ブログ201404-

橋本努

 

 

      自己否定のディレンマ

 

折原浩、熊本一規、三宅弘、清水靖久『東大闘争と原発事故』緑風出版

 

折原浩様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 東大では学園紛争当時、理工系の若手研究者が寄稿する『ぷろじぇ』という同人誌がありました。教員が書いた入門書の誤りを批判する、というようなことを、抜群の力量を備えた学生たちが行っていたようです。山口幸夫、高木仁三郎、梅林宏道らが参加していました。

彼らは、「大学解体」や「自己否定」の問題にも敏感に反応するような、実存主義的社会派でした。結局、みんな大学を辞めて、たとえば三里塚闘争で自分を鍛え直したうえで、住民運動・市民運動に取り組みました。専門性を活かして、「民衆の科学」「市民の科学」を標榜し、それぞれ運動を担いました。

 折原先生も、このような方向で、大学を辞職する選択肢を考えましたが、しかしその方向よりも、大学という現場にとどまって、学生たちが「体制テクノクラート」になっていく軌道を、「自己否定的な反テクノクラート」の方向に転ずる方途を探ることになります。そこには「自己否定のディレンマ」という問題があった、ということが本書で綴られています。69-72頁。

 

 

      所有権よりも競争環境

 

ダニエル・コーエン『経済と人類の一万年史から、21世紀世界を考える』林昌宏訳、作品社

 

林昌宏様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 さまざまなエピソードが散りばめられていて、楽しく読めます。

 1929年の世界大恐慌のとき、アメリカでは、耐久消費財は、主として分割払いで購入されていました。家具の85%、蓄音機の80%、洗濯機の75%、が分割払いでした。ところが途中で返済できなくなると、購入した商品は、すでに支払った金額とは無関係に、差し押さえられてしまったようです。差し押さえられるという不条理な事態に直面して、人々の多くは、分割払いで物を買うリスクを認識したのでしょう。その後、購買意欲を減退させました。実際、1929年から1933年にかけて、耐久消費財の購入は、50%も減少しています。

 ***

 17世紀以降のイギリスにおける経済的成功を説明するために、ダクラス・ノースが引き合いに出した理由は、イギリス社会の特徴として、「所有権の尊重」、「健全な国家財政」、「効率的な市場」がすでに存在した、ということでした。

 しかし同じような条件は、当時の中国にもあった、というのがケネス・ポラメンツの理解です。中国ではすでに15世紀に、世襲制度が崩壊しています。中国ではさらに、17世紀以降、農業から手工業への移行も比較的容易にすすみ、消費社会も開花しています。にもかかわらず、産業革命は、中国では怒らす、イギリスで生じました。なぜでしょうか。あるいはなぜ、中国はその後も停滞したのでしょうか。

 ポラメンツによる説明は、地理的な条件がもたらす偶然、というものです。中国では、14世紀初頭におけるモンゴル襲来以降、国内を安定させることが優先課題となりました。そこで、貿易と産業が衰退し、腐敗や縁故主義がはびこることになった、というのです。

これに対してヨーロッパでは、国民国家ないし帝国を単位とする、列強諸国の競争という環境が生まれました。この環境が、経済成長に対して有利に働いたというわけです。所有権制度の確立よりも、競争環境の整備が大切、ということですね。

 

 

      かわいそうな女の子綾波レイを救ってあげる

 

宇野常寛『原子爆弾とジョーカーなき世界』メディアファクトリー

 

宇野常寛様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 『ダヴィンチ』その他に掲載された評論をまとめた本です。

 エヴァ『Q』は、それまでのリメイクだった『序』『破』とは違って、その14年後の2029年に舞台を設定しています。シンジは、14年間、エヴァ初号機と同化していたという想定です。ところがシンジは、初号機から分離され、14年のあいだに激変した世界にショックを受けます。

 前作の『破』の結末では、エヴァ初号機が覚醒。それをきっかけにしてサードインパクトが生じ、人類は破滅寸前にまで追い詰められたことになっています。また、サードインパクトは、碇ゲンドウが意図したものだったということを、ネルフの一部の人たちが知ります。かれらは離反して、新たに「ヴィレ」という組織を作ります。

 『序』『破』と『Q』のあいだの違いを考えてみましょう。

『序』『破』では、碇ゲンドウは、人類補完計画にコミットメントし、その妻ユイは、エヴァ初号機と一体化しています。そして息子のシンジがエヴァ初号機に乗って、ユイ(母)のクローン的な存在である綾波レイを救うことになります。これはいわば、家族小説的な物語ですね。ある意味で女性差別的ですが、社会のためにコミットメントしている男性主人公を、無条件で肯定して包摂してくれる女性がいる。そうした状況の下で、男性主人公のシンジは、かわいそうな女の子綾波レイを救ってあげることでもって、家父長的な「自律」と「自尊心の基盤」を手に入れます。

そのような物語を演じあった男女が「家族」を形成していくのだとすれば、それは、戦後家族的なモチーフと重なるでしょう。しかしシンジは、社会的に成熟することなく、幼児的な段階に留まっています。ある意味で、それが現代社会の問題性を表現しているのかもしれません。

 ところが『Q』では、家父長的な家族観を中核とする「ネルフ」組織が分裂、新たに組織された「ヴィレ」が「ネルフ」に挑みます。男女観の違いに基づく組織分裂のようなものですね。「ネルフ」の物語がすでに破綻しているとして、では、ミサト、リツコ、アスカ、マリ等が組織する「ヴィレ」は、どんな男女の物語を描くことになるのでしょうか。あるいは、「ネルフ」と「ヴィレ」という二つの組織の対立を、弁証法的に止揚する「第三の道」はあるのでしょうか。映画の続編が期待されます。

 

 

■人生の悩みは、哲学では解けない

 

仲正昌樹『〈ネ申〉の民主主義――ネット世界の「集合痴」について』明月堂書店

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「神」という字は、「示す」に「申す」を組み合わせていて、たしかに興味深いですね。

「示」は、「祭壇」という意味。「申」は、「稲妻が伸びる様子」。

祭壇に轟きわたるものが、「神」です。

インターネット上にも、祭壇があります。ネット上の祭壇で轟くものは、不特定多数の人々の、ある種の声(書き込み)です。「民の声は、神の声」という、中世ヨーロッパ以降に使われるようになった標語がありますが、ネット上の声は、そのような神聖な、反論できない力をもつ場合があります。

ネット上の言説空間で、ルソーのいう一般意志のようなものが形成されるとすれば、(それはたんなる全体知であったり集合痴であったりする場合ももちろんありますが)その意志こそが、民主主義の基礎になるかもしれませんね。その場合には、知識人の権威的な作用をもった言説など、無用になるでしょう。

ただ問題は、一般意志がどのように生成するのか。その生成プロセスに、民主主義の「手続き的正義」はあるのか、でしょう。

これとは別に、本書の最後の方で、「哲学」に関心をもつひとには、「悩んでいる」人が多いということが述べられています。悩みといっても、高尚なものではなく、彼女がいない、友達がいない、金がない、将来が不安、といった悩みです。そうした悩みに対して、それは君、〇〇という哲学者も悩んでいた「コレコレ問題」だよ、などと言って、あたかも哲学が解決できるかのように示唆されることがあります。私たちの社会で「哲学」と呼ばれているものは、往々にして、宗教書とか、スピリチュアル系の本とか、メンタル・トレーニングの本などと、あまり変わらない。

 けれども、人生論的な悩みの多くに対しては、哲学では解けないことを、明確にしないといけない。例えば、恋人ができない人に対して、「君はすでに哲学的な問題を悩んでいたんだ」、などと煽ってはいけないわけです。

他方で、哲学者は、哲学をかじったことのある青二才を愛する、というのも真実です。哲学上の秘儀へと誘惑するための言説もまた、哲学とみなされます。

 

 

■ケイパビリティの二重基準

 

神島裕子『マーサ・ヌスバウム』中公選書

 

神島裕子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 マーサ・ヌスバウムは大学二年生のときに、ギリシア悲劇専門の劇団から仕事を依頼され、その仕事に専念するために大学を中退しました。将来は俳優になりたいと思ったのです。ところがしだいに、自分がしたいことは「劇について研究することだ」と気づいて、ニューヨーク大学に編入します。

 編入後、大学の授業でアラン・ヌスバウムと知り合い、結婚します。アランがユダヤ人であったこともあって、マーサ・ヌスバウムは、ユダヤ教に改宗しました。ヌスバウムの思想の背景には、新アリストテレス主義とユダヤ教との結びつきがあるのですね。とても興味深い事実です。

 例えば、「早死にしないこと=長生きすること」「適切な住まいをもつこと」「教育を受けること」「安全であること」といった価値は、「ヒューマニズム」の理念に基づくものです。リベラルな観点から、公共政策の価値目標として掲げられます。しかしこれらの価値は、アリストテレスのいう機能(エルゴン)に関する一定の解釈から導くこともでき、あるいはまた、ケイパビリティの概念によって解釈することもできます。ヌスバウムの政治思想の面白さは、リベラルな理念と、アリストテレス的な理念、あるいはケイパビリティのアプローチによって、重なり合う思想を紡ぎ出すところにあるのでしょう。

 一つ、これは難問と思われるのですが、1972年のウィスコンシン州ヨーダー事件に対する、最高裁判決をどう理解するか、という問題があります。あるアーミッシュの親が、自分の子どもに対して、通常の義務教育(七歳から十六歳までの期間)の最後の二年間の就学を、拒否します。これが憲法の理念に反するかどうか、という問題ですね。

 「自律」を価値とするリベラリズムからすれば、義務教育の最後の二年間を拒否することは、認められないようにみえます。ところが「ケイパビリティ」の観点からすれば、14歳までの義務教育を受ければ、「自律」のための「潜在能力」を獲得した、と解釈することができます。14歳では、自律することはできませんし、自律の条件を獲得したということもできません。それでも、「自律の可能性を手に入れた」と解釈することはできます。こうした解釈から義務教育の閾値を判断することは、憲法が規定する人間像に反しない、と理解することもできます。ケイパビリティは、自律のための能力であり、自律することを強いる理念ではありません。ケイパビリティの理念は、その気になれば自律できるという時点で、人間を社会的に承認することになります。

 しかしこのように発想すると、ケイパビリティの閾値というのは、かなり低い水準であることが分かりますね。アーミッシュ以外の人にとっても、義務教育は14歳まで受ければ、それでかまわない、ということになるかもしません。ケイパビリティ・アプローチは、リベラリズムの「自律」理念とは異なる基準を提供しています。

 他方で、私たちは、高校の授業料を無料化する政策を検討しています。高校を卒業することは、格差社会問題を克服するための、一つの政策であるとみなされます。できるだけ多くの人が高校を卒業することができれば、学歴の格差は縮まるでしょう。こうした格差克服のための政策は、ケイパビリティの閾値を、かなり高く設定しています。高い理想のケイパビリティ(「(潜在力)ポテンシャリティ」と私が呼ぶもの)を掲げるものであります。

この高い理想(ポテンシャリティ)と、「自律可能性のための最低限の潜在能力」を、私たちは区別して考える必要があるでしょう。自律の可能性や自律のための条件を超えて、さらに高度の潜在能力を発揮するための支援は、別の仕方で正当化されなければなりません。基本的な義務教育の閾値と、政府が無償で提供しうる高等教育の閾値。ケイパビリティ論は、これら二つの規準を整合的に正当化するように、理論化されなければならないようにみえます。

 

 

      ネット選挙は政治的関心を刺激するのか

 

西田亮介『ネット選挙 解禁がもたらす日本社会の変容』東洋経済新報社

 

西田亮介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ネット選挙の解禁によって、これまでのような「均質な公平性」のもとでの選挙活動ではなく、自由な情報戦が可能になりました。その意味では、情報技術がある立候補者と、情報技術がない立候補者のあいだに、格差がうまれます。

また、最新の情報技術や、その情報伝達がもたらす帰結は、予測しがたい点が多々あり、結果として、どういう問題が生まれるのか、ネット選挙を実際にやってみないと分からない点も多いでしょう。試行錯誤を積まなければ、何が公平なのかについても、事前には分からないという点が興味深いです。カール・ポパーが示唆するように、「漸進的な改良主義」でもって、システムを改良していくことが、望ましいわけです。

ネット選挙がオープン・ガバメントの考え方と結びつくとすれば、政治は一歩前進するはずです。ただ実際問題として、韓国のケースでは、ネット選挙を解禁しても、投票率が上がったわけではなく、むしろ投票率は下がりましたね。ネット選挙は、政治的関心を刺激していない、という結果も出ています。ネットに感応的な若い世代の人々の割合が、人口比でみると少ないということも、一因でしょう。

 

 

■初音ミクは「誰にでもなれる人」

 

遠藤薫『廃墟で歌う天使』現代書館

 

遠藤薫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書の副題は、「ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読み直す」ですが、ベンヤミンのほかにもいろいろと論じられています。

 とくに、初音ミクの成功は、興味深いですね。

 初音ミクは、既存の技術の複合体です。基本的には、アニメの映像と、音楽作成ソフトを組み合わせたものであり、ユーザーが自分なりにカスタマイズできるようになっています。

 ユーザーというか、初音ミクの「ファン」たちは、このキャラクターが、特定の人格を持つとは考えていませんでした。初音ミクは、「誰にでもなれる人」であり、ファンにとっての、自己表現になりうるものでした。

 あるときは、コレコレの姿で、別の時はコレコレの姿で、という具合に変幻自在なイメージをもつわけです。ファンはこの変幻自在性の幅(偏差)を受け入れました。中核に、あるオリジナルなキャラクターがあって、それをユーザーたちが変形して偏差をつくりだすというのではありません。特定の中核的内容がないまま、イメージが増幅されていくわけです。そんなキャラクターが成功したというのは、ネット時代の面白い現象です。

 原型をリメイクすれば、誰でも自分の好きなキャラクターを作ることができる。しかし「リメイク」は、これを違法とする知的所有権に抵触します。権利上の問題をはらみながら、爆発的に成功していくところが、社会学的に興味深いですね。

