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「現象学的理想型解釈の理路――羽入による問題提起を受けて」

九鬼 一人

2005222

 

 

 私は折原浩によるヴェーバー擁護論に共鳴しえないことをあらかじめ断っておく ([1])。折原が批判する羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』ミネルヴァ書房、2002年(以下、略号、羽入)の問題提起を受けた本稿の要旨は以下の通りである。

 折原/橋本努によるフランクリンをめぐる理想型解釈は全面的に誤りではないが、本質直観される歴史的に重畳した相互作用を「間接的影響関係」と僭称することによって不当な扱いを選んでいるように考える。しかも資本主義精神の理想型をバージョン・アップする橋本による試みは事態をよりいっそう悪くしている。それらは見るところ、目的合理性概念の設定の仕方が問題を含んでいる所に因由している。つまり折原の目的合理性解釈が、主観的意識に定位するという問題性を孕んでいることに拠って来るものではないか。

 本稿はもとより文献学的研究を主旨としていないから、コリントT七・ニ○の釈義については判断を保留する([2])。もっぱら理想型論の方法論的意義の見地から、折原のスタンダードな目的合理性解釈とは異なる立場を打ち出すものである。すなわち目的合理性のメルクマールを意識的自覚性ではなく、@「帰結主義的な意図性」において、A「本質直観される」、「現象学的意味連関」に求めることを提案する([3])。そうすることにより理想型を、現象学的イデアリテートに即して歴史的資料の内に看取する立場に立ちたい。約せば、「ヴェーバーが使った文献」に関する羽入の精査を通じ、ヴェーバーの主張が文献にザッハリッヒに即したものではないことが、問題提起されたと考える。

 

一 橋本による評定の不当性

 羽入書第二章の論述において、羽入はヴェーバーが以下の難所を切り抜けるべく苦労したと指摘する。すなわち、ヴェーバーの論証は、フランクリンが『自伝』における 英訳聖書としては正統的でない “calling”という語によって聖書の句を引用したこと、そして聖書解釈には見当たらない表現Geshäftを足掛かりとしてヴェーバーが宗教改革の父まで遡ろうとしたことから無理が生じたのである、と (ヴェーバーの論証のもつ問題点」†) 。

 羽入によるともちろんヴェーバーはその点を自覚しており、補足的な論証を用意していたが、以下のように成功していない。

(イ) Wヴェーバーは一方で純粋に宗教的と考えるBerufに「klēsis」(身分)を対応せしめている。「パウロの用いているklēsisで、神によって永遠の救いに召される意である。」 (コリントT一・二六、エペソ一・一八、四・一及び四・四、テサロニケU一・一一、へブル三・一、ペテロU一・一○) (Max,Weber, Die protestantische Ethik und der“Geist”des Kapitalismus, in: Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, Bd.20, Heft1, S.1-54, Bd. 21,Heft1, S.1-110.@, S.38)  他方でヴェーバーは「ベン・シラの知恵」において元来は「世俗的職業」という意味しか持たないギリシア語「ergon」 (働き・仕事) 「ponos」 (労苦・仕事) に、この宗教的な概念のはずだったBerufをすっぽりかぶせてしまった。

 Anti−Wここに、「世俗的職業」の意味をしかもっていなかった語に純粋に宗教的な概念に用いられてきたBerufという訳語をかぶせる意訳によって、プロテスタンティズム特有のBeruf概念が成立したという問題点を、羽入は抉り出した。

(ロ)Wこの「ルターにおけるBerufという語の一見全く異なる二つの用法に橋渡しをしてくれるのは、『コリント人への手紙』の中にある箇所とその翻訳である」(Weber、loc.cit., S.39)とする。すなわち「おのおのの召された身分にとどまっていなさい」(新共同訳)「コリントT」七・二〇である。

 Anti−Wところが羽入によるとBeruf概念の翻訳に関して最終的な論拠となる「コリントT」七・二〇でルターは1522年にBerufと訳さずruffと訳している。後に信仰が深まるにつれてBerufという表現を使うようになったというのがヴェーバーの主張であるが、この二つのBeruf 概念の架橋部でルターがBerufRuf (ruff)の間で揺れていて、Berufに落ち着いたのだということはない。ルターの聖書翻訳における用語法の研究において「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で用いたのはルターの死後改訂された聖書翻訳であったことを示唆している。つまりヴェーバーは、源氏物語を論じるに当たって定本に当たらず、谷崎訳源氏・与謝野源氏で事足りようとすることなのである。

