検討されねばならぬと述べている事実MWG11,S.280,Anm.35a) 鼓肇雄訳『工業労働調査論』日本労働協会、一九七五年、二○○頁以下、註(8))、また、同様にかれが、およそ「宗派」なるものがひとびとの「生活態度」に及ぼす影響にかんして、「今日のカトリシズム」は「その程度や方向からすると中世のそれとは非常に違っている」と述べている事実ebd.,S.362.Anm.95)同上訳三○五頁、註(5))を、氏はいったいどう見るか、と問われるだろう。

(三)それからもう一つ、氏が膨大な未公刊史料を渉猟してウェーバーの詳細な政治的伝記を著わしたといっても、それではわれわれは、その伝記的事実において、マリアンネ・ウェーバーの著作やヴォルフガンク・J・モムゼンの著作の提供したものを全体として大きく超える事柄を今野書から教えられたかといえば、それは疑問といわざるをえない。大きくいって、モムゼンの伝記的著作はマリアンネ『伝』の後塵を拝しているし、今野書はさらにモムゼン『伝』の後塵を拝している。マリアンネにかんしては、夫を「聖マックス」化したと非難されることが多く、今野もそれに唱和しているが、「聖マックス」化するほどの情熱を傾けてマリアンネが夫の巨人的足跡を詳細に跡付けてくれたからこそ――これは距離を置いて見れば大変な業績である――、後世の人間はこの巨人の全体像を探る大きな手がかりを与えられたのであって、モムゼンをふくむ後世のウェーバー研究者たちはみな彼女から大きな恩恵をこうむっているはずである。

 

 

 

 今野は今回の研究を「モムゼン門下の作業の批判的継承」としている。氏によれば、従来の主として経済学や社会学の分野でなされてきたウェーバー研究はウェーバー「学習」であって、ウェーバーを「分析」の対象としたのはモムゼンただ一人だそうである(今野書一○頁)。氏は、そのモムゼンの最良の部分を「モムゼン門下」が『全集』編纂の注記の作業等で立派に受け継いでおり、自分の仕事もそのモムゼン門下の実証主義につらなるものであって(今野書一○頁以下)、従来の日本のウェーバー研究の大多数とはちがい、立派にウェーバー「分析」の名に値すると、考えているようである。そうした自負のせいか、今野書では、日本のウェーバー研究者たちの仕事はそれぞれの中味が多少とも吟味されることなく十把一からげに切り捨てられたり、だれのどの研究がそれに該当するのかまったく指示されないまま批判されたりしている。

(一)まず後者の例は同書二○三頁におけるウェーバー「ロシア政治分析」の「『近代批判』的解釈」という指摘に見られ、その「解釈」なるものがいったいだれのどの研究を指すのか示唆されてさえいない。前者についていえば、今野書一一頁の上山安敏、嘉目克彦、佐野誠、牧野雅彦、さらには濱島朗、雀部幸への言及に見られ、上山、嘉目、佐野、牧野たちは、レーヴェンシュタインやビーサム、コッカ、トルプ、リンガーとともに、「ウェーバーの西欧的側面を強調して彼を擁護するという図式」に分類されているのだが、かれらを十把一からげにその「図式」で整理して事がすむはずがない。そうした批判的言及をするからには、やはりそれぞれの相手と多少なりとも対質せねばなるまい。

(二)評者である雀部にかんしていえば、雀部は、「西欧主義的価値観」に立って一方ではウェーバーの「西欧的理念からの逸脱を強調して彼を批判」し、他方では逆にウェーバーの「西欧的側面を強調して彼を擁護する」という「対抗図式」、から「逸脱する」政治史・政治思想史研究に分類されているのだが、雀部は「戦後民主主義世代への反撥からモムゼンらが問題視したヴェーバーの一面を健全なナショナリズムとして逆に称揚した」そうである(今野書一一頁)