ただ、初音ミク以外にも、いくつかのキャラクターが、得意とするジャンルごとに生み出されました。それにしたがって、初音ミクのキャラクターも、差別化され、特定されていきました。するとそこから、初音ミクは特定の人格をもつようになった、ということかもしれません。

 

 

■地域通貨と家事労働

 

西部忠編『地域通貨』ミネルヴァ書房

 

西部忠様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 地域通貨研究の最新の成果を知る上で、本書は決定版です。

 序章「地域通貨とは何か」では、ルーマンのコミュニケーション・メディア論から、地域通貨というメディアの位置づけへと、議論が展開されています。

 ルーマンの場合、コミュニケーション・メディアには、進化論的に三つの段階があるとされます。第一に、聴覚的・視覚的記号を使用することで、「意味」のためのコミュニケーションを成立させる言語があります。この言語によって、私たちは「理解」の不確実性を減少させます。

 第二に、文字、印刷、通信技術等の、言語を拡充するメディアがあります。これは「到達」の不確実性を減少させます。

 第三に、貨幣や、真理や、権力や、愛や、規範など、「象徴的に一般化されたメディア」があります。これは「成果(受容)」の不確実性を減少させます。

 問題はおそらく、この「象徴的に一般化されたメディア」を、どのように評価するかですね。

 経済や政治や学問が、それぞれに固有の機能分化を遂げるというのであれば、なにも問題ないのですが、これらの領域が互いに侵食したり相互浸透したりするときに、なにが対抗原理となるのかという問題が残ります。

 コミュニティとしての家族という観点からすると、女性の社会進出(貨幣経済への包摂)は、「家事労働」を、「賃金の機会損失」とみなす(貨幣で計算する)ようになります。それは貨幣経済からの家族の相対的な自律性を、削ぐことになりますね。あまりにも貨幣経済が進出しすぎているのだと判断されるわけです。

 では、女性の労働に対する対価を、「地域通貨」によって代替する場合は、理論的にどうなのでしょう。その場合でも、「家事労働」は、「賃金の機会損失」として、貨幣で計算されるかもしれませんね。

ただ、地域通貨で計算されるかぎりでは、家事労働は、「コミュニティに埋め込まれた労働」との対比で比較されるのであり、「家族」と「共同体」の規範衝突として理解されるでしょう。「家族」と「資本主義」の規範衝突よりも、「家族」と「コミュニティ」の規範衝突の方が、制御可能であり、対処可能です。この規範衝突は、「善の多様性」の問題であって、「善の喪失」の問題ではない、ということになるでしょうか。

 

 

■リベラリズムと反リベラリズムの共存状態

 

仲正昌樹編『「法」における「主体」の問題』御茶の水書房

 

野崎亜紀子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 現代社会の規範原理(とくに法)は、「リベラルな主体」が「自由な社会をつくる」という想定のもとで正当化されることが多いですね。しかし、そもそも「リベラルな主体」が自由な社会をつくるという場合に、いったい、だれがどのようにして「リベラルな主体」をつくるのか、という問題が生じます。その形成過程は、実は、リベラリズムが排除している原理によって成り立つのではないか。

 例えば、リベラルな社会のもとで、子育てや介護をだれが引き受けるのか。それらを引き受ける主体の社会的脆弱性を、どのように考えるのか。こうした問題を、リベラルな社会は、これまで公的な問題とするのではなく、私的なオイコスの領域に任せ、正義の問題から排除してきた、という事情があります。

 これらの問題に対して、他者の脆弱性を承認しつつ、リベラルに対応しようという態度もありえますが、リベラルになればなるほど、実効的な対応ができなくなるかもしれません。制度的な有効性と、社会実践的(社会運動的)な有効性のあいだには、大きな溝があるかもしれません。この二つの関係は、それ自体がイデオロギー対立の種になります。

制度的にはリベラリズムが有効でも、実践的には反リベラリズムが有効である場合があるわけです。この二つのイデオロギーは、対立しながらも、カップリングしている可能性があります。人生の指針は反リベラリズム、でも、制度としてはリベラリズムを支持する、というねじれた哲学を、どのように説明すべきなのか。それが問われているのではないかと思いました。

 

 

■イギリス発のヨーロッパ構想

 

遠藤乾『統合の終焉 EUの実像と論理』岩波書店

 

遠藤乾様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 1988年に、サッチャーは、イギリス外務省が仕立てた演説のなかで、自らのヨーロッパ構想を語ります。それはいわば、分権的な統治の構想であり、フランスその他の国が提案する、垂直的な統合の構想と対立するものでした。

 イギリスの外務省は、この演説でのビジョンによって、イギリスが東欧諸国をECに取り込むための理念を提供できる、と考えました。ところが実際には、その意図は理解されず、EC統合のあり方そのものに批判を投げかけるものとみなされました。そもそもサッチャーがそのような懐疑的態度をとっていたため、ということですね。理想だけでは通用しない、政治の難しさがよくわかります。

 

 

■制度に代わって権能強化がリスクを吸収する

 

宮島喬、舩橋晴俊、友枝敏雄、遠藤薫編『グローバリゼーションと社会学』ミネルヴァ書房

 

宮島喬様、舩橋晴俊様、友枝敏雄様、遠藤薫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「第一近代/第二近代」というベックの分類があります。「第一近代」においては、個人の自由が増大する一方、そのリスクを「家族」「職業」「地域社会」「国民国家」などが、セイフティネットとして引き受けてきたといえます。ところが「第二近代」になると、福祉国家は危機に陥り、国民国家は脆弱なものとなります。また地域社会や家族や職業も、セイフティネットとしての役割を果たさないようになります。

 そのような「第二近代」においては、近代の再帰性が高まる、というわけですが、どういうことでしょうか。

個人の自由、政治的自由(リベラルな権利)、市場の自由といった自由は、リスクを増大させていきます。ですので、これらの自由は、安定した活動として、制度化されなければなりません。しかし、そのリスクを吸収してきた制度や組織も、同時にリスクを増大させていくのだとすれば、自由に対するセイフティネットは、どのように築くべきなのかが、あらためて問題になるわけです。

 この「リスク社会」の進展と並行して、ラッシュが指摘しているのは、「後期近代(第二近代といってもいいでしょう)」において、それまでの「近代化=主体の服従化subjugation」の論理に代えて、「主体の権能強化empowerment」が生じている、という事態です。この権能強化は、ラディカルで多元的な民主主義の政治を可能にする要因です。

 こうした二つの観点から、「第二近代」の特徴を考えてみると、「自由vsセイフティネット(規制や制約を含んだ連帯の関係)」という対立関係が、大きな変容を遂げる一方で、個人をエンパワメントする作用が生まれてきた、ということですね。この複合体を理論化すると、セイフティネットとエンパワメントが機能的に等価な関係に置かれる、ということになるでしょうか。第一近代における自由は、抑圧からの自由であり、そのリスクは、抑圧的ではない不自由としての諸制度によって支えられています。また、抑圧からの自由は、主体化による超越的な権威への服従化と同時に、与えられています。

 これに対して第二近代における自由は、権能強化としての自由であり、それは制度に代わって、個人の行為がもつリスクを吸収します。そのような自由を、「潜在能力の強化」と読み替えることもできるでしょう。セイフティネットのリスク化は、個人行為におけるリスク吸収と同時に進行します。ただしギデンズであれば、それは「信頼」のメカニズムが働いているからだ、と言うでしょう。潜在能力の強化は、自己を他者に投げ出す関係性の強化(信頼の強化)とともに、与えられているのかもしれません。

 

 

■ナイトのミーゼス批判は正しかったのか

 

イスラエル・M・カーズナー『ルートヴィッヒ・フォン・ミーゼス 生涯とその思想』尾近裕幸訳、春秋社

 

尾近裕幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ミーゼスの大著『ヒューマン・アクション』は、最初はドイツ語で『国民経済学』として出版されました。この本に対して、フランク・ナイトは書評を書いて批判しています。ミーゼスは1930年代における経済学の新たな発展を考慮していない、その意味ですでに流行遅れだ、というのです。

 ナイトの書評の結果、不幸にもミーゼスは、当時の最新の経済学に対して無知であるとみなされてしまいました。ところがそのような評価は根本的に誤りであって、ミーゼスは英語版の大著『ヒューマン・アクション』において、伝統的なオーストリア学派の考え方を、まったく斬新な仕方で説明している、というのがカーズナーの評価です。

 私はニューヨーク滞在中に、カーズナー先生の講義を聴講したのですが、そのときにまさに刊行されたのが、この本の原書でした。話題の本で、ニューヨーク大学(NYU)の本屋のショーウィンドウには、この本がたくさん飾られていたことを思い出します。

 カーズナーが、ちょうどこの本を書いているときのことで、もう一つ、思い出があります。私がマリオ・リッツォ先生と、彼の研究室で議論していたときのことです。カーズナーは勢いよくリッツォ先生の研究室を訪れると、「草稿、読んでくれたかい?」とリッツォに尋ねました。リッツォがそのとき、なんて答えたのかはよく覚えていませんが、二人はおそらく、あとでこの本の草稿をめぐって議論したのでしょう。

 カーズナーにとってミーゼスは、師匠です。カーズナーは晩年、70歳で大学を退職するときに、ミーゼスについて、このような解説書を書いたわけですが、カーズナーはこの本の献上をもって、学者(研究者)を引退し、その後はユダヤ教のラビとしての人生を送る、と言っていました。もともとカーズナーは、ラビとしての才能に恵まれた方であると思うのですが、その説教力は、彼が自分の理論を一貫して粘り強く主張する際の力としても、大いに有効であったように思われます。

(カーズナー的な企業家精神の理論が、ユダヤ教における預言者類型と密接に関係しているのではないか、ということについて、以前私は書いたことがあります。)

 

 

■失敗経験をウジウジ考える

 

藤井聡編『経済レジリエンス宣言』日本評論社

 

柴山桂太様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 レジリエンスとは、強靭という意味。では、「レジリエントな経済」とは、どんな経済なのでしょう。それは例えば、外部からやってくる恐慌(クラッシュ)の危険から身を守るべく、保護貿易主義を採用するような経済かもしれません。あるいはまた、内部における産業の多様性を育んでいくことや、富と人口を地方に拡散することなども、レジリエントな経済に必要な政策になるかもしれません。

 ショックに強い経済については、しかし、二つの考え方があると思います。一つは、ショックをまともに受けるけれども、そのショックを経験として生かすことができるので、回復がはやい、自己蘇生力がある、という経済です。「学習能力の高い社会」といってもいいでしょう。もう一つは、ショックを受けにくいので、それほど回復に時間がかからない、という経済の構造です。

 ショックを受けにくい社会は、それ自体としては、自己学習力を豊かに持っているわけではありません。自己を刷新していく力は、あまり必要ではありません。これに対して、ショックをまともに受ける社会は、たしかに失敗(クラッシュ)してしまう。もはや学習不可能なほどの打撃を受けてしまうかもしれません。巨大なリスクと隣り合わせです。

 「強靭さ」というのは、その中間にあって、どれだけ学習能力を持っているのかに依存しているように見えます。なによりもまず、実際に失敗を経験してみなければなりません。失敗からいろいろ学び、学習したことを蓄積していかねばなりません。

 そのような学習能力の旺盛さは、「集権化/分権化」や「単一性/多様性」の軸、あるいは「自由放任/保護・規制」の軸などによっては、捉えられない制度理念を必要としているでしょう。

学習能力が十分に権能強化(エンパワー)されている社会とは、とにかく私たちが、失敗の経験をウジウジと考える、そういうネチッコイ社会でなければならないのではないか、と思いました。

 

 

■正義の味方のヒーローたち

 

仲正昌樹『いまこそロールズに学べ』春秋社

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 日本語で「正義の味方」というときの「正義」は、悪者の言い分をいちいち聞いてその上で比較衡量するというのではなく、ある人(英雄)が信じる価値理念を、その人が強引に実現する際の主観的な理念、ということになりますね。

 月光仮面やウルトラマンなど、正義の味方のヒーローたちは、闘いの際に、公共施設や住宅を破壊したりしますが、そうした破壊に損害賠償が生じることを、隠ぺいしています。

 ある価値理念にコミットメントして、悪を倒し、善を実現するというのは、それだけでは、リベラリズムとコミュニタリアニズムの差異を示すものではありません。英米圏で、リベラリズムが主張する「正義」は、すべての人々を、一般的なルールにしたがって、公平に扱う、という意味で用いられます。公正としての正義は、だれもがコミットメントしうる価値ではなく、すべての人の行為を、ある一定の理由に基づいて、制約するための理念です。

これに対して「正義の味方」のいう「正義」は、共同体内部の成員では、もはや太刀打ちできない「悪」の出現に、共同体の外部から現れた超人(ヒーロー)が対処する際の理念です。しかしコミュニタリアンにしても、あるヒーローが、主観的に信じている価値を実現することが、コミュニティにとっての価値であるなどとは主張しないでしょう。

 ただ、月光仮面やウルトラマンなどのヒーローが教えてくれることは、正義にせよ善にせよ、これらを共同体の成員たちが実現する場合には、超人に近いような努力が必要、ということかもしれません。

むろん、リベラル・コミュニタリアン論争で論じているのは、正義か善か、どちらが望ましいか、という問題であって、「正義か悪か」/「善か悪か」という問題ではありません。

 

 

■ハーヴェイ思想の集大成

 

デヴィッド・ハーヴェイ『コスモポリタニズム 自由と変革の地理学』大屋定晴訳・解説、森田成也/中村好孝/岩崎明子訳、作品社

 

 大屋定晴様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ハーヴェイ思想の集大成です。講義内容を発展させて書かれた本書は、読みやすく、しかも、現代的な問題意識と時事問題へのコメントが散りばめられており、ハーヴェイ自身の思想的営みを再記述するという、野心的な試みになっています。第一章ではカント、それから、ポストコロニアル批判、新自由主義批判、さまざまなコスモポリタン思想の検討、地理学、時空間性のマトリクスというオリジナルな議論、場所の政治学(とりわけハイデガー批判)、と続き、最後に「環境」について論じられます。

