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【書評】

佐藤方宣編『ビジネス倫理の論じ方』ナカニシヤ出版

『図書新聞』2009627日号、6頁、所収

 

橋本努

 


 

 ここ数年、経済を倫理的に問う声が喧しい。食品偽装やライブドア事件、格差問題や企業の社会的責任(CSR)など、いずれも問題となっている本質は、制度的なものである以上に、経済を営む人間の「質」に関わっているのではないか。はたして経済活動は、人間の美質を高めるように営まれるべきなのか。それとも経済は倫理から自律した領域でかまわないのか。経済倫理のこの根本問題に正面から挑んだ本書は、執筆者たちの熱意が伝わる好著である。各章ともネタの仕込みが周到で、思想とエンターテイメント性を兼ね備え、教育者として色気のある文体でもって読者を問題の本質へと誘い込む。

 例えば「お客様は神様です」というのは、本当だろうか。日本では芸人の三波春夫によって広められたこのフレーズであるが、では「悪質クレーマー」のようなお客様も「神様」として遇すべきなのだろうか。問題の背後には、「消費者主権」をめぐる思想の歴史がある。これまでの通念では、ガルブレイスのいう「生産者主権」の考え方が主流であった。ところが歴史を紐解くと、「消費者主権」の概念はすでに、ウィリアム・ハットによって1934年に提起されている。ハットは、民主主義のアナロジーでもって、消費者が市場で「商品に投票する」ということに注目した。消費者は「主権」を行使できる場合に、はじめて市場経済の支配を受け入れるというわけである。

 むろん、消費者は絶対ではない。問題となるのは、生産者たちが消費者のために、どれだけ競争しなければならないのかという点だ。例えば近年、コンビニエンス業界では、潰しあいの競争が蔓延している。ある店舗の至近距離に、同じ系列の店舗を出店すれば、その系列企業は、全体として利益を最大化することができるだろう。しかしこうしたいわゆる「ドミナント戦略」は、店舗のオーナーたちに、互いに顧客を奪いあう競争を強いることになってしまう。オーナーたちは、同じ系列の味方同士で消耗戦を余儀なくされてしまうのだ。これではもはや、勤勉に働くことの意味を見失ってしまうのではないか、と危惧される。

 私たちはもう一度、アダム・スミスに戻って考える必要があるだろう。スミスによれば、市場競争は、人々が互いに自己鍛錬できるように、あるいは互いに共感を抱けるように、形成されなければならない。この観点から言えば、ドミナント戦略は、倫理的に望ましくない。市場社会は、できるだけ人々に「やりがい」のある仕事を与えるよう、微調整されなければならないのである。

 そのためには企業の組織づくりが重要になってくる。本書第三章の「組織と仕事」は、ドストエフスキーやマーク・トウェインを引きながら、労働の意味を「喜悦」や「承認」に求める。そしてそのような「働きがい」を実現するためには、組織において、上司はたんに従業員を統率支配するのではなく、従業員の人間関係を円滑にするように振舞わなければならないという。あるいはまた、経営体は、組織の適正規模や、フェア・プレイやコンプライアンスの問題を真摯に受け止めることで、従業員の潜在的なモチベーションを高めることができると論じている。

 なるほど、豊かさを達成した現代の社会においては、労働のモチベーションは、たんに賃金によって与えられるのではないだろう。労働のモチベーションは、しばしば従業員同士の親密な関係のなかで育まれる。かつてJ.S.ミルは、協同組合を「公共心の偉大な学校」であると述べたが、労働者にとって協同組合とは、自身の仕事にやりがいを見出すための、社交の場でもある。そのような「場」を築いていくことは、現代においては、協同組合を組織化できない労働者にも必要であり、また低賃金に抑えられている介護労働者の場合にも、重要な意義をもってくるだろう。

 低賃金でも、社交の場を築いて、やりがいのある仕事を提供していく。経済の利益や効率よりも、労働の意味や価値を優先していく。現代社会に必要なのは、そのような仕事の意味空間を、親密なコミュニケーションによって分厚くしていくことではないか。本書にはそのためのヒントがたくさんある。本書の他のテーマである食品偽装問題や、大企業の貪欲さ、あるいは水俣病の教訓からも、私たちは企業で働くことの意味を、改めて問う機会を得るだろう。