雀部は、「戦後民主主義世代への反撥」などとあまり簡単に論定してほしくはないというだろうが、それはともかく、いずれにせよ雀部はウェーバーにかんして「健全なナショナリズム」を云々したことがなく、むしろ「逆に」ウェーバーにかんして「ナショナリズム」を云々することは慎重になされねばならぬことを、ゲルハルト・リッターのナショナリズム批判などにも言及しながら、強調している(『ウェーバーと政治の世界』恒星社厚生閣、一九九九年、第一章第二節、『ウェーバーとワイマール――政治思想史的考察』ミネルヴァ書房、二○○一年、四一頁以下)

(三)その点と直接かかわることだが、今野はウェーバーが“national”と記した語を「国民主義的」と訳し、“nationalistisch”と記した語を「国民至上主義的」と訳している(今野書二四六頁)。両者は通常それぞれ「国民的」および「国民主義的」と訳され、邦訳みすず書房版『政治論集』2、六四一頁(これはGPS1.Aufl.,S.469に対応する)においてもそう訳されている。にもかかわらず、もし氏のように訳し変えるのなら、その理由が明記されねばなるまい。ことに、ウェーバーのこの“national”と “nationalistisch”、そしてさらに“imperialistisch”の三語の区別の仕方にかんして、雀部が前掲二著で(同上箇所)かなり踏み込んだ考察をしているのであるから(雀部はその三語をそれぞれ常識的に「国民的」「国民主義的」「帝国主義的」と訳している)、なおさらそうである。

ちなみに、nationalistischを「国民至上主義的」と訳すのなら、Nationalistは「国民至上主義者」と訳されなければならないはずで、それなら、今野書のサブタイトルの「ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯」は、日本語でいえば、「ある西欧派ドイツ・国民至上主義者の生涯」となる。これは表現としてたしかにカール・シュミットのいう「反対物の複合体」(complexio oppositorum)ではあるが(今野書三七○頁)、今野書の含意として、はたしてそれですむのか、と問われるだろう。

(四)ところで、今野は、さきに見たように、今回の自己の研究を「モムゼン門下の作業の批判的継承」としているのだが、その「批判的継承」の「批判的」ということの意味がいまひとつ明瞭ではないし、評者などからすると不徹底といわざるをえない。そもそも師匠であるモムゼンにたいしては、氏は、なるほどその「西欧主義的」バイアスにもとづいてウェーバーを「道徳主義的に診断した」点はこれを批判しまたその批判があるために、氏がウェーバーの政治評論をより多角的に見ることのできている面がないわけではないのだが、氏はやはりモムゼンの業績を「誰でも避けて通れない金字塔であり続けている」として高く評価しており、わが国のウェーバー研究など「学習」にすぎないと見なしているせいか、ほかならぬわが国で徹底したモムゼン批判がなされていることの意味をまともに汲み取ろうとはしていない。

そもそも氏がその「綿密な史料批判」の「作業」ぶり(今野書一一頁)を受け継ごうとする「モムゼン門下」は、「経済と社会」旧稿の編集方針決定にさいする折原浩の綿密な文献学的考証と文書内容的考察とにもとづくモムゼン批判を敢て取り上げようとしていないが、氏もまた同様に、折原のモムゼン批判に触れる必要がないと考えているようである。ちなみに「経済と社会」旧稿編集方針をめぐる折原のモムゼン批判は、簡単には『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』(勁草書房、二○○七年)七七頁以下および一七五頁以下の箇所でその概要を知ることができるが、しかし、その問題にかんしては折原に相応の主張があろうから、以下、折原とは別のモムゼン批判者の一人である雀部にかかわる論点にしぼって今野書の内実を吟味しよう。

 

 

 三

 

雀部のウェーバー政治思想にかかわる前掲二著と分析対象のうえで重なってくるのは、今野書の主として後半部分、とくに第四章および第五章である。

(一)まず、第四章第一〜第四節のウェーバーの対外政治論・戦争論にかかわる部分にかんしていえば、「ロシア領ポーランドをめぐるハプスブルク帝国との抗争」、「潜水艦作戦」の経緯について今野書は雀部のものとくらべ(前掲『ウェーバーと政治の世界』第四章「ウェーバーのドイツ対外政治論――第一次大戦期の講和綱領・戦争目的論・戦後再建論を中心に――」)より詳細に扱っている。しかし、雀部の当該論稿は、第一次世界大戦勃発からドイツの敗戦にかけての時期のウェーバーの対外政治論・戦争論の大枠にかんするものとしては、モムゼンの西欧主義的バイアスおよび道徳主義的裁断からフライな総体的分析として、すくなくとも本邦では比較的早い時期に属する論稿であり、そうしたものとして批判的検討の対象となって然るべきはずのものである。が、今野はそうした対質を行っていない。