 現代の政治思想における一つの潮流であるコスモポリタニズムについて、本書はとても丁寧に議論しています。新自由主義論については、やや要約しすぎかもしれません。

またとりわけ、理論と実践に関わる独自のマトリクス理論は、いろいろな思考をかきたてます。これはもしかすると、成功していない理論なのかもしれませんが、制度と運動を対比させる視点そのものは、意義深いです。いろいろな応用ができるでしょうし、発想の転換にも役立ちます。大いに検討に値するでしょう。

またこの点で、本書の日本語解説は、とても役立ちました。解説では、ハーヴェイがこれまで提案してきた各種のマトリクスも紹介されています。この紹介がなければ、ハーヴェイ理論に対する私たちの理解は、半減してしまったかもしれません。とても重宝します。

 ハーヴェイの場所論についても、いろいろと学ぶところが多いです。ワーズワースは、C.テイラーその他の議論の中で、オーセンティシティの倫理を提唱した一人とされます。ワーズワースを受けて、ラスキンやモリスの政治経済運動に至る一つの運動があります。それは「場所性」を、一つの理念としています。場所性の思想は、ワーズワースの段階で、湖水地方の観光ガイドブックとなり、資本主義のもとで自然を享受するための、一つの方向性を与えました。それはある意味で、「ロスト近代」の視点でもあるでしょう。

ただ、ハーヴェイは、このようなオーセンティシティの理念によっては、近代も資本主義も乗り越えられない、と批判的です。ハイデガーの場所論についても、それが特権的に語られる場所性において、被支配階級の問題をないがしろにしている点が批判されています。場所性を重んじる立場は、特権的エリートに有利なものにすぎないのだ、というわけです。

 

 

■日本における唯一の「工場村」

 

兼田麗子『大原孫三郎 善意と戦略の経営者』中公新書

 

兼田麗子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 大原美術館をつくった社会的事業家、大原孫三郎(1880-1943)の人生はとても多彩で、興味深いですね。

ロバート・オウエンに影響を受けて、またエベネザー・ハワードの田園都市論にも大きな影響を受けて、大原孫三郎は、労働者の生活環境を改善するための事業に意欲を示します。

社長に就任すると、まず、倉敷紡績の工場の寄宿舎の二階建て増築を中止します。あらたに工場用地を購入して、そこに理想的な工場と寄宿舎を建てます。腸チフスの発生を防ぐという衛生面での配慮から、労働者の寄宿舎を、分散的で家族的なものへと作り変えたわけですね。その功績は大きいです。

大原孫三郎は、当時の「労働問題」の根本を、労働者が家族を離れて寄宿舎に群居することにあると理解していました。労働者は、やはり家族と共に生活することができなければ、理想的ではありません。倉敷紡績のこの万寿工場は、日本における「工場村」の唯一の事例ともいうべきものとみなされました。

 

 

■親指シフトが決め手か

 

大澤真幸『思考術』河出ブックス

 

 大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書の内容の大半は、社会科学、文学、および、自然科学について、いわゆる「教養」としてふさわしいいくつかの本の内容を、ていねいに解説する講義になっています。

そして本書の最初と最後に、執筆の方法について、いくつかの興味深い事柄が示されています。

例えば、「一渡り感のあるメモ」の作成。全体を見渡すことのできるメモは、やはり、A4サイズのものがいいですね。私はいつもB6サイズのメモ用紙を使っているので、論文や本の全体を、一目で見渡すことができないのが難点です。

「不安を克服する薬」。執筆直前には、憂鬱な気分になるものですが、それを克服するためには、特別に気に入っている本を、すこし読むことが効くのですね。改めて、その効用を認識しました。

「歩きながら書く」。これは、健康によいだろうと思いました。食事の時間を短くして、部屋の中をぐるぐると歩きまわりながら書く。それから、お腹がすいたら、いつでも食べること。

また、マックのパソコンに、「親指シフト」をインストール。やはりこれが、入力の速さの決め手のようですね。私は、最初に富士通のワープロではなく、シャープの「書院」から入ったので、いまでも「ひらがな入力」です。富士通のワープロから入門すれば、もっと速く入力できたかもしれない、と少し後悔しました。

 

 

■サブプライム危機に対するポスト・ケインジアンの応答

 

J.A.クレーゲル『金融危機の理論と現実』横川信治監訳、鍋島直樹・石倉雅男・横川太郎訳、日本経済評論社

 

鍋島直樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 サブプライム危機に対して、ポスト・ケインジアンのクレーゲルがどのような対応策を提案しているのか、という点を興味深く読みました。

 グラス・スティーガル法が、時間とともに、しだいに骨抜きに解釈されるようになるプロセスについて、第八章の記述はとても参考になります。

 しかしその骨抜き(侵食)の過程には、規制当局も積極的に関与していたわけであり、アメリカ政府は、自国の商業銀行がイノベーションを起こすようにと、規制緩和を支援していたわけですね。

 ただ、そのような支援が、結果としてサブプライム危機を招いてしまったのだとすれば、私たちは、以前のグラス・スティーガル法の厳密な解釈に戻ることがふさわしいのか、ということが問題になります。

 クレーゲルによれば、そのような過去への回帰は、実際には不可能であり、預金受け入れ銀行は、もはや預金を受け入れる事業から収益を得ることが難しくなっていると判断します。

 クレーゲルの提案は、「大きすぎて潰せない」という問題と、銀行業がいろいろな機能の「スーパーマーケット化」するという問題を分けて、後者を規制して、銀行業の機能分離を提案する、というものです。

しかしこれでは、預金受け入れ銀行の機能特化がかかえる問題(収益性)を、解決することができないかもしれません。機能の特化と分離という提案が現実的であるためには、それぞれの機能部門の収益を、ある程度まで保障するものでなければならないでしょう。

 

 

■不確実性と危険の区別について

 

盛山和夫『社会学の方法的立場 客観性とは何か』東京大学出版会

 

盛山和夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 フランク・ナイトは、確率によって把握することのできる「不確実性」と、確率によって把握することのできない「危険(リスク)」を区別しました。類似の区別は、ルーマンにもみられます。

 しかし本書が指摘するように、そもそも経済事象については、信頼しうる確率分布など、存在しません。経済事象は、気象と違って、人々の実践によって左右されるので、「個別事情の独立性」が確保されていません。ですので、確率によって把握できる不確実性と、確率が分からない危険の区別は、あまり本質的ではないのかもしれません。

 ただ私が思うに、「リスク」というものが誰かの行動によって負担され、社会全体が均衡化(安定する方向)へ向かうような場合には、そのリスクは、社会の人々によって反省的な意味の相互作用によって捉えられる必要はありません。誰かが負担するインセンティヴをもっている場合は、それはその人によって機能的に認知されれば十分であり、人々のあいだで相互主観的に意味を共有する必要はありません。

 しかし「リスク」というものが、人びとに共有されていないとうまく対処できない場合、たとえば災害などの場合には、反省的な仕方で意味世界が構成されなければなりません。

 つまり、反省的な仕方で共有された意味世界が構成される必要があるのかどうかによって、「不確実性」と「危険」を区別する意義が異なるのではないか、と思いました。

 では「リスク」というものが、誰かの行動によって負担され、しかもその負担によって、社会全体が不均衡化(不安定化)する場合は、どうでしょう。この問題を考えると、リスクは結局のところ、「確率をともなう不確実性」に還元できるかもしれません。

不均衡化や不安定化に対応するためには、人びとが協力して社会を防衛しなければならない。そういう「意味世界」のもとでは「リスク」は共有された意味世界の現実であり、そのような世界の一部として、対処可能なものでなければなりません。

 問題はしかし、「リスク」というものが、誰かの行動によって負担され、社会全体が均衡化(安定する方向)へ向かうような場合であり、そのようなケースでは、人びとは意味世界を共有していないにもかかわらず、社会全体が均衡化するということです。このような社会的現実は、「相互主観的に共有された意味世界」によっては、把握できないのではないか、と疑問に思いました。

 

 

      せっかくですから言葉で説明

 

橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』サンガ新書

 

橋爪大三郎様、大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

本当に面白い本です。

 一神教の場合、絶対者である神は、最初に言葉を発します。言葉は神から人間に与えられます。けれども人間の言葉は不完全で、神の言葉は完全であると想定されます。

 これに対して仏教の場合は、「覚り」と「言葉」は、接続されていません。お釈迦さまは、覚った後、ことばを話さない。黙っている。

ただ、そこに梵天がやってきて、せっかくですから、その覚りを言葉で説明してください、とお願いする。それでお釈迦さまは、説法することになるわけですね。

 仏教ではこうして、言葉では説明できない「覚り」の内容を、言葉で説明することになりますが、言葉で説明しても、それはうまく言い表すことができないということが、最初から分かっています。言葉にならないけれども、それでも言わなければならない、という論法になっています。

 覚りの真実を表そうとすると、言葉を極限まで変形して、日常的・常識的な用法では捉えられないような仕方で、説明しなければならない。ここに、「空」の論理が展開される背景的要因があります。

 

 

■内需型と外需型、ナショナリズムの二類型

 

森健『反動世代』講談社

 

森健様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 中野剛志、柴山桂太、三橋貴明、施光恒の四人に対するインタビューから成り立っている本です。反動世代というタイトルですが、穏健な反グローバリズム、ナショナリズムの政治を求める動きを指しているようです。

 日本は外需主導の国である、という理解に立てば、とにかく日本の経営者たちが、中国や韓国の経営者たちと競って、グローバルな経済競争に勝つ必要がある、ということになります。しかしそうなると、人件費を上げることはできません。

ところが、人件費つまり給料を上げないと、日本人の需要(内需)は拡大しません。ですので、グローバルな競争に勝っても、結局のところ経済成長しないかもしれません。経済成長のためには、かつてヘンリー・フォードがしたように、給料を二倍にすると言って、内需オンリーで経済を回していく必要があるかもしれません。

 はたして、外需主導か、内需主導か。これが経済イデオロギーの今日的対立構図です。

 私の師匠の一人、鬼塚雄丞先生は、かつて経常収支のサイクル説というものを理論化しましたが、日本もこれから、サイクルとしては赤字に転化して、例えば80年代のアメリカのような、双子の赤字状況になるかもしれませんね。80年代と言えば、アメリカでは反日感情が拡大した時期でもありましたが、類似の状況がいま、日本における反中国・反韓国感情として現れているのかもしれません。

 そのような感情を「よし」として、とにかく賃金を上げて、円の国際的地位を低くして、内需拡大でいく。そうした立場が右派なのか左派なのかと言われると、どちらでもあるわけですが、対立の構図としては、内需型のナショナリズムと外需型のナショナリズムが拮抗しています。外需型のナショナリズムからすれば、とにかく賃金を上げずに雇用を守る、日本の熟練労働者を長期的観点から育てて産業の空洞化を防ぐ、外需主導でグローバル競争に勝つ、といった戦略を唱えることになるでしょう。

 

 

      オーキンのフェミニズム

 

スーザン・M・オーキン『正義・ジェンダー・家族』山根純佳・内藤準・久保田裕之訳、岩波書店

 

山根純佳様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 オーキンの論法は、熟考に値します。コミュニタリアニズム批判、リバタリアニズム批判、そしてロールズ批判。いずれも、きわめて論理的に逃れがたい詰めの方法がとられています。オーキンはフェミニズムの思想を、これらの規範理論に対抗する一つの論理的な枠組みとして練り上げました。その思想的な努力は、高く評価するに値します。原書は1989年に刊行されましたが、いま読んでも、鮮やかです。

 ロールズの問題点は、家族のなかにおける正義がいかにして調達されるのかについて、理論的に説明していないことです。オーキンのように、賃労働と不払い労働の問題を社会的に解決するのでなければ、家族における正義は、解決されえない。そのように考えることには十分な理由があるでしょう。

 ロールズ的な「無知のヴェール」のもとでは、私たちは、女として生まれるかもしれない、男として生まれるかもしれない、という可能性を残したまま、社会に基本構造に関する政治的判断をするように迫られます。

 でも、無知のヴェールのもとで、私は「フェミニスト」であるかもしれない、あるいは「家父長的な権威主義者」かもしれない、「その権威主義に従順な心性をもった人」であるかもしれない、などと考える必要はないのでしょう。

というのも、権威主義者と反権威主義者が、契約の下で合意して社会生活を営むためには、基本的には、権威を否定する、あるいは権威の要求を正義によって制約する、ということが求められるからです。契約というのは、妥協と違って、どちらか一方が望まない内容は、契約できないことになります。

 ただ、本当にそうなのでしょうか。フェミニストと反フェミニストが、契約の下で合意して社会生活を営むためには、反フェミニストの要求を、一方的に、正義によって制約することが望ましい、となるのでしょうか。フェミニストの要求も、別の観点から制約されるのではないでしょうか。正義の内実をめぐって、フェミニストと反フェミニストは、何を契約することができるのか。それが問題ですね。とくに不払い家事労働に対応するための制度が問題になります。この問題に対するオーキンの透徹した思考から、私は多くを学びました。

 

 

■政策を訴える政治家は損をする

 

西田亮介『ネット選挙とデジタル・デモクラシー』NHK出版

 

西田亮介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

2013年の参院選から、ネットを活用した選挙になりました。ただ、政治家がネット上で、自身の政治的な主張を明確にして積極的に情報発信するのかと言えば、むずかしいですね。万年野党を覚悟する場合は別ですけれども、政権を担おうという場合には、とにかくその時々の政局を読んで行動しなければなりません。自身の主義主張にこだわっていると落選してしまう。政権を担っている場合でも、与党本体の党議拘束によって、自身の主張を縛られてしまう。党の決定に従わないと、大変なことになってしまう。