 本来的には宗教的であった今日のBeruf概念が今日の世俗的な意味において初めて現れたのは、「ルターの聖書翻訳においてであった」ということは何ら文献的に検証されていない点からもヴェーバーは不十分であると羽入は言う。

 橋本努によれば、これに対する折原による反論は次の五点にまとめられている(以下引用、橋本努HPよりhttp://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Japanese%20Home%20 Index.

htm)。第一に「倫理」の論証構造全体は揺らいでいない。第二にヴェーバーは知的に不誠実な人間ではない。第三にルターはイギリスのプロテスタント諸派に間接的な影響を与えた。第四にヴェーバー論証における「コリントT」七・ニ○の軽重を羽入は評価することに成功していない。第五にヴェーバーはフランクリンの資料を使った「資本主義の精神」の理想型構成に成功している。

 第一の折原の反論によると、プロテスタンティズムの倫理が、「意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした」という中心テーゼを羽入の論証が揺るがしていない。高々羽入の批判したヴェーバーの論証箇所は補助的なものに過ぎない、というのである。

 これに対して羽入が指摘したとされる「ヴェーバーの論証のもつ問題点」†は十分明晰であると考える。そもそも「意図せざる結果として資本蓄積をもたらした」という、橋本による単純な因果帰属の図式化には、カントからヘーゲルに至る因果概念から相互作用概念への代替という、ヴェーバー前史の了解めぐって意見を異にする。資本蓄積からの精神への影響という相互作用関係にまで配視しなければ、按配の感覚に欠けるであろう。

 第二にヴェーバーは知的に不誠実な人間なのではないか、という羽入の問いかけに対して折原は、一次的資料の裏付けがなくて次善の策として認められるとしている。橋本もこれを承けて、「これは健全な判断であるだろう」としている。

 だが一次的資料の裏付けがある方がベターだろう。たとえ(一次資料の取り扱いに関連して)「観念(思想内容)が訳語の選択の仕方に表れうることは確かだが、訳語の不在が観念の不在を証明することにはならない」([4])にしても、訳語の不在は経験的に観念の存在の蓋然性を低める。もしヴェーバーの論証の本線が文献的論証にあるとしたならば、一次資料は当然扱われるべきである。そもそも知的誠実性の問題は「倫理」全体の論証構造をどこに見定めるか、という点と関係している。ヴェーバーの学問的所業に対する総体的評価に関わるこの知的誠実性に関して、個別の論点として扱うこと自体、問題があると思う。すなわちヴェーバー論証の骨格の最終的値踏みと独立の論点にするのは無意味ではないか。

 第三にルターはイギリスのプロテスタンティズム諸派に直接の影響を与えたのかに対して羽入が否定的評価を与えたのに対し、折原は、ヴェーバーが英訳に対して直接の影響を与えたとはヴェーバーは述べていない、と反論する。ルターは言わば間接的影響([5])を与えたのに過ぎない、と折原はいうのである。

 この精神文化の「間接的影響」だからこそ、直接的に資料によって論証できないという反論は、それ自体曖昧さが付きまとっており、第二の論点、ヴェーバーは然るべき論証を怠ったのではないか、という疑念に誘う。この文脈でヴェーバーによる二つの職業概念の架橋部=「コリントT」七・ニ○の解釈の妥当性に相当の力点を置かざるを得ない。

 つまり第四の論点、「コリントT」七・ニ○をどう評価するかに繋がる。橋本が言うように、この問題は「ヴェーバー研究を超えて、ルター研究にまでその判断を仰がなければならない」。

 私のよく論じ得るところではないとはいえ外野からの発言が許されるなら、ルター本人の思想的展開が、ルター内在的に訳語の変遷と具体的にどうリンクしているのか、折原が代わりに具体的な実証を与えたとしても、ヴェーバー自身の文献考証の欠如が類推されるのみであり、擁護として説得力はない。つまりヴェーバーが原典を踏まえて〔ルター研究として提出すべき〕そうした実証研究を行なっていないのだから、ヴェーバー論文の思想史的意義は問題提起に留まっている、とするのが妥当であろう。

 第五にフランクリンを使った理想型構成に関して羽入が行なった問題提起にも注視しなければならない。第五の反論として折原は、「資本主義の精神」を「近代市民的「職業観」」と呼び換え、理想型の構成と適用の目的がフランクリンの人格総体を捉えるものでないことを強調する。