(二)つぎに第四章第五節の「内政改革構想」関連の問題に移る。

@ そのうち第一の論点は、「各領邦における選挙権の平等化」とくにプロイセン邦における普通平等選挙制の導入をめぐる問題である。今野は、「かつて平等選挙法に批判的であった」ウェーバーが一九一七年以降平等選挙法の「熱心な推進者」となったのは、基本的には、かれが「前線兵士たちに、少なからず共感をいだ」き、「復員後の前線兵士に、遜色ない選挙権を与えようとした」からだといい(今野書二七六頁)、また、当時「イギリスが選挙法改正の手続きを始めて」おり(「実現は一九一八年二月」)、「同じことがドイツにもできるはずだ」とかれが考えたからだ、ともいう(同上二七八頁)

そのこと自体は否定されるわけではない。しかし、ウェーバーが平等選挙制の導入を不可避かつ不可欠と見なしたのは、そればかりではなく、もっと一般的で広い歴史的パースペクティヴにもとづいてのことであり、その点を今野は適確に掴みだしてはいない。

そのパースペクティヴにもとづく視点とは、第一次世界大戦を契機とする総力戦段階における貴庶各階層の人間の「運命の平等」という観点である。一九一七年一二月の「ドイツにおける選挙法と民主制」におけるウェーバーの以下の文章はそれを如実に物語る。

「だが、積極的には、平等選挙法は・・・現代国家そのものがふたたび作り出したあの一種の運命の平等[つまり戦場における死]と密接に関連している。・・・過去における政治

的権利の不平等は、すべて究極的には[武装自弁の能力があるかないかといった]経済的条件に規定された軍役資格の不平等に由来するものである。こうした不平等は官僚制化された国家と軍隊とには存在しないのである。『国家市民』(Staatsbürger)という現代的概念を生み出した官僚制の支配は誰かれの別なく及び、すべての人々を捉えるが、その支配に対抗する手段はただ一つ、投票用紙あるのみである。この投票用紙という権力手段によってのみ、人々は、その命令とあれば死におもむかねばならない、かのゲマインシャフト[国家]の諸々の案件を、共同で決定する最小限を手にすることができるのである。」MWGT/15,S.371f.邦訳みすず書房版『政治論集』1、二八七頁。強調は原文、[ ]内は評者

 その点でも、雀部はウェーバーにおけるこの「運命の平等」、つまり国民皆兵制=一般兵役義務制の導入の観点に着目し、オットー・ヒンツェの同様の視点にも言及しながら、まさにそれが一九一七年以降のウェーバーの選挙権平等化要求の核心的論拠となっていることを指摘した(前掲『ウェーバーと政治の世界』一九三頁以下、『ウェーバーとワイマール』三七頁以下)

A 第四章第五節の第二の論点は、第一次世界大戦末期のウェーバーによるドイツ政治の議会化構想において「議院内閣制」がそのものとして目ざされていないことをどう評価するかの問題である。

 今野は自著の二八三頁で、ウェーバーは「帝国宰相が帝国議会に責任を負うという『議院内閣制』原則を明確に確立しようとまではしていない。帝国宰相の帝国議会からの選出は飽くまで一つの指導者選抜の手段であり、それ自身が自己目的ではなかったのだろう。」と述べている。この論述には二つの問題点がある。

まず、今野は「帝国宰相が帝国議会に責任を負う」ということがすぐれて「『議院内閣制』の原則」と考えているようである。もちろん「帝国宰相が帝国議会に責任を負う」こと自体は「『議院内閣制』の原則」の一つではある。しかし、それは厳密な意味での「『議院内閣制』原則」を成り立たせる第一の原則ではない。その第一の原則は、「行政指導者がほかならぬ議会から選び出されなければならぬという原則」(ウェーバー)である。