 たとえば菅直人元首相は、2013年の参院選の東京選挙区で、民主党が一本化した候補者ではない人(脱原発を全面的に主張した大河原雅子)を支援しました。結果として民主党は、結党以来はじめて、東京選挙区での議席獲得に至りませんでした。民主党はそこで、菅直人に対して、党員資格三か月停止の処分を課します。元首相に対しても、こうした厳しい処分を課すわけですから、政治家が自らの主張で行動することがいかに難しいか、ということがよくわかりますね。

 安倍首相がフェイスブックで情報発信する際のパタンは、政策を訴えるというよりも、通常のあいさつか、あるいはメディアを批判する、というものです。情報発信力は、肝心の「政策を訴える力」と結びついていません。ネット上で、政治家が積極的に政策を訴えると、かえって「一貫性がない」などの批判にさらされることになり、不利になるかもしれません。

 ネット選挙がはじまっても、これでは政策論議が活性化しません。ではどうすればよいのでしょう。

 私が思うに、政治家はできるだけ議員立法でもって、法案を立案することそれ自体に、政治上の業績を積んでいくことが望ましいのではないでしょうか。何かを訴えるのであれば、どんな法案を立案したのか、具体的に示していくべきです。たとえ廃案になったとしても(廃案になる確率の方がとても高いという前提のもとで)、立法過程に関わっていくことが、業績として評価されていく。そのような政治過程が成熟すれば、政治家は積極的に、メディアを通じて政策論議をするようになるかもしれません。

 

 

■新自由主義の定義をめぐって

 

若森章孝『新自由主義・国家・フレキシキュリティの最前線』晃洋書房

 

若森章孝様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 この20年間のグローバル資本主義に関する重要な論点が、一通り探求されています。参照されている文献がとても多く、勉強になりました。とくにヨーロッパ諸国におけるフレキシュリティの動向に関する研究は、学ぶところが多いです。

 ところで「新自由主義」の定義について、私の定義は「広い」と言われることがあるのですが、本書の定義もまた、私の定義とほぼ重なるものであり、理解を共有できたと感じています。

 「国家介入の再定義と新自由主義が一体のものであることを想起するならば、ケインズ主義的福祉国家に取って代わる国家は、何よりもまず、市場に有効な競争を作りだすために積極的に介入する新自由主義市場国家、あるいは新自由主義的法的介入主義国家である、と規定すべきであろう。」(84)

 こうした視点から、本書はフーコーを援用して、「新自由主義国家による福祉国家の包摂と呼びうる事態が展開される」(85)としています。

ただし定義について、次の二つの観点が、緊張関係にあるようです。

例えば38頁では、「新自由主義によれば、福祉国家は、労働市場の柔軟化や国際競争力の向上を妨げている最大の障害物である」とされています。これに対して83頁以降では、「新自由主義国家」が福祉国家を再編して包摂する様子が描かれています。この二つの理解のあいだに、新自由主義の定義の矛盾がないでしょうか。

 焦点となる実証的な問題は、グローバル市場において勝つことを目指す「競争的国家」は、例えば、解雇規制をどこまで緩和するのか、最低賃金法をどこまで否定するのか、失業保険をどこまで削るのか、という点でしょう。これらの労働規制をむしろ維持した方が、国家はグローバル市場において、国民の人的資本形成を促進することになり、「競争的国家」として成功するかもしれません。フーコー的な意味での企業経営的発想が全般化した新自由主義社会における国家は、やはり、労働規制を維持ないし強化して、国際的な競争力の強化を企てるかもしれません。そうなると社会的投資国家こそが、新自由主義的国家の本質だということになります。

本書の第三章の定義では、それは「新自由主義的ではない」となりますが、第五章の定義では、それは「新自由主義的である」ということになる可能性があります。私としては、第五章の定義のほうが、現代の新自由主義の理解にとって本質的であると思います。

また第6章を読んでわかることは、新自由主義的国家は、社会的投資国家として不十分な形態であり、私たちはむしろもっと貪欲に、家族や教育を含めて、社会的投資に自覚的にならなければならない、ということです。ただここが理論的に重要な点で、社会的投資の意味をどのように理解するのか、それを新自由主義的な競争国家とは区別して、どのような新しい国家のビジョンへと練り上げていくのか。この問題が問われているのだと思います。

 

 

■聖書は引用合戦

 

橋爪大三郎『世界は宗教で動いてる』光文社新書

 

 橋爪大三郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 よくある質問(クエスチョン)に、分かりやすく答える形式になっていて、読みやすいです。

聖書は、旧約と新約がいっしょになっているものを買うこと。

 しかも、「旧約聖書続編つき」が望ましいのですね。

 さらにもっと大切なことは、「引照つき」の聖書を買うこと。

 というのも、聖書の言葉は、引用の塊だからです。

 新約聖書の福音書に、「イエスが十字架に架けられると、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』(主よ、主よ、なぜ私を見捨てたもうたのですか)と言った」とあります。この言葉だけを読むと、イエスは、自分が神に見捨てられたのではないか、と嘆いているようにみえます。しかし、これは『詩篇』22篇からの引用であり、それは神への敬虔な帰依を表すものとされています。この引用の意味を知っているかどうかによって、まったく理解が異なってしまうわけですね。

 ほかにも、イエスとサタンのやり取りは、引用合戦になっているというのも興味深いです。ディベートは聖書からの引用でやりなさい、という見本のようなものなのですね。

 

 

 

      コーエンのロールズ批判

 

斎藤純一編『政治哲学5 理性の両義性』岩波書店

 

斎藤純一様、井上彰様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 政治哲学にしても、経済思想にしても、このように編著で企画する場合には、大思想家たちの紹介という構成になるのは同じですね。

 コーエンのロールズ批判について考えてみます。才能のある人たち、例えば外科医は、どれだけの所得(報酬)を得ることが望ましいのでしょうか。才能のある人たちは、もし社会全体の富が増大するのであれば、最も不遇な人たちのために全人生を捧げる必要はなく、経済的な自己利益を追求してもよいのでしょうか。

 「よい」と考える場合の論理は次のようなものです。外科医は、市場経済を通じて、自身の医療活動によって、利益を得ます。その場合、市場経済の作用は、外科医の活動を含めて、社会全体の人々の活動を調整し、その意図せざる結果として、富の全体が増大するように導くでしょう。そのような自生的秩序が有効に働く場合には、外科医は、自身の活動が社会全体の「協働」に参加していると認識する必要はありません。ロールズが想定するように、この社会が「協働社会」であるとは理解する必要はありません。

 では、才能に恵まれた外科医たちが、市場経済で勝負するのではなく、自身の活動を、「協働社会」の一部であると認識する場合は、どうでしょうか。外科医はおそらく、自分の労苦に見合った報酬を受け取ることで、満足するでしょう。そのような「協働」意識に基づく「平等主義のエートス」を、外科医たちに道徳的かつ法的に要請する立場が、コーエンの平等主義思想です。

 こうした平等主義の問題点は、理論的には、「協働のための平等」か、それとも「市場における自己利益の追求」か、という二分法で発想するところにあるかもしれません。「協働」にせよ、「市場」にせよ、人々の活動の結果として、社会全体の富(技術革新も含む)が増大する場合があります。そのような富の増大を導く仕方で、市場と平等のバランスを考える、あるいは非協働と協働のバランスを考える、という中道的な方向性があります。

 ロールズのいう「協働」とは、そのようなバランスを取る広い意味での「協働」であり、コーエンのように厳密に解釈した狭義のものではないでしょう。

 ではなぜ「中道的な協働」が求められるのかと言えば、それはそのような国家の方が、進化論的にみて、社会をいっそう成長させる、あるいは人々の諸関係をいっそう豊かなものにするからでしょう。ただそのような見通しがいつでも立つわけではありません。思想闘争が重要になるゆえんです。

 

 

      設計主義的理性は自生的秩序を育成しうるか

 

桂木隆夫編『ハイエクを読む』ナカニシヤ出版

 

桂木隆夫様、太子堂正称様、佐藤方宣様、原谷直樹様、今池康人様、柴山桂太様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ハイエクの立法論の問題は、「こうすれば社会は自生的に生成したであろう」という、反実仮想をどのように理解するかにあると思います。

 実際には、市場社会(あるいは西欧文明)は、民主主義の制度化や、市場競争の制度化など、設計主義的な要素を含めて発展してきたのであり、もしそのような設計主義的な要素がまったくなければ、市場社会の文明は、それほど発展しなかったかもしれません。

 ハイエクはしかし、設計主義的な要素を徹底的に排して、あるいはそのような要素を、立法過程における「育成(耕作)」の観点から徹底的に解釈し直すことによって、自生的秩序の発展を反実仮想として描くことに成功しなければなりません。

 ナイト的な啓蒙理性が必要とされる場面でも、そのような理性の働きが、もっと巨視的にみると、自生的秩序を育成しているのだと解釈する。あるいはそのような啓蒙理性による社会変革よりも、すぐれた改革の方向性があるはずだと考える。この二つのパタンによって、ハイエク的思考は、ナイトの企てを包摂しうる可能性があります。ナイトよりもハイエクのほうが、思想的に深みがあるとすれば、そのような仕方で、どこまで歴史を解釈できるのかにかかっているのでしょう。

 

 

■新自由主義とコーポレートガバナンス

 

正村俊之『変貌する資本主義と現代社会 貨幣・神・情報』有斐閣

 

 正村俊之様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 現代の資本主義は「新自由主義」として特徴づけられることが多いですが、その仕組みをシステム論的に考える場合、たんに市場化の論理で捉えるのではなく、コーポレート・ガバナンスの仕組みを拡張したものとして捉える、という視点はとても興味深いです。

 コーポレート・ガバナンスの三つの特徴。

 (1)「株主と経営者」の関係は、「本人(プリンシパル)と代理人(エージェント)」の関係にあるということ。株主が業務の執行を経営者に委託すると同時に、経営者の舵取りをするという、二重の関係が成立している。このような二重の関係は、「政府」と「その業務を委託された民間の団体」の関係にも、みられます。つまり、新自由主義の統治術とは、たんなる「民営化」ではなく、民間組織への「委託」とその活動の「舵取り」という二つの要素を含んでおり、コーポレート・ガバナンスの仕組みを取り入れたものだと考えられます。

 (2)「本人(プリンシパル)と代理人(エージェント)」の関係は、また、本人が代理人に対して責任を問い、代理人がその問いに答える(答責¬¬=アカウンタビリティ)という、責任の応答性が成り立っています。

 (3)代理人に対するコントロール手段の一つが、貨幣です。会計監査は、コーポレート・ガバナンスの目的を達成するための重要な手段であり、政府は、そのいわば会計監査を通じて、委託した団体のパフォーマンスのよさを判断することができます。

 以上の三つの特徴は、「株主と経営者」のあいだの関係を超えて、政府や自治体の統治術として、その領域を拡張していきます。それを「新自由主義の統治術」とみるわけですね。

 その場合、代理人の権限が強化されるのか、それとも本人の権限が強化されるのか、という違いは残るでしょう。いずれにしても、新たに「本人-代理人」関係を創造して統治することが、新自由主義の一つの発想にあると思いました。

 

 

■乳児期の母親の愛情は重要か

 

高橋惠子『絆の構造 依存と自立の心理学』講談社新書

 

高橋惠子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 アメリカにおける、1991年生まれの1300余人の子どもを対象とした調査では、一日の数時間を保育所などの施設で育てられた子ども(「非家庭児」)と、家庭だけで育てられた子ども(「家庭児」)のあいだに、発達上の差はあまりみられないようです。

 乳児期(生後12か月前後)に、愛着を持って育てられた子どもが、その後、青年期(17-23)まで、継続的にその愛着を保持するかどうか(愛着の質が連続しているかどうか)については、一致率が77%の調査もあれば、39%しかない調査もあるようで、実証に乏しいようです。

 札幌市で著者が行った調査では、乳児期と青年期で、二時点とも同じ愛着の質のグループであった者の割合は、57%にすぎませんでした。

 乳児期に、養育者(母親)を恐れて育った子どもは、大人になって養育者(母親)になった場合に、やはり子どもから恐れられる(あるいは子どもを恐れる)のかと言えば、そのような関連は弱いものであることが、ある研究結果によって示されています。

 すべてこうした実証は、乳児期における母親の愛情が、人生の質を必ずしも決定しないということを示しているでしょう。

 

 

■コミュニタリアニズムは伝統文化の再創造を志向する

 

菊池理夫・小林正弥編『コミュニタリアニズムの世界』勁草書房

 

菊池理夫様、小林正弥様、執筆者の皆さま、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書への拙評を『図書新聞』に寄せました。ご笑覧いただけると幸いです。

 ところで本書のなかで菊池理夫先生は、幼少期から大学生のころまでを回想して、ご自身がアメリカ的な未来都市に憧れをいだく「進歩主義者」であったことを告白しています。ところが大学院生のときに、夏休みに地元の弘前に帰省して、津軽三味線のライブハウスにいくようになったといいます。子どもの頃は何の感銘も受けず、「そのような伝統的な民謡は嫌いな『進歩主義者』であった」そうですが。

 なぜ菊池先生は大学院生になってから、伝統文化に感銘を受けたのでしょうか。本書には書かれていませんが、ただ「現在では津軽三味線のライブハウスは56軒ほどあり、県外から住み着く演奏者も増え、津軽三味線は全国だけでなく、世界中に知れわたるまでになっている。また、津軽三味線はアドリブが多く、独奏曲では演奏者の個性が重視され、同じ曲にはならない。」と記されています。

 おそらく菊池先生は、伝統文化をそれ自体として保存すべきものとして再発見したのではなく、可能性(世界性と独創性)をもったものとして再発見されているのではないでしょうか。コミュニタリアニズムは、たんに伝統的な共同体を重んじる思想ではありません。社会の近代化とともに、一度は廃れた伝統的な文化が、世界性と独創性をもったものへと発展していく過程に、大きな関心を寄せているのではないかと思いました。

 

 

■成長ではなく異常増殖する社会

 

山本理奈『マイホーム神話の生成と臨界 住宅社会学の試み』岩波書店

 