 ウェーバーは「新秩序ドイツの議会と政府」のなかで、ドイツ政治の議会化、帝国議会の権限強化を目ざし、そのために議会が具備しなければならない諸原則を列挙している。その第一は、いま挙げた「行政指導者がほかならぬ議会から選び出されなければならぬという原則(本来の意味での『議会制システム』)」だが、それに続く第二原則として、かれは「そうでないまでもやはり(oder doch)、行政指導者がその職に留まるためには、議会多数派の明示的に示された信任か、もしくはすくなくとも不信任決議の回避を必要とするという原則(指導者の議会による選抜淘汰)」を挙げている。そして第三に、かれは「それゆえ行政指導者が議会もしくは議会委員会の審問にたいして余すところなく陳述し答弁するという原則(指導者の議会制的責任)を挙げ、第四に、「そして行政指導者が議会の承認した方針にしたがって行政を指導しなければならないという原則(議会による行政の監督)」を挙げているMWGT/15,S.473.みすず書房版『政治論集』三七一頁以下。強調は原文)

 ウェーバーはこれがおよそ議会政治と呼ばれるに値する政治の具備すべき諸原則だというのだが、この諸原則の列挙の仕方、とくに第一原則と第二原則との列挙の仕方は特徴的である。その仕方は、oder dochでつながれているわけであるから、いわば選択的列挙とでもいうべき仕方であり、ウェーバーは、ドイ第二帝制の連邦制的な立憲制的君主制の条件下では――じつは敗戦後の国民選出の大統領を頭に頂くワイマール共和制のもとでもそうなのだが――第一原則を採用することができないという含みを持たせて、しかしそれでも第二以下の諸原則を帝国議会が具備するなら、ドイツ政治の議会化の課題は帝国議会レヴェルでは達成される、だからその三原則の実現はなんとしても目ざされるべきだと考えたのである。

 もちろんイギリスで実現を見た厳密な意味での議院内閣制はウェーバーの挙げた四つの原則、とくにその第一原則を具備しているが、この第一原則を具備した狭義の議院内閣制はこれを採用できる国とそうでない国とがあり、それが採用されないからといって、当該の国の政治の議会化が不十分だというわけでない、各国は各国の条件に見合った議会化をすればそれでよいのであって、なにもイギリス型の議院内閣制を金科玉条とする必要はない。このようにウェーバーは考えていたはずである。ちなみに、雀部は、ウェーバーがなぜドイツでは、帝制期においてもワイマール共和制期においても、厳密な意味での議院内閣制(ウェーバーの言葉でいえば「本来の『議会制システム』」)を採用できないと考えていたのか、その理由を両期におけるドイツ・ライヒの国制構造の特質に照らして明らかにしている(『ウェーバーと政治の世界』のとくに二六八頁以下および二九六頁以下、『ウェーバーとワイマール』九八頁以下および一二三頁以下)。そのことを今野は知ってか知らずにか、ウェーバーが「『議院内閣制』原則を明確に確立しようとまではしていない」などとして(強調は評者)、ウェーバーのドイツ政治の議会化構想が議会政治推進の観点からはあたかも限界があるかのように述べているのは、やはり氏がモムゼン的な「西欧主義的」・アングロサクソン政治的バイアスのかかった眼でウェーバーの政治論を見ようとしているからだろう。

つぎに、氏は、ウェーバーにおいて「帝国宰相の帝国議会からの選出は飽くまで一つの指導者選抜の手段であり、それ自身が自己目的ではなかったのだろう」と述べているが、上記のようなウェーバーにおけるドイツ政治の議会化構想は、もちろん議会における政治指導者選抜の課題をもその重要な一環としてはいるけれども、そればかりではなく、いや、すぐれて、議会の権限および権威自体の強化をも目ざすものであったはずである。だいたい「帝国宰相の帝国議会からの選出」をそれ自体として「自己目的」とするような政治は、モムゼンのような議会至上主義者の観念世界以外にはありえまい。

B 今野書第四章第五節の第三の問題点は、ウェーバーの君主制論への氏の言及の仕方に見られる。第五節の「四 皇帝及び連邦諸侯の言論統制」は、ウェーバーがヴィルヘルム二世をはじめドイツ諸邦君主の失言や無責任な虚栄的言動の数々にたいして厳しい批判を差し向けたことに多くのページを割いている。もちろん、そうしたウェーバーの君主批判に言及すること自体に問題があるわけではない。しかし、氏がさらに、それにもかかわらず、ウェーバーがなぜ最後まで君主制の維持にこだわったのか、なぜウェーバーが議会制的な世襲制的君主政体をドイツにとっての最適の政体と考えたのか、それをウェーバーの君主制効用論にまで踏み込んで考察していないことは問題であり、その点の欠落は、氏がウェーバーにおける貴族制評価の視点にかんする積極的な分析を欠落させている点とともに、ウェーバー政治思想の重要な側面を見落とすものといわなければならない。それにたいして雀部は、『ウェーバーと政治の世界』第三章においても『ウェーバーとワイマール』二四頁以下においても、ウェーバーの君主制効用論をくわしく考察しており、またかれの貴族制評価の視点も『ウェーバーと政治の世界』二三○頁以下において相応のページ数を割いて分析している。

C それからもう一つ、ウェーバーの君主制論にたいする今野の理解にかんして看過できない点は、氏がウェーバーの「擁護した君主制」を無概念的に「立憲君主制」としていることである(今野書二八三頁)。氏は「『影響力の王制』[当時のイギリス王制――評者]、つまり君主が議会に日常政治を委任して、高所から監督するという」君主制を「立憲君主制」と呼んでいるのだが、ウェーバーにあっては、それは「議会制的君主制」parlamentarische Monarchieであって、当時のドイツ第二帝制の「立憲制的君主制」konstitutionelle Monarchie(「大権の王制」)とは区別されるものである。この概念的区別は一九世紀ドイツの国法学者たちに共通のものであり、ウェーバーもまたそれにしたがって君主制論を展開しているのである。ちなみに、ウェーバーの場合には、ドイツ第二帝制の「立憲制的君主制」から「議会制的君主制」への推転が課題であった。この概念的区別、推転にかんするウェーバーの所論は、雀部の『ウェーバーと政治の世界』第三章「ウェーバーの君主制論」第四節「議会制的君主制と立憲制的君主制」および『ウェーバーとワイマール』第二章「ウェーバーのドイツ政治改革論」第一節「ウェーバーの統治形態類型論」において追究されている。 

 

 

 四

 

今野書第五章で、評者の観点からしてとくに問題をふくむ箇所は、やはり第三節「ヴァイマール共和国の国制構想」である。

(一)今野はウェーバーの当該の国制構想が「共和主義」、「大ドイツ主義」、「統一主義」の「三原則」によって「貫かれている」と特徴づけている。このうち前二者については異論がないが、「統一主義」(Unitarismus)を単純に当時のウェーバーの立場とすることはできない。そもそもその立場は「大ドイツ主義」と矛盾する。そのことを明確にするためには、まずUnitarismusの訳語の確定から議論を始めなければならない。Unitarismusに対置される言葉はFöderalismusだが、Föderalismusは「連邦主義」であるから、それと対置される――ウェーバーも『ドイツ将来の国家形態』において、Unitarische oder föderalische Lösung? Einheitsstaat oder Bundesstaat?と二者択一的な問題提起をしているMWGT/16,S.111. みすず書房版『政治論集』2、五○四ページ)――Unitarismusは、「単一国家主義」という訳語を当てるのが妥当だろう。そのように事柄をはっきりさせると、Unitarismusはワイマール共和国国制の「大ドイツ主義的解決groβdeutsche Lösung(ebd.,S.117. 同上五○九頁)と矛盾してくる。なぜなら、ライヒ国制の「単一国家的解決」(unitarische Lösungは、独自の通貨と発券銀行、異質な財政運営と通商政策的要求とをもつオーストリアとの合併を不可能にする、とウェーバーは考えていたからであるebd.,S.116.同上五○九頁)