山本理奈様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書への拙評を『東洋経済』に寄せましたので、詳しくはこちらをご覧ください。オリジナリティに溢れる本です。

 バブル崩壊以降の日本社会は、いわゆる「失われた10年」とか「20年」と言われています。経済成長が著しく鈍化したため、もはや経済成長社会が終焉したような印象を与えていますね。そうした状況を本書は、ボードリヤールが『透明な悪』で用いた「超成長」という概念で捉えていますが、大変興味深いです。

 「超成長」とは、excroissance,英語ではexcrescential society であり、直訳すれば、「異常増殖」という意味になります。「成長」というと、産業社会の明確な未来像に照らして、合目的的に進んでいくというイメージがあります。これに対して、経済成長が鈍化し、産業社会がもはや合理的な達成すべき目的を失うと、社会を「成長」という言葉で捉えることが難しくなります。ところが、社会のなかで成長の要素がなくなるわけではなく、生産や消費の場面では、いろいろな創造的活動が営まれます。経済以外の場面でも、社会は全般的に、発展しているでしょう。そのような事態を、いわゆる「成長」ではなく、「異常増殖」という言葉でとらえてみると、さまざまな認識を喚起しますね。

 

 

■オーストリア学派経済学の入門書

 

マーク・スカウソン『自由と市場の経済学 ウィーンとシカゴの物語』田総恵子訳、春秋社

 

田総恵子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 オーストリア学派経済学の入門書として、楽しく気軽に読むことができます。物語仕立てになっていて、飽きさせません。この分野の経済学史的な背景を、一通り押さえることができるでしょう。

 1920年代という大恐慌前夜の時代に、過剰投資ブームと大規模な信用拡張は、本当にあったのでしょうか。その答えは、どの統計データに注目するかによって、変わってきます。

 オーストリア学派のミーゼスは、当時、意図的な信用拡張と低金利政策(イギリスが金準備を維持できるように助ける目的で行った1924-1927年の利下げ)によって、にわか景気が生じた、と判断しました。

 これに対してマネタリストは、消費者物価は比較的安定していたのであって、また総じて経済はデフレ傾向にあった、と判断しています。

 どちらが正しいでしょうのか。1920年代半ばに、株式市場と不動産のバブルが生じていたことを考えると、オーストリア学派の理解のほうが正しい、というのがスカウソン(スコーセン)の見解です。

 

 

■ウェーバー『経済と社会』をめぐる論争

 

折原浩『日独ヴェーバー論争』未來社

 

折原浩様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これまでのご研究の一大成果として本書を刊行されましたことを、心よりお喜び申し上げます。

 ウェーバーの主著の一つ、『経済と社会』は、遺稿を編纂したものであり、その編纂をめぐって、折原先生が提起した問題は、その後の同書の編纂問題に重大な疑義を投げかけるものであり、その後、論争が生じています。

 問題は、ウェーバーが自分の理論の基礎概念(カテゴリー)について、「旧稿」と「改定稿」で、それぞれ別々の定義を与えたことに起因しています。

 旧稿の用語系については、『理解社会学のカテゴリー』で、改定稿の用語系については、『社会学の基礎概念』で、それぞれ概念の意味が規定されています。

 ウェーバーの遺稿『経済と社会』は、すべての草稿を改定するまでに至らなかったでしょうから、ある部分は「旧稿」、別の部分は「改定稿」であると考えられます。するとウェーバーの旧稿部分は、理解社会学のカテゴリーに従って理解すべきであり、改定稿は、社会学の基礎概念に従って理解すべきである、ということになります。

 ところがモムゼンは、旧稿が書かれた時期と、「理解社会学のカテゴリー」が書かれた時期に隔たりがあるという理由で、理解社会学のカテゴリーを前置しませんでした。

 これに対して、シュルフターは、旧稿には「理解社会学のカテゴリー」が適用されているから、これを前置すべきである、と主張しました。ところがシュルフターは、その後、持論を変更して、「旧稿」の執筆には二つの局面がある、そして第二局面では「理解社会学のカテゴリー」の規準にしたがって理解することはできない、と主張するようになりました。

 こうした諸説の妥当性をテクスト内在的に検証して、ドイツにおけるウェーバー全集の編纂方針を批判したのが、本書です。ウェーバーを厳密に理解しようと思ったら、このような概念理解の問題を避けることができないでしょう。本書はウェーバーを正しく読むための、いわば命がけの論争書であります。ウェーバーのテクストを、折原解釈で読むのか、それとも例えば後記シュルフター解釈で読むのか。そうしたことが問題になるのです。

 

 

■職場でネットサーフィンしていると

 

岡嶋裕史『個人情報ダダ漏れです!』光文社新書

 

岡嶋裕史様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 インターネットやパソコンの脆弱性について、分かりやすく説明しています。

 2013.6.17.『日経ビジネス』の記事によれば、社員の職場でのネット利用状況をモニタリングしている企業は、56.8%。従業員が一千人を超える規模の会社では、実に70.6%でした。

職場でのネットサーフィンは、監視されているのですね。これは「プライバシーの侵害」に当たるのでしょうか。たとえば、成績が芳しくない社員に退職を勧告するさいの資料として、ネットサーフィンの履歴が利用されることもあるようです。

 

 

■環境リスクのパラドクス

 

ジャン=マリー・シュヴァリエ/パトリス・ジョフロン/ミッシェル・デルデヴェ『21世紀エネルギー革命』増田達夫監訳・解説、林昌宏訳、作品社

 

増田達夫様、林昌宏様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 シェールガスが開発される以前は、世界の「天然ガス」の埋蔵量は60年と推定されていました。また、天然ガスが埋蔵されている場所は、ロシア、イラン、カタールという地域に偏在していました。

 ところがシェールガスの存在が明らかになると、ガス全体の埋蔵量は、なんと250年分と推定されます。(2011年のIEA報告。)

 ただ、シェールガスを開発するためには、水力破砕のための大量のエネルギーが必要で、地球温暖化を進めることになるでしょう。「持続可能な採掘条件」(環境に負荷の少ない条件)について、各国はさまざまな基準を作っていますが、フランスではいまのところ、シェールガスの開発を凍結しています。原子力エネルギーと競合するからかもしれません。

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 「環境リスク」には、情報開示のパラドックスも生じます。エネルギーの開発や供給をめぐって、過度に慎重な国にくらす人々は、情報公開を要求しますね。ところが情報が開示されれば安心するのかと言えばそうではなく、むしろ人々は開示された情報におびえます。リスクに関する情報が十分に公開されていないとおびえ、十分に公開されてもおびえます。というのも情報が公開されると、その情報は「操作された可能性がある」と疑われてしまうためです。産業界だけでなく、政策決定者や事業責任者の発言はすべて疑われ、科学者の発言すら、必ずしも信用されるわけではありません。

リスクは、公開される情報の量が増えても減らない。これはつまり、エネルギーの開発そのものに対して、根本的なリスクの認識があるということでしょう。

 リスク認識を和らげるためには、リスクそのものを減らすか、あるいは人びとが徹底的に討論する機会を設けて、感情的・感覚的な恐怖を、科学的な確率の問題へと転換させるか、いずれかが必要になります。あるいは、人々のリスク感情を和らげるか、リスクそのものから人々の関心をそらしてしまう、という方法もあるかもしれません。

リスク認識は、感情的/科学的という二重の構造から成り立っています。感情を失ったリスク認識は、リスクに対して、実践的に適切な処方を導くことができません。リスク認識はそれ自体として、感情的/科学的という二重構造のなかで、リスクを的確に反映していることがふさわしいのかもしれません。

 

 

15世紀中国の大遠征

 

大澤真幸『〈世界史〉の哲学 東洋編』講談社

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 分厚い本ですが、面白くてどんどん読み進めることができるので不思議です。

中国は明の時代の宦官、鄭和は、1405年から1433年にかけて大遠征を行いました(当時の皇帝は第三代、永楽帝でした)。マラッカ、セイロン、アラビア半島の南西端のアデン、そして、アフリカ東海岸のマリンディにまで達しています。15世紀のこの航海は、当時のヨーロッパ諸国の大航海と比べても、遜色のないものでした。鄭和の艦隊は、アフリカからライオンやシマウマなどの珍しい動物を、中国にまで持ち帰っています。

 鄭和の艦隊は、カリカットに到着した最初の遠征では、長さが150メートル、幅が60メートルもある巨艦のほか、62隻の船を使って、二万八千人近い船員を乗せて航海したと言われています。

 これだけの大航海をする技術と権力をもっていたのだから、中国の文明は決して、ヨーロッパ諸国に劣っていたわけではありません。しかし遠征は、皇帝の命令で行われていたため、皇帝が死去すると、遠征自体が終わってしまいました。中国では、遠征は、「朝貢システム」に組み込むことができる範囲で、他国との関係を結ぶという目的をもっていました。アフリカに遠征に行っても、当時は中国との朝貢関係を築くことができなかったわけですね。

 これに対してヨーロッパ諸国は、経済的な利益を求めて、他国との関係を築いたり、あるいは他国を支配したりします。こちらのほうが、遠くまで遠征に行くインセンティヴがあった。結局、「近代化」というのは、朝貢システムを拡張する形で他国との関係を築くという方法では、起きなかったというわけですね。家産制にもとづく再分配のシステムには、どこまでも膨張していこうとする帝国化の作用に限界があった、と考えられます。

 

 

■他者の死を記憶するコミュニティ

 

鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ』NHK出版

 

鈴木謙介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 現代社会の問題をさまざまな角度から論じながら、共同体をいかにして立ち上げるか、という問題に迫ります。大変読みやすく、名文だと思います。

 ブランショによれば、共同体を基礎づけるものは、共有の権能を停止してしまう「死」であり、それは各人にとって、最初にして最後の出来事です。死とは、共同性の不可能性です。けれどもそのような不可能性に直面して、私たちはなお、共同体を開示しておこうとします。他人の死を、自分に関わりのある唯一の死であるかのように受け止めることがあります。他者の死を受け止めて、私たちはそれを弔い、記憶し、痛恨の感情を継承しようとします。そのような仕方で自分を他者へと投げ出し、共同体を基礎づけます。

 他者の死をどのように受け止め、どのように継承するのか。その内実によって、私たちはさまざまな共同体を立ち上げるでしょう。「失われた」という感覚は、どのような共同性を喚起するでしょうか。例えば家族や親しき者の死は、その親密圏において共同体を立ち上げますが、それ以上に共同性を拡張する原理ではないでしょう。見知らぬ人でも近くに住んでいる人の死は、近隣共同体というものを立ち上げるでしょう。原爆による死者の死を受け止める場合、これは日本人という共同体を立ち上げるのか、それとも平和を求める人類の共同体を立ち上げるのか、両方の可能性がありますね。

 ドイツ人のアーティスト、マルクス・キーソンによる作品「タッチド・エコー」は、ドレスデンを見下ろす高台の鉄柵を利用したもので、その鉄柵に人が肘をついて耳を当てると、骨伝導によって飛行機が降下する音や爆撃音が響いてくるという仕掛けになっています。そのような仕方で、ドレスデンの空爆という歴史を呼び起し、被害者に共感する人たちの共同性を立ち上げるという方法は、ドイツ人という共同性を超えた、人類の平和共同体を抽象的に喚起するでしょう。

 死者をどのように記憶するかという問題は、共同体をいかにして立ち上げるかという問題と密接に結びついています。別の言い方をすれば、私たちはどのような仕方で自己と他者の死を意味づけるかという問題が、問われていのですね。

 

 

■地域通貨とハイエク思想は調和する

 

西部忠『貨幣という謎』NHK出版新書

 

西部忠様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

貨幣をめぐる理論と最近の出来事について、とても分かりやすく解説しています。

 本書が指摘するように、インフレ・ターゲティング型の無制限量的金融緩和は、もしうまくいかなかった場合に、さらなる金融緩和をするという選択肢がありません。アベノミクスは、金融政策について、次に打つ手がないというリスクを抱えているわけです。もしこれから日本経済がデフレになった場合、はたしてどんな金融政策をすべきなのか。それが問題ですね。

 本書はケインズ型の政策を批判して、むしろハイエクの貨幣発行自由化論に注目しています。金融自由化によるシステミック・リスクを、国家が救済するのではなく、国家から金融政策・財政政策の恣意性を奪い、財政の健全化を求め、国家による貨幣発行システムの独占よりも、地域通貨などによる多様な貨幣システムによって、貨幣が進化するような制度を展望します。

 すると問題は、国家は銀行などの金融機関が、システミックなリスクを生まないように、信用創造等に厳しい規制をかける必要がある、という点でしょうか。ミーゼスのようなリバタリアンだったら、金本位制を掘り崩すような信用創造そのものに反対ですから、厳しい規制に賛成でしょうリバタリアンの一部、古典的な経済リバタリアンは、自由市場経済を認める一方で、信用創造には厳しい規制をかけ、金融の安定性を確保しようとするでしょう。

 これに対してハイエクであれば、金融の自由化をすすめるよりも、むしろ貨幣発行そのものの自由化をすすめるべきだと発想するでしょう。国家は、国家が発行した貨幣については、責任をもって運営しなければならないけれども、しかしその範囲を縮小するべきであって、民間の貨幣需要は、多様な貨幣発行会社によって満たされなければならない、と発想するでしょう。

 その意味では、ハイエクは、ビット・コインのような民間の発行による貨幣の供給に、期待をかけることになります。ただ興味深い点は、ビット・コインは、不正アクセスによって、マウントゴックスのサーバーから盗まれましたが、その後も比較的安定して流通しているということです。かりにもし、ビット・コインが破たんしても、その技術は改良されて、別の貨幣を生み出すかもしれませんね。そのような改良に、貨幣の進化を展望するというのは、ある意味で究極の自由市場経済擁護論になるわけですが、そのような自由市場経済のもとで、質の良い地域通貨の発展も期待できるというのは、興味深いところです。

 

 

■知識人を厳しく問う

 