そのうえ、なによりもウェーバー自身が、『ドイツ将来の国家形態』において、新生の共和国においては結論的に「連邦共和制」(Föderativrepublik)が目指されるべきだとしている(ebd. 同上)のであるから、かれが個人的な信条からすればUnitarismusを採りたいと希望していたとしても、すくなくとも近い将来においては、ドイツの国制はFöderalismusに立脚せざるをえないと見なしていた。その理由は、ウェーバーによれば、一、ドイツ国制の「単一国家的解決」はドイツの弱体化を目指す連合国側がそれを許さないだろうし、二、それはまた上記のように「大ドイツ主義的解決」を不可能にするだろうし、さらに三、オーストリアだけでなくバイエルンも、その歴史的伝統的に「正当化される特性」(die berechtigte Eigenart)からして、そうした「単一国家的解決」に激しく抵抗するだろうからである(ebd. 同上)。今野も、ウェーバーのこうした理由づけを見ないわけではなくそれに言及してはいるのだが、なぜか氏はUnitarismusをウェーバーの戦後国家構想の三大原則のひとつだとする自説に固執している。

(二) しかし、その固執は、帝制期の「連邦参議院」Bundesrat 今野はこれを「連邦評議会」と訳している)をどう改編して共和国国制に組み込むかにかんするウェーバーの見解の、今野による一面的な解釈の問題につながる。

今野は、Bundesratを解体してアメリカ合衆国「元老院」(上院)に見合ったStaatenhaus(今野の訳語は「分邦院」、雀部の訳語は「連邦院」)を創設するというのがウェーバーの構想だったとしている。それではBundesratとStaatenhausとがどう違うかといえば、今野によれば、Bundesratは(第二)帝国内各邦政府がその訓令にしたがって行動する「代理人」を派遣するという形式にもとづいて組織されているのにたいして、Staatenhausはかつての邦に対応する地域(ワイマール共和国では州)住民の「直接選挙で選出され、自分自身の意志で行動する各邦の『代表者』によって構成される」というところにその違いがあるという。

このうちの前半部分の説明は妥当だが、後半部分に指摘された内実のStaatenhausをウェーバーが提案したかといえば、その事実はない。今野がここで説明しているStaatenhausはアメリカ合衆国のSenate(元老院、上院)に対応し、今野はウェーバーがそれ(など)を参考にしてかれのStaatenhausを構想したというのだが(今野書三三七頁)、それは違う。

ウェーバーは、「純粋に民主主義の観点からすれば」、「住民選挙」方式にもとづくアメリカ型のStaatenhausが望ましいけれどもMWGT/16,S.124.『政治論集』2、五一五頁)、しかし、現在ドイツの諸条件のもとではそれは採用できない、と断っている。その理由は、かれによれば、第一に、「今日、『ベルリン』の信用がいちじるしく失墜し、ライヒの憲法制定議会とならんで各邦の憲法制定議会が並存する」という状況のもとでは、ライヒへの自邦政府の政府としての応分の要求権を「代理人」原則によって連邦主義的「中央機関」に反映させようとする各邦政府の動きを抑えることができないからだし(ebd.,S.122. 同上五一三頁)、第二に、なんといってもそうした「住民選挙」方式にもとづくStaatenhausがドイツでうまく機能しうるという「明白な経験的証明が欠けているから」であるebd.,S.126. 同上五一六頁)

さらにウェーバーは、アメリカ的なStaatenhaus方式の採用を不可能とするについて、第三にもっと即物的に重要な理由を挙げている。そもそもウェーバーは敗戦後のドイツ復興のためには「労働の最高度の合理化」が必要だと考えていたが、かれは、それを行財政面で達成するためには、ライヒ行政の執行とその監督、ライヒ行政への注文等の業務に各邦「政府の代表者」が関与することがぜひとも必要であり、そうした関与は、実際には各邦政府の「訓令」を受ける「代理人」たる「官吏」(Beamte)がこれをもっとも効率的に行うことができるのであって、とりわけ「住民選挙」方式の地域住民「代表」たるStaatenhaus議員(各邦選出議員)にその十全な代役を務めさせることは不可能だと考え(ebd.,S.116. 同上五一三頁以下)、そこから(も)かれは、アメリカ的なStaatenhaus方式を現下のドイツに取り込むのは不可能だと見なしたのである。

そこで結局ウェーバーが第二帝国のBundesratにかわるワイマール共和国の連邦主義的中央機関として提案したものは、一八四九年「フランクフルト憲法」方式のStaatenhaus(ちなみに雀部は、同憲法のStaatenhausに限り、それを「諸邦院」と訳している)であるebd.,S.57,74.対応する邦訳なし)。それは、同憲法第八八条によれば、議員の半数を「各邦政府」が、別の半数を「各邦議会」がこれを任命するというものでありE.R.Huber,Dokumente zur deutschen Verfassungsgeschichte,Bd1,Kohlhammer,1978,S.384. 高田敏ほか訳『ドイツ憲法集』信山社、一九九四年、三一頁)、これなら、敗戦前に帝国のBundesratの議会化のために知恵を絞ったウェーバーの志向をある程度かなえることができると同時に、Staatenhaus議員の半数は政府の任命になるのであるから、ライヒ行政への各邦の効果的関与というさきに見たドイツ・ライヒの現下の必要にも応えることができるだろうと、ウェーバーは考えたものと思われる。しかし、このフランクフルト憲法のStaatenhaus方式にはじつは難しい問題がふくまれており、はたしてウェーバーがそれをどのように見てどのように解決しようとしていたのか疑問が残る。だが、そのことは当面の今野書の吟味とは別問題であるから、ここではその問題に立ち入らない。なお、その問題性をもふくめて、以上に述べたことの詳細は、雀部の『ウェーバーと政治の世界』二九○頁以下および『ウェーバーとワイマール』一一八頁以下において考察されている。

(三)さて、今野書第五章でとくに検討されなければならない第三の論点は、ウェーバーの「直接公選大統領」構想の理解にかかわる問題である。

 今野は、ウェーバーがライヒ大統領のあり方にかんし、アメリカ型の国民選出の大統領制をとるか、あるいは、とくに(当時の)フランス型の議会選出の大統領制をとるかの選択を前にして前者を選択したとし、その理由として、第一に、かつての第二帝国のBundesratが結局Reichsratとして「ドイツ将来の国家形態」でウェーバーが構想していたものよりもさらにföderalischな要素をつよく残す形で「温存」され、それに対抗するunitarischな要素として国民投票的民主的正当性に立脚した官職を国家最高の地位に据える必要のあること、第二に、新生ドイツ共和国でも実力ナンバーワンのプロイセン邦→州)の首長に十分太刀打ちできその上位に立ちうるライヒ首長を置くためには、その首長がやはり直接国民投票による民主的正当性に立脚する必要のあること、第三に、新生ドイツにおいてライヒ議会が比例代表選挙制を導入し、ウェーバーの視点からすれば議会本来の機能を十分果たせそうにないがゆえに、その補完機関として直接国民の意思に立脚するライヒ首長が必要であると考えられたこと、第四に、新生ドイツのライヒ「国会の中心に位置する多数派・独立社会民主党に、ヴェーバーは人間の精神的自律を押し潰す『官僚制』の影をみていた」こと、の諸点を挙げている(今野書三三七頁以下)

これらの理由づけそのものに特別問題があるわけではない。しかし、ここでも今野はウェーバーのワイマール共和国国制構想への「アメリカ合衆国の影響」を過剰に見すぎているきらいのあることが指摘されねばならない。氏は、自著の三三一頁で、「ヴェーバーの戦後国制構想は、アメリカ合衆国の影響がとりわけ顕著なものになっている。ヴェーバーにとってイギリス国制への親近感は依然として捨てがたいものだったが、君主制再興が不可能不都合であると判断したときに、割り切ってアメリカ国制に目標を換えたのである。」と、それこそ割り切った整理をしているが――そこから、ウェーバーの新Bundesrat構想にたいするさきに見た今野の一面的な解釈が生まれる――、そう簡単に整理することはできない。やはりウェーバーにとって、アメリカはアメリカであり、ドイツはドイツである。アメリカの国制の基本は大統領制だが、新生ワイマール共和国の国制は、ウェーバーの定義によれば、「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが並存する国民投票的代表制的統治」であるWuG,5.Aufl.,S.173. 世良訳『支配の諸類型』一九六頁。強調は原文)