佐々木力『東京大学学問論』作品社

 

佐々木力様、折原浩様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書のあとがきを折原浩先生が書かれています。

 日本の知識人は、戦争が終わった1945815日以降も、獄中にいる三木清を救出しようとはしませんでした。ただ傍観するのみであり、三木清は結局、獄死してしまいます。軍国主義の下で、政府を批判するようなことは何も言わない。そのような習性を、日本の知識人は身につけてしまったようです。

 折原先生は、知識人がこの出発点をどこまで乗り越えているのか、と厳しく問います。詳しくは本書に譲りますが、佐々木先生の処分問題に対して、疑わしきを罰するという大学側の対応を問いただし、異議をとなえています。

 第四章「原子力技術の国策的担い手としての東京大学」は、御用学者を批判する重要な議論だと思いました。

 

 

■統治の理想はいずれもおぞましい

 

大屋雄裕『自由か、さもなくば幸福か?』筑摩書房

 

大屋雄裕様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 もともとリベラリズムは、人々が本当に「幸福」になるかどうかは気にせず、ただ自由になることを目標にして社会の統治方法を考える思想です。

これに対して、統治される人々には分からなくても、人々ができるだけ幸福になるように統治者たちが制度を設計し、政策を運営していくという社会を考えることができます。そのような社会は「幸福な社会」であり、いわば総督府をもつ「統治功利主義」の社会といえるでしょう。個人が自由に振る舞うとしても、かれらが意識しないレベルで、いろいろな政策や制度をデザインしておく。その結果として、社会の「幸福」が最大になるように制度を設計するという政策指針は、一つの理想的な規範であるかもしれません。

 これに対して第三に、個人の振る舞いには「監視」を通じて一定の制約をかけるべきだ、という考え方があります。「監視」によって、人びとを悪から遠ざけ、また人々のあいだで信頼関係が生じるようにする。そのような手法は、「監視されているから悪いことをしないようにしよう、むしろ信頼関係を築こう」という具合に、人々の意識を制御・陶冶します。またこの場合の「監視」とは、これまで内面化されていたパノプティコンをいわば外在化したものだとみることができます。このような統治手法を社会全体に拡張した社会は、「監視制御による功利主義社会」と言えます。

 以上の三つをつぎのように整理してみましょう。

 

 (1) 人々が功利主義的な意味で「幸福」になることを、統治者は気にせず、ただ「自由」のみを統治の理念とする自由社会。リベラリズム。

 (2) 人々が自由に行為すると、結果として社会全体の幸福の総量が増えるように統治するような社会。統治功利主義。

 (3) 人々はいたるところで監視されており、その監視の視線を気にして、自由に振る舞うことを抑え、むしろ信頼関係を築くような社会。ハイパー・パノプティコン。

 

 以上の三つのうち、私たちは、どの社会を好むでしょうか。著者は(3)を推していますが、しかし結論部分では留保しています。フランスからタヒチに移住したゴーギャンの苦悩に言及され、著者の規範的見解は、両義的なものだということがわかります。19世紀型のパノプティコンを内面化して主体化を遂げた個々人からなる社会と、外在的でどこまでも拡張されたパノプティコンの監視に包囲された社会。どちらもおぞましい、ということでしょうか。

 かつてフーコーは規律訓練権力を批判して、近代社会における主体化の理想を問いただしましたが、フーコーは他方で、「生権力」を批判して福祉国家の形成そのものに疑問を呈し、また、自己企業化の態度を批判して、新自由主義にも疑問を呈しました。すると結局、フーコー的な理想は福祉国家でも新自由主義でもなく、云々、となるわけですが、それが何なのか、が問題ですね。

 自分で自分を統治する自己統治の理想も、他人に自分を統治してもらうということも、いずれもおぞましいものに見えるのは、そもそも統治のミクロの権力作用というものが、人間の究極の理想を実現することには通じていないからではないでしょうか。私たちは、統治のミクロ権力を離れないと、人間的な理想に到達することができない。

 他方で、人間というのは、自分の快楽や幸福を最大化する選択肢というものが、何であるのかを判断できない弱い存在であるとして、それでも人間は、統治者の側に立って、社会全体の快楽や幸福の総量を最大化する方法については、仮説的にであれ、合理的・普遍的に考えつくというのも、面白い人間的事実です。この事実が、統治功利主義を支える一つの基礎であると同時に、また他方では、人が自分よりも他者をケアすることに長けていることを示しているのかもしれません。人は自分よりも他人をケアすることに長けている。この事実から出発する議論は、その反対の議論(人はなによりも自分をケアする「自己保存」の原則をもつという議論)との比較で、統治理論上の興味深い特徴を示すかもしれません。

 

 

■闘争的で創造的な資本主義の理想

 

『岩波講座 政治哲学4 国家と社会』岩波書店

 

金山準様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ソレルのいう「暴力」とは、国家の強制力に抗する活動そのものです。それは実際の暴力概念とは、ずいぶんずれた用法ですね。

 ソレルを規範理論として読むというのは、とても興味深いです。

第一次世界大戦後の現実として、国家と資本主義が癒着する状況が生まれていました。革命的な労働者の運動は、そうした国家独占資本主義の段階に対して、「反資本主義」と「反国家主義」の両方を求めています。こうした対立構図のなかで、ソレルは、国家の庇護のもとで闘争的精神を失った資本家たちを批判する一方、改良主義的な仕方で社会主義を導入しようとする労働運動の現実路線を批判します。資本家は国家と癒着せずに、むしろ国家に抗して闘うべきである。また社会主義を求める労働者たちは、国家に支援を求めずに、革命を展望すべきである。こうした二つの規範を提起するわけですね。

 では革命の先に描かれる社会の理想とは、ソレルの場合、どんなものでしょう。「皮肉なことに、労働者の闘争は資本主義をむしろ救い出すのである。」「ただ付言する必要があるのは、それは巨大資本を主体とする二〇世紀以降の資本主義のイメージよりは、個々の才覚によって問題を解決する企業家や、「アトリエ」において身体感覚や経験をもとに創意工夫を発揮する職人をモデルとしたものに近いという点だ。」(68)

 こうしたソレルの発想は、現代の創造的資本主義におけるベンチャー企業の企てを、規範的な理想とするものといえるかもしれません。それは言い換えれば、アトリエ的創造型の資本主義社会というものかもしれません。

 

 

■戦後日本はハイエク的な近代化を遂げたのか

 

 

古賀勝次郎『鑑の近代』春秋社

 

古賀勝次郎先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これまで積み重ねられてきたハイエク研究を、今度は日本の近代史解釈に応用するという、大変野心的でかつ緻密な議論であると思います。

 1868年の明治維新の直前、1866年に、森有礼は兄にあてた手紙のなかで、日本の慣習と西洋の法を折衷することが公平な制度をもたらすのだ、というようなことを書いています。こうした折衷的な考え方は、日本の近代化においてやがて主流となるわけですが、これに対して中国では、儒教の礼治主義と西洋の法治主義が激しく対立し、これらを折衷するという考え方が主流になりませんでした。だから中国は近代化が遅れた、というわけですね。

 しかし「終章」で示されるように、明治時代に日本が導入した西洋の法思想の主流は、法の支配を重視するハイエク的な自然法思想ではなく、むしろ法実証主義でした。結局、日本(あるいはドイツも)が自然法の「超法的原理」を見直して、実質的な法治国家を目指すのは第二次世界大戦後のこと、と本書は主張しています。

 すると歴史解釈として、明治時代から第二次世界大戦にいたるまでの日本の近代化は、大陸的な合理主義に基づくものであり、ハイエク的な理想と対立する。ところが第二次世界大戦後になってはじめて、日本はハイエク的な意味での「法の支配に基づく合理主義」を実質的な意味で導入することができた、ということになるでしょうか。

 ただそうなると、戦後のケインズ主義政策や原発政策など、ハイエクであれば批判するであろう法律ないし政策が、なぜ実施されたのかについて、さらに説明する必要があるようにみえます。戦後の日本は本当に、ハイエク的な意味での法治国家を実現したのでしょうか。結局のところ、日本はハイエク的な意味で、「法の支配」にもとづく合理主義の法制度を導入したことはないのかもしれません。たんに全体主義をふさぐための「法治国家」の実現ではなく、ケインズ主義や科学主義をふさぐための「法の支配」という理想は、実現されたわけではありません。そのように理解することもできます。いったいどの程度、日本の近代化はハイエク的な要素を持っていたのか、という問題ですね。

 それにしても現在の中国の発展について、ハイエク的な議論は説明力をほとんどもたないかもしれない、と思いました。本書は、中国の憲法が、本来の法治国家のものとは全く異質で、いぜんとして政治の道具に過ぎないだろう、と指摘しています。300頁。そのような国家のもとで、これだけの経済発展が可能になったというのは、逆に驚くべきことであり、ハイエク的な「法の支配」の理想を導入しなくても、社会はかなりの程度まで発展することを示しているのではないでしょうか。戦後の日本は「法治国家」を確立したから経済発展をしたのかどうか。この点にも疑問が残るのですが、いずれにしても最近の中国は「法治国家」を確立せずとも経済発展しているようにみます。この現実をどのように説明すべきでしょう。ハイエクの枠組みに拠ることができないかもしれない、と思いました。

 

 

■オープン・ガバメントは、オープン・カンパニーの可能性を示唆

 

吉野裕介『ハイエクの経済思想』勁草書房

 

吉野裕介様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 これまでのご研究を濃縮して、新しいハイエク像を描くことに成功していると思います。

とりわけ第八章で、オライリーの「オープン・ガバメント」論とハイエクの比較がなされている点は、たいへん興味深いです。

 知の創造性と文化進化の作用を高めるためには、たんに市場競争を促すだけではうまくいきません。人びとが互いに「切磋琢磨」して、「公共的な次元で活躍したい」というインセンティヴを取り込む必要がありますね。そのようなインセンティヴを利用するためには、政府は情報の公開性・透明性を高めて、誰もがその運営に携わることができるようにすることができます。そのような「オープンネス」を実現することで、政府に対する信頼性も高まり、支配の正統性が確保され、人々の自発的な奉仕心を引き出すことができるのでしょう。

 この「オープン・ガバメント」の考え方は、ハイエクとは異質ですが、しかし従来の福祉国家の考え方にもありませんでした。いずれにせよ、オープンにすれば、政府の機能を悪用する人も生まれるわけで、そのような人たちに対応するコストが高くつけば、うまくいかないでしょう。政府の理念を内面化して、そのサービスを安価に担う市民が生まれなければ、オープン・ガバメントはうまくいきません。

 このオープン・ガバメントの考え方を、今度は逆に、民間企業に応用してみるとどうでしょうか。次のように考えてみました。

民間企業は、その運営の透明性をできるだけ高め、誰もがその運営について批判的に検討できるようにする。またその企業の理念と活動に賛同する市民のだれもが、自発的にその企業のために奉仕したり、あるいは批判的かつ建設的な意見を述べたりできるようにする。そのような参画は、政府とは無関係ですが、公共的な活動といえます。しかし民間企業とその消費者たる民間人の連携を高めて、民間企業をいっそう創造的な組織にすることができるかもしれません。

オープン・ガバメントの議論は、このように、「オープン・カンパニー」の可能性を示唆しているように思います。オープン・カンパニーは、たんに市場競争という自生的秩序のなかで淘汰に晒されるのではなく、ひろく文化進化の文脈で発展していく可能性を秘めています。こうした考え方はハイエクを超えて、新しい経済思想の可能性を示唆しているかもしれません。

 

 

■ノイラートのメタ・アソシエーション

 

桑田学『経済的思考の転回』以文社

 

桑田学様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ノイラートにいたるまでの生物経済学ないし自然経済の系譜を発掘する点で、大変充実した内容になっていると思います。

 とりわけ、オットー・ノイラートがハイエクの科学主義批判に強い関心を示したというのは、興味深いですね。ノイラートはハイエク著『隷従への道』への書評を書いて、その後、一年間、ハイエクと文通しました。そのあいだに書かれたノイラートの未発表草稿は、ハイエクに論争を挑むものでした。ノイラートは、自分の目指す合理主義的な社会主義というものが、ハイエクのいう設計主義的な合理主義とは違って、ギルド単位の分散型の社会主義になるだろうと展望しています。

 晩年のノイラートは、コールの計らいで、オックスフォードに亡命します。イギリスでの文化的影響も大きいのでしょう。ノイラートは、漸次的な仕方で、理想を求めていきます。社会秩序を評価する際に、「食糧、住居、教育、健康、そして(気質としての)自由を生産するその能力」というものを重視するようになります。福祉政策に必要な複眼的思考ですね。

 ノイラートは社会主義経済計算論争において、独自の立場をとりました。彼は、さまざまなアソシエーションからなるメタ・アソシエーションの秩序という理想を掲げました。そのような理想の観点から、例えば東ドイツがなぜうまくいなかなったのか、あるいは1989年になぜ東欧革命が起きたのかについて、別様の説明もできるだろうと思いました。

たとえば、それぞれの産業をギルド(シンジケート)として合理的に組織化して、各ギルドの執行部に経営の責任をもたせるような経済秩序を考えてみましょう。経営がうまくいかなくなったギルドは、倒産します。倒産してから、新たに再編されるまでの過程には、市場の機能を認めることにします。国家やその他の国際機関は、けっしてそれぞれのギルドを救済しないこととします。そのような社会は、ノイラートの理想であったでしょうか。アソシエーションとしてのギルドを救済するために、高次のレベルのアソシエーションを想定する場合には、やはり経営の悪化した(赤字を出して信用を失った)ギルドを救済することになるでしょうか。どうもここらへんが、ギルド型社会主義の可能性を探る場合に、決定的に問題になるのではないかと思いました。

 

 

■シティズンシップの地位は下がってきた

 

クリスチャン・ヨプケ『軽いシティズンシップ』岩波書店

 

遠藤乾様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 古典となったT.H.マーシャルのシティズンシップ論は、一国レベルで社会主義的な福祉国家を実現することを理想としているため、移民の問題に対応できない、という本書の指摘はその通りだと思います。

 社会主義諸国の崩壊以降、そして現代のグローバル化のなかで、シティズンシップの地位はますますリベラルなものとなり、例えば二重国籍を認めたり、帰化要件を緩和したり、といった具合に、開放的なものになっています。

 大枠として考えると、マーシャル的な一国福祉国家のシティズンシップの理想は崩れ、社会権としてのシティズンシップは弱体化しています。代わって、シティズンシップを取得するための地位の要件が、リベラル化していますね。シティズンシップそれ自体の地位は、あまり重要ではない、取得してもコストに見合わないような、そんな最小限のものへと変容しています。例えば「外国人の権利」とか「少数者の権利」といったものは、シティズンシップの理念に照らして、階層的に位置づけられます。

国家がその構成員に対して与える「包摂」も、どの国家であれ、同じようなものとなり、普遍的なシティズンシップのための「アイデンティティ」というものになってくる。そのような傾向の延長線上に、EUシティズンシップといった、国家を超える共同体のシティズンシップも可能になっている、ということですね。

 社会権としてのシティズンシップが衰退したことは、「包摂」という言説が、市民の権利と地位に応じた保障ではなく、賃労働市場への再統合であったという指摘(21-22, Handler 2004)は重要です。またそれに応じて、福祉国家が「条件整備国家」に変容した、というGilbert 2002の指摘も興味深いです(210)

 

 

■自律は「ニーズ」の一つであるという主張について

 

ドイヨル/ゴフ著『必要の理論』勁草書房

 

馬嶋裕様、山森亮様、遠藤環様、神島裕子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は、1991年に刊行された本の前半部分を訳出したものです。

 「必要(ニーズ)」とは何かについて、現象学的な観点から論じる立場として、Smith 1980があります。「必要」概念には、人によってさまざまな解釈があり、また特定の社会的文脈で、どのように用いられているかも違います。現象学というのは、それらを整理するような研究ですね。しかし理論家というものは、これまで提出されていない新しい解釈や理念を提起するものです。本書は現象学的アプローチを批判して、一つの理論を提示しています。

 しかし理論といっても、厚生経済学の必要論は、矛盾を抱えていることが指摘されます。

 Penz 1986によれば、欲求充足の原理を用いて個人間の厚生を比較する場合、追加的な規範的判断を持ち込まないと、そもそも測定することができないといいます。しかしある規範的な判断を持ち込む場合、欲求充足の原理は、もはや主観的なものではなく、何らかの客観的なものとみなされ、消費者主権の原則から乖離してしまうでしょう。

 「必要」について、ある種の普遍的で客観的な基準を提起することはできます。まず、絶対的な「必要」の基準については、文化横断的に、普遍的に決めることができるでしょう。ではもっと豊かな基準としての「必要」は、特定の社会的文脈に依存して決まるにすぎないのかといえば、そうではないというのが本書の主張です。

 本書は、人間が「自律」するための基本的な資源を「必要」の本質とみなします。その基準は普遍的なものたりうると主張します。

 なにが「必要」であるのかを民主的に決めるのではなく、反対に、民主主義を運営するための基礎として、一人一人の市民は自律した意見を形成しなければならないという理念に照らして、そのために「必要なもの」が同定されるわけです。「必要」の中身を民主主義政治における多数派の意見にゆだねることは危険ですね。これはTownsend 1972の議論でもあります。(40)むしろ民主主義が機能するための、基本的な条件であって、それは例えば、「投票」の制度と同じくらい欠かせない不可欠なものとされるでしょう。

 第三章は、本書の理論的核心部分です。ここでは、「衝動(drive)」と「目標(goal)」が区別されます。「衝動としての必要」は、何が人間を生物学的に決定づけているか、という理解から「必要」を定義します。しかし人間にとって必要なものは、必ずしも「衝動」によって特徴づけられるわけではありません。例えば「運動すること」や「ダイエットすること」は、そうしようと駆り立てられないけれども、「必要なもの」です。自分には何が「必要」なのか。それは、自分が何をしたいのか、という問いとは区別されて、探究されるべきものとされます。

 本書は、「必要」というものを、個人にとって「客観的に利益になるもの」であるととらえます。そしてその利益は「普遍化可能な諸目標」であるとされます。例えば、食料や住居などです。

 私たちはふだん、何を食べようか、あるいはどんな家に住もうか、という具合に、食料や住居について戦略的思考を働かせます。しかしその背後には、基本的な食料が栄養補給のために必要であるとか、また基本的な住居が身体を守るために必要であるといった、「諸目標」に関する理解が前提となります。ここで重要なのは、「のために」という言語の用法です。

 「・・・必要とする(また、この点については欲求する)ということへの理由は、本質的に公共的なものである。」(51)とされます。

 「AのためにBが必要」という論理で、Aの理由が公共的に是認される場合に、Bが必要物として正当化される、というわけですね。

 しかしよく考えてみると、ここで定義される「必要」は、「欲求」と区別されたもの(「欲求されないもの」)を含んでいませんね。またここで公共的というのは、必ずしも民主的に決められる事柄ではなく、ある種の科学的な調査と理解に基づくものとされていますね。

 ここで「公共的」という言葉が、たんに人々の合意に基づくものであるとされるなら、それは最低限のものになってしまうかもしれません。しかし「公共性」とは、様々なアクターたちがイマジナリーの次元を持ち込むことができるような領域なのでしょう。「必要なもの」というのは、最低限の絶対的基準を超えて、ヒューマニズムにもとづく権利要求となって現れます。それはさまざまな可能性を探り、どんどん肥大化していくものとして想定されることになるでしょう。「必要」とは、他者によって承認されるべきものとして、公共の場で権利要求されるものであり、そのような要求は、個々の特定の文脈を超えて普遍化されます。そのような要求を認める側は、これまでの文脈的判断の再検討を迫られるわけです。

 この後、第四章では、普遍化可能な「必要」というものが、自律のための条件であるとして、理論化されています。いろいろと検討する必要がありますが、もっとも重要な問題は、「自律」が目標であるとして、そこにはパラドックスがあるかもしれない、ということでしょう。

一方には、自律を前提としない必要物があります。食料や住居などです。他方で、自律することが必要であるという場合の自律とは、自分(あるいは自分を含む人々)にとって、何が必要であるのかを自律的に考えられるということですが、この論理は、自律のために自律が必要だ、という循環論法になっているのではないでしょうか。(これでは公共的な理由とは言えませんね。)それとも自律が必要である公共的理由は、より高次の目標を参照するのでしょうか。どうも「理由」となる理念を「自律」という目標に回収できなければ、自律は究極的な妥当性を失うように見えますし、しかし回収すると今度は循環論法になってしまう。

 おそらく自律が必要であると主張する際の公共的理由はいろいろあって、その諸理由はどれも決定的なものではなく、自律概念を取り巻く副次的なセットになっているのかもしれません。しかしそうだとすれば、そのような諸理由を「別様」にまとめることで、「自律」よりもむしろ、例えば「潜在的可能性」こそが「必要」である、という主張を立てることもできます。第四章の理論を組み替える余地は大いにあると思いました。私も考えていきたいと思います。

 

 

■他国経済を刺激するというケインジアン政策

 

ケインズ学会編、平井俊顕監修『ケインズは、《今》、なぜ必要か?』作品社

 

平井俊顕様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 伝統的なケインジアンの政策では、家計が貯蓄願望を高めているとき、また、企業が投資に乗り気ではないとき、政府は自らの支出を増大させることで、あるいは税を下げることで、家計と企業の経済活動を刺激できるとされます。

 しかし、金融危機に対処するために、政府がすでに多額の債務を抱えてしまうと、その債務こそが経済を停滞させるための原因であるとみなされます。こうなると、政府は自国の家計と企業の活動を刺激するための政策を打つことができません。

 こうした事態に対処するために、クレーゲルは、他国(金融危機に巻き込まれなかった諸国)の家計を刺激して、自国から他国への輸出を拡大することが、一つの解決策になると考えます。そのために他国の政府の債務を増やして、他国の経済を刺激する、という方法が考えられます。すべては国際協調によって諸国の財政赤字をうまく拡大することができるかどうか、その協調がもつ政治的な信用にかかっているといえるでしょう。

 一般には、内需を刺激する方法がケインジアンであるとみなされますが、輸出に頼る方法もまた、国際協調的なケインジアンの政策になるというわけですね。

 

 

■政権が危うくなるのは戦争開始から二年後

 

中山俊宏『介入するアメリカ』勁草書房

 

中山俊宏様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

ヴェトナム戦争とイラク戦争に共通する点は、開戦当初の世論調査で、「戦争の判断は間違っていた」という応答が、20%程度であったということ。またその約2年後に、50%程度にまで上昇している、ということです。

ということは、いずれにおいても、戦争開始から約2年後に政権が危うくなった、というわけですね。しかしこの二つの戦争を比較すると、「軍指導部を大いに信頼する」という評価については、最初はそれぞれ60%程度であったものの、ヴェトナム戦争のときは5年後に27%まで下がるのに対して、イラク戦争のときは、5年後になっても47%程度の評価であり、それほど下がりませんでした。アメリカ人は、軍部を信頼するようになったということですね。

「イラク戦争は順調に進行しているか」、「アメリカはイラクに駐留し続けるべきか」といった質問についても、2007年から2008年にかけて、死傷者が減り治安状態が回復すると、アメリカ人の世論は好転しています。

アメリカがイラク戦争を開始したとき、世論はどちらかといえば戦争に反対でした。それでもアメリカ国民は、アメリカ軍が戦争をうまく戦って、現地の治安を回復させることができるだろうと期待したのでしょう。また当時の国際世論も同様に、アメリカが他国に軍事介入することの正統性を疑いましたが、その後の治安回復に向けてのアメリカの努力については、これをプラグマティックに評価するという態度に変化しました。こうしてアメリカの軍部に対する信頼は、戦争の正当性とは別に、任務遂行についてのプラグマティックな正当性を獲得するようになったということでしょう。

 

 

■内田芳明先生の思い出

 

201478日、内田芳明先生が90歳にて永眠されました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

私が内田芳明先生のゼミ(横浜国立大学)にオブザーバーとして参加したのは、1987年の春、大学2年次の前期であったと思います。約3人の学生と先生で運営された少人数のゼミでした。

 とくに印象に残っているのは、ウェーバーの『宗教社会学論選』を輪読したことです。私も発表する機会をいただきました。一週間かけて、ある部分を何度も読み返して準備したことを思い出します。

 学部生の当時は、内田先生に勧められて、クラーゲス『リズムの本質』などを読み、生と芸術の関係について考えたりしました。生の哲学から入り、その後、ウェーバーの魅力を知ったわけですが、そのような知への誘いを、すべて内田先生の人格的な魅力によって導かれたように思います。また、内田先生の訳『古代ユダヤ教』(ウェーバー)は、ずいぶん後になってから読みました。とても感銘を受けたことを記しておきます。

内田先生はいつもウェーバーの私的な側面について語ってくれましたが、面白かったです。そのネタ本であるマリアンネ・ウェーバーのウェーバー伝についても、後で読み、感銘を受けました。

当時の内田先生は、『風景の現象学』など、一連の風景論を展開されていました。エディンバラの風景がいかにすばらしいのかについて語ってくれました。私も大学2年次の夏にエディンバラを訪れる機会があり、なるほどこの風景のことか、とリアルに感じた次第です。

内田先生の主張のなかで、最も印象的なのは、「境界」と「周辺」は異なること、文化の創造は「境界(マージナルな領域)」からなされること、そして日本は歴史的・地勢的にみて、そのような境界的な位置にあるということ、こうした「境界性」についての理解です。

内田先生は、西洋の近代化とともにあるウェーバー社会学を研究するに際して、日本人あるいは東洋人であることの文化的劣等性を意識しながらも、マージナルな位置から新しい文化を創造するという意欲や自負心をお持ちであったように思います。実際、1980年代の日本人というのは、多かれ少なかれ、およそそのような文化的なルサンチマンとプライドという、相反する意識を合わせもっていたのでしょう。けれどもその後の日本社会は、近代化の成功とともに、マージナルな位置を失っていったのではないでしょうか。「文脈に埋め込まれた自我」という、コミュニタリアニズムの理念がしだいに納得のいく社会状況が生まれてきます。

 

 内田芳明『ヴェーバー「古代ユダヤ教」の研究』岩波書店、2008

 

 

■バランス精神としての保守

 

中山俊宏『アメリカン・イデオロギー』勁草書房

 

中山俊宏様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 「使命感を伴った政治運動」としての新保守主義が政治的な成功を収めると、その後は結局、従来型の利益配分政治に変質してしまう、というわけですね。すると2008年の共和党の敗北以降、新保守主義がどのように自らを再規定するのかという問題は、大変興味深いです。

 はたして共和党は、原則を重んじる保守主義の伝統に立ち戻るべきなのか、それとも改革論の新たなイデオロギーを組み立てていくのか。新保守主義の成功と衰退のあとに、新たな保守主義を組み替えていくという思想的な営為が、いかに難しいかということが分かります。

 改革派の在米イギリス人論客、アンドリュー・サリヴァンは次のように指摘します。保守主義のなかには「懐疑する精神」があって、それは「原理主義」と異なり、バランスをとる精神になると。またそのようなバランスの精神は、気質的な意味での保守主義と通じているのだと。

 保守主義は、一方では「全能」の幻想に疑問を投げかけ、他方では、世俗主義と価値相対主義が政府の肥大化をもたらす事態に疑問を投げかけます。そのような「懐疑」の役割が、保守主義の魅力でもありました。「全能」と「世俗」に対する両面懐疑としての保守主義は、進歩主義が大きな政府による福祉国家を求めている場合に、カウンターとして機能します。