この定義からも窺えるように、ウェーバーの戦前戦後のドイツ政治改革論を見る場合に、かれの統治形態論を視野に入れることがぜひとも必要である。だが、今野はその必要性にたいして然るべき注意を払っていない。いまここで問題となる点をいえば、ワイマール国制はウェーバー的には「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが並存する国民投票的代表制的統治」と定義されるものであるから、大統領制とライヒ議会制、Reichsrat制、ライヒとかつての諸邦たる諸州、ライヒと最大最強の州たるプロイセン、これらの相互関係をウェーバーがどのように考えて新生ドイツの国づくりに臨もうとしたのかを、詳細かつ明晰に分析せねばならない。その要求基準からすると、今野の論述は単純で一面的だといわざるをえない。

(四) ところで氏は、この箇所の最後の所で、ウェーバーが「直接公選大統領に大きく期待したのは事実だが、それは彼がドイツ国会無用論に傾斜したということではない。」と述べている(今野書三三九頁)。これは、ウェーバーの「[ワイマール]憲法提案は、純粋な議会主義からの離反を表明するものである」、「極端な知的合理主義にもとづいて、ウェーバーは人民の自由な自己組織という民主主義思想から訣別した」とするモムゼンの見解Mommsen, Max Weber und die deutsche Plitik 1890-1920, 2.Aufl.,Tübingen,1974,S.363,420. 未來社版訳U六一八頁、七○三頁)を意識して、それを修正しようとしたものと思われる。それならば、氏は、さらに立ち入って、ウェーバーが「カエサル主義的人民投票的民主主義思想とライヒ大統領のカリスマ的指導者としての地位の確立をめざす憲法構想」によってヒトラーの権力掌握に意図せずして道を開いたとするebd.,S.205,436f. 同上訳T三三六頁、訳U七二五頁以下。 なお、Mommsen,Max Weber and the German Politics 1890-1920,Paperbackedition 1990,p.Fをも参照)モムゼンのウェーバー研究の肝心かなめの論点をどう評価し、そのモムゼンの主張にたいする雀部の批判をどう考えるのか、と問われるだろう。それとも、氏は日本の先行研究などたんなるウェーバー「学習」にすぎないから、そんなことなど問題にしなくてもいいと考えているのであろうか。

以上、総じていえば、今野書は、その自負の大きさにもかかわらず、得意なはずの史実の発掘という点でも先行のマリアンネ『伝』およびモムゼン『伝』を大きく超えるものとはいえず、また、その史実、つまりウェーバーの政治的発言・政治思想の「分析」・解釈という点では、結局皮相で突っ込み不足が目立ち、しばしば一面的な解釈に陥っている。

ウェーバーの「政治構想」が全体として「知性主義の逆説」を示すという今野書の「結論」も、はなはだ不明瞭である。知性主義の「限界」ということなら、ウェーバーのつとに指摘したところであり、カントの物自体と現象との峻別を承知している者なら直ちに理解可能なコンセプトであるが、しかし知性主義の「逆説」などということは、およそ概念的明晰性を欠き、論評の域外にある。

なお氏は、その後、この意義不明瞭な「知性主義の逆説」に加えて、「マックス・ヴェーバーの呪縛」を云々しているが(今野元「マックス・ヴェーバーの呪縛――現代ヨーロッパに見る『知性主義の逆説』」『UP』二○○八年二月号四四頁以下つい数年前にマックス・ヴェーバーの犯罪などと空騒ぎした向きがあったが、今度は「マックス・ヴェーバーの呪縛」だそうである)、そもそも氏は「逆説」や「呪縛」をいう前に、ウェーバーのテキストを注意ぶかく読み解き、的確に「分析」する必要があろう。しかし、そのためには、さらに、氏がたんなる「学習」と見なしたわが国のウェーバー先行研究との対質を避けるわけにはいくまい。