けれどもオバマ大統領が気質的な保守主義者であるとすれば、どうでしょう。懐疑とバランスを志向する保守主義は、同じく懐疑とバランスを志向するリベラル派とのあいだに、あまり気質的な違いをもたらさないかもしれません。イデオロギー的には異なるとしても、あるバランス感覚と、別のバランス感覚のあいだで政策を争う場合、その対立は見えにくくなります。すると新保守主義は、保守主義のバランス感覚に立ち返ったとしても、政治的には明確な座標軸を失うことになるでしょう。次に可能な保守のイデオロギーはどのようなものか。じっくり探る必要があります。

 

 

■内田義彦は居間のソファで執筆

 

『内田義彦の世界 1913-1989』藤原書店

 

山田鋭夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

本書は、山田鋭夫先生が編集された本といってよいのでないでしょうか。プロローグ、座談会、「内田義彦を語る夕べ」、主要作品解説など、重要な箇所を担当されています。いずれも読み応えがあり、改めて内田義彦の思想世界と向き合う機会を与えていただきました。

本書は時間をかけて入念に仕上げられた作品であることがよく伝わってきます。様々な分野の方が執筆されており、いずれの文章も内田義彦先生に対する思いがこめられていますね。内田義彦という一人の思想家を取り巻いて、さまざまな角度から学問への思いが語られています。

 第三部では、内田義彦が書いたさまざまな断片が紹介されています。構成に流れがあり、学問とその背後にある生活の関係が豊かに語られていますね。とくに芸術論については、創造的な態度そのものを学ぶ姿勢が伝わってきます。私も自分の研究が「作品」としての価値をもつようにしなければならないと反省しました。

 本書で内田義彦先生本人も、私生活に関する興味深い話をいろいろと語っていますが、内田純一さんの執筆によるエピローグで、内田義彦(父)が書斎で執筆せず、居間のソファでブリキのお盆を膝の上に乗せて書いていた、というのは興味深いエピソードです。

内田義彦の経済思想をどのように評価すべきかについて、いずれ真剣に取り組まなければなりません。

 

 

■社会に憤慨する力をもたないエリートたちは失格

 

ジャック・アタリ『危機とサバイバル』作品社

 

林昌宏様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 わずか38歳でフランスのミッテラン大統領特別補佐官を務め、1991年には48歳で自ら提唱した「ヨーロッパ復興開発銀行」の初代総裁になる。1992年のEU成立の影の立役者ともいわれているジャック・アタリ。彼の講演のネタ本です。

 21世紀を生き抜くための7つの原則について語られています。どれもおっしゃる通りで、改めて自分と自分を取り巻く組織の診断を受けるような気分になりますね。読者に「喝」を入れるための内容になっています。

 興味深いのはやはりエリート層に対する批判。「今日の日本には「怒る力」「憤慨する能力」が不足している。とくに衰弱したエリート層に対して、日本人は憤慨すべきだ。」というメッセージ。革新的に思考して、憤慨するときが訪れたのである、という言い回しは、とにかくこれだけ豊かになった日本、これから衰退するであろう日本に対して、まさに「憤慨する能力」がなければエリートとして失格、日本はダメになる、と言いたいのでしょう。

フランスの場合は、すでにそのような憤慨の政治が顕著ですね。日本もやがて、エリートであれ対抗エリートであれ、どのように憤慨して社会全体に喝を入れるのか、ということが統治の大きなポイントになるのではないかと思いました。怒る力をもたず、満たされた生活のなかでますます衰弱していくエリートたちに、一喝の書です。

でも結局、この社会をどうすべきかについての規範構想については、語られていません。

 

 

■菅原文太さんの思い出

 

20141128日、菅原文太さんが81歳にて永眠されました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

私が菅原文太さんとお会いしたのは、昨年の五月か六月だったと思います。ラジオ番組の収録で、二時間くらいお話しました。

拙著『ロスト近代 資本主義の新たな駆動因』の内容をめぐって、とても白熱した議論を交わしたことを思い出します。

文太さんは、圧倒的な存在感のある方でした。

現代の若者たちを憂いていました。

私は反対に、もっと日本の若者たちに期待してもよいのでは? などと発言したかと思いますが、その時は、これから沈みゆくであろう日本社会の危機、というものが会話のテーマでした。そのような大局的な関心のもとに、拙著『ロスト近代』を取り上げていただき、大変光栄に思います。

そのときに一つ驚いたことがあります。文太さんがこの番組の準備として、拙著『ロスト近代』にたくさんのカラフルな付箋を貼って、しかもいろいろ書き込んで読んできていただいたということです。

それだけ入念に準備しても、文太さんは、「私も十分に理解したわけではないのですが、・・・」と謙虚な姿勢で、いろいろと質問を投げかけてくれました。

私も文太さんの映画をDVDでいくつか見て準備していました。『トラック野郎』の時代背景が云々、といったことをいろいろとしゃべったように思いますが、失礼しました。

 ラジオ番組でお会いして、言葉では表せない、大きな影響を受けています。あらためて、ご冥福をお祈り申し上げます。

 

ラジオ ニッポン放送 番組「菅原文太 日本人の底力」出演・橋本努

2013年7月14日(日)&21日(日)朝5時半から6時(ニッポン放送)

岐阜放送は、7月21日(日)&28日(日)22時〜22時半の放送

ラジオ関西は、7月20日(土)&27日(土)朝5時から5時半の放送

 

 

 

■「生き方のモデル」がないと「無頼化」する

 

水無田気流『無頼化した女たち』亜紀書房

 

水無田気流様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は、2009年に洋泉社から『無頼化する女たち』として刊行された新書に、第二部と第三部を加えたものです。現在、女性の労働者の半数以上は、非正規雇用。年収が300万円に満たない女性は、女性労働者全体の七割。

未婚率が高まる一方で、女性労働者の割合は増えています。

そうした日本社会で、女性の新しい「生き方のモデル」が不足している点に、本書は注目しています。生き方のモデルがないので、ごく普通の女性たちもまた、ストーリーのない「無頼」の生き方をするようになってしまう。専業主婦でもキャリアウーマンでもなく、無頼化する女性たちの現実を、ゲームの「クソゲー」に例えている点が面白いですね。

 例えば、「バグが多すぎる」、「ゲームバランスが悪すぎる」、「ストーリー・内容が理解不可能すぎる」、「クリアが極度に困難すぎる」という特徴をもったゲームを、現代の女性の生き方の比喩として用いると、なるほど、とうなずける点があります。

 最後に、「ママほいほい」の話。笑いました。息子さんも、すでにすごい知恵を身につけましたね!

 

 

■平凡な規範言説が流通していまう現代は、面白くない

 

鈴木洋仁『「平成」論』青弓社

 

鈴木洋仁様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

とても熱のこもった立論だと思います。「バブル崩壊」とか「失われた十年」といったフレーズが、どの程度の頻度で用いられてきたのかという分析は興味深いですね。

 平成の時代になって、テレビのニュース番組は、どのように消費されているのでしょうか。それは例えば、80年代におけるニュースの消費パタンと、どのように異なるのでしょう。

 80年代の人々は、ニュースを事実として欲していた、というのは本当かどうかわかりませんが、ただ80年代を含めて、社会的に大きな事件は、私たちの社会が抱える様々な矛盾を照らし出すという役割を果たしていましたね。そうした事件をたんに正義の言葉で裁くことよりも、もっと根源的な問題提起があるのではないか、と人々は受け止めることができたのでしょう。

ところが平成になって、とりわけゼロ年代以降になって、そのような見方で捉えられる事件が少なくなっているようにみえます。むろん9.11テロ事件は、根源的に世界を問い直すきっかけを与えました。事件は責任と正義の言葉では消費されなかったでしょう。

現在、人びとはニュースで報道される事件に対して「責任と正義」の言葉で解釈するようになっています。テレビのニュースで、専門家の規範的なコメントも消費されます。コメントは概して平凡なもので、「はやく犯人が捕まってほしいですね」といったものです。そのような正義の言説を聴くことで、人びとは恐れや憤慨のない日常を新たに肯定することができる、というわけですね。

今の社会が一番いい、これ以上にいい社会は存在しない。だからいまの社会を肯定し、この社会を脅かすものは責任と正義の言葉でもって批判する。そのような、ある意味で恐るべき「現状肯定の感覚」があって、その感覚を確かめるために人びとはニュースを消費している。

 だから最近のニュースは面白くない、というわけですね。この平成という時代そのものがフラットな時代であり、さまざまな矛盾を原動力にして変動していくという社会のダイナミズムを失っているのかもしれません。

 

 

■新自由主義は小さな政府を実現できなかった

 

坂本達哉『社会思想の歴史』名古屋大学出版会

 

坂本達哉様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 新自由主義の勃興と、「ベルリンの壁」以降の世界の激動は、本来、何も関係ないという指摘はその通りだと思います。また、新自由主義が台頭したと言っても、政府の規模は着実に大きくなっているという指摘も重要です。

 小さな政府を目指すはずの新自由主義は、イデオロギーとしてはケインズ主義や社会主義に代わって支配的になったものの、小さな政府を実現しているわけではありません。

 ハイエク自身、社会がゆたかになるにつれて、生存保障の最低限度もまた、上昇するだろうとみていました。またその水準を満たすことが政府の役割であり目的である、と考えていました。ハイエクは、政府が特定の目的をもった「組織」であると理解していましたが、政府が何らかの目的を追求することそれ自体が悪いのではなく、そのような目的を達成するための方法として、自律分散型のシステムを採用することが望ましい、と考えていたのでしょう。(『自由の条件III 福祉国家における自由』9

 ハイエクは政府の営みを、諸個人の多様な目的に仕えるための普遍的な手段(自由の条件)としてみるのではなく、生存権の要求を満たすという、集合的な目的を実現するための装置としてみていた、という理解は重要であると思いました。

 

 

■高学歴・若者ほどパソコンを利用している、わけではない

 

橋爪大三郎=序、籠谷和弘、小林盾、秋吉美都、金井雅之、七條達弘、友知政樹、藤山秀樹著『ソーシャル・メディアでつながる大学教育』ハーベスト社

 

小林盾様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 合同ゼミの記録がとても充実しています。

 各グループの仮説検証で、以下の仮説が否定されたというのは興味深いです。

 「高学歴・若者ほどパソコンを利用している」×

 「正社員ほどパソコンを利用している」×

 「大企業勤務者ほどソーシャル・ネットワーキング・サービス上の知人が多い」×

 「女性ほどメールが多い」×

 「ソーシャル・ネットワーキング・サービス上友人が多いほど年収が高い」×

 「ソーシャル・ネットワーキング・サービスの利用者ほど、信頼できる友人が多い」×

 

 

■カフカにとっての二重の不条理

 

岩下明裕・木山克彦編『図説 ユーラシアと日本の国境 ポーダー・ミュージアム』北海道大学出版会

 

岩下明裕様、木山克彦様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 フランツ・カフカ(1883-1924)は、ハプスブルク帝国の末期に、プラハで暮らしていました。

当時の不条理とは、ドイツ語とチェコ語の二つの言語が話されていたプラハで、しだいにナショナリズムの運動が高まって、プラハ全体が、チェコ語中心の都市へと急速に変容していったということです。

ドイツ人とチェコ人の民族紛争が増えます。そうした状況で、ユダヤ人たちは、どちらの言語を話すべきか、選択を迫られました。

1890年において、プラハではユダヤ人の73.8%がドイツ語を話していましたが、10年後の1990年には、45.%にまで減少してしまいます。

 ユダヤ人であったカフカは、ドイツ語とチェコ語を話すことができました。

でも、もっぱらドイツ語で小説を書きました。ところがしだいに「反ユダヤ主義」が高まり、ドイツ系ユダヤ人としてのカフカは、二重の排斥に苦しめられたのですね。

 

 

■「貧困の罠」対策には新自由主義政策を

 

鈴木亘『社会保障亡国論』講談社現代新書

 

鈴木亘様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 リーマン・ショック後の2008年の暮れに、失業者の増大で東京の日比谷公園に「年越し村」が設営されました。

するとその後、生活保護費は急速に増大し、とりわけ、「働けるのに働かないで生活保護費を受給している人」(「その他の世帯」に分類される人)たちの割合が増えました。

 もちろん経済危機によって生じる失業問題への対応として、一次的にそのような「働けるのに働かない、働きたくても働けない」人たちに生活保護費を支給することは必要でしょう。しかしいったん生活保護費を受け取ると、今度は、働いても損をしてしまうという状況が生じます。生活保護費をもらうと、「貧困の罠」から逃れられなくなる、という問題があります。

 この問題に対応するには、最低賃金を上げて「働くインセンティヴ」を高めればよいのでしょうか。

本書の提案は、M.フリードマンの「負の所得税」の発想に従うもので、つまり、最低賃金を安くして、もっと雇用を創出すると同時に、所得が一定額に満たない人には、働いた分に政府が給付を上乗せするという、「給付付き税額控除制度」を取り入れることが望ましい、というものです。

 このようないわば「新自由主義」的な発想の政策をとるべきなのかどうか。

いずれにしても、このままバラマキ財政を続ければ、2050年に消費税率30%超、国民負担率70%超になる、という試算ですね。

抜本的な改革の必要性を、政治家たちはきちっと説明しようとしないので、結局のところ、大きな経済危機が到来しなければ、私たちは自主的かつ内生的に改革することができないのかもしれません。国民もまた、このような改革の必要性から目をそむけていたいと思っているのかもしれません。できれば政治家たちに欺いてもらいたい、それでうまくいくなら危機を先延ばしにしたい、という心理が働くのではないでしょうか。

 

 

 

 

仲正昌樹編『現代社会思想の海図 レーニンからバトラーまで』法律文化社

 

仲正昌樹様、西角純志様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

キルケゴールは18909月に、枢密院諮問官の18歳の娘と婚約しましたが、その約一年後に解消しているんですね。

 キルケゴールは、風変わりな生活をしていたため、諷刺新聞の餌食となったというのも興味深いです。

キルケゴールは、当時のプロテスタント教会全体が、キリスト教的ではないと批判して敵を作っている。そうした内容は「不道徳」で「いかがわしい」と批判され、嫌われたようです。