 橋本の第一の査閲で挙げられたこの第五の論点を詳しく見てみよう。ここには理想型論と関係する陥穽が潜んでいると思われるので、より詳しく橋本の第二のサーヴェイが言う所と合わせて検討したい。折原を擁護する橋本は四つの点を挙げて羽入を批判する。(うち外野から応答可能な三点のみを掲げる。) 

 第一に理想型は「ある一面を鋭く構成すること」に意義がある以上「デフォルメされた抽象絵画のようなもの」である、と橋本は指摘する。これはヴェーバーが祖型とした美的理想型にあてはまる命題である ([6])。ここから理想型とは果たして何であったのかという問題を抽出できる。

 第二に「資本主義の精神」という理想型がフランクリンの言説によってヴェーバー論証を検証するために必要としても、「フランクリンの神の啓示」以外の意義を否定する論拠を挙げていない、と橋本は指摘する。つまり幸福主義や快楽主義などの観点を全く帯びていない非合理的「資本主義の精神」の理想型が構成しうることを否定する論拠を羽入は挙げていない、と橋本は言う(大塚訳47-48ページ)。

 もちろん神の啓示に殊更の意義を置かない宗教的契機を考えることはできる。しかし紹介者橋本の意見は別にして、はたして如何にして「宗教の間接的な影響」が証明されるうるか、折原に教えを請いたい。

 第三にこうした契機を忍ばせるために、橋本はヴェーバーの議論に両義的な改釈を与えることで解決の途を探っている。この点のヴェーバー自身の議論は、「フランクリンの神の啓示」を「功利的な傾向」であると同時に「反功利的な傾向」として言及している矛盾を抱え込んでおり、その代替案として橋本が提出しているにすぎない。

 橋本の代替案とは三つの功利主義を区別しようとするものである。すなわち(1)善悪の行為の外観を重視して、有用性や快楽のために役立つ限りで道徳的に振舞う功利主義。⑵善悪の実践を規範的に内面化した功利主義。⑶幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義。この三つである。

 この点に関しては目的合理性をどう捌くのか、という根本的論件が待ち構えている。そこで項を改め、目的合理性を@「帰結主義的な意図性」において捉えるための、補強を与えておこう。

 

ニ 折原浩の目的合理性が孕む恣意性/「社会学の基礎概念」期の目的合理性

 さてヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」から「社会学の基礎概念」への方法論的シフトにおける西南ドイツ学派の展開に最小限の配視をしながら、目的合理性概念に関する論件を提示しておこう。この二つの文献の間には以下のような相違が見られる。目的合理性を規定するにあたり、「主観的」という限定は後書において取り除かれてしまった。それと歩を合わせる如くに、客観的可能性への言及から、可能性についての言及へと変化する。それは整合合理性の目的合理性への回収と歩を同じくしていた。

 宇都宮京子によれば、かかる事態は、以下のように解説されている。

 

 主観的に意味されたものと実際に存在するものとの関係を問う厳密な態度がこの〔客観

 的可能性という〕範疇への言及を必要させていたということである。もしも、それらが

 峻別される必要がなくなれば、この範疇への言及も必要なくなる([7])。

 

 コメントを挟めばヴァーグナー/ツィップリアン([8])によって既に指摘された「歴史における可能性の問題」をなぞる形で、宇都宮は歴史における「理解社会学のカテゴリー」の客観的可能性のカテゴリーに跡付け、ラートブルッフ、ラスクの現象学的諸論考にヴェーバーの客観的可能性の原型を見出そうとする。そのように考えると、「研究者が適合性を判断しつつ理解されていくという視点と、客観的に妥当なものは厳密にいえば違うという視点」がもはや追求されなくなった「社会学の根本概念」では、「現象学的な明証性」が厳密に区別されなくなったために、客観的可能性概念の棄却が正当化されると解している([9])。

 私はこの件に関わる直接的な資料を充分持ち合わせていない。しかしながら、後期西南ドイツ学派が現象学的流れに棹差し、可能性の範疇を客観的なものとして、敢えてその限定をつけるまでもなく使用するに至ったという経緯については承知している心算である。例えば1923年に公刊されたブルーノ・バウフの『真理・価値・現実』([10])は、可能なものを客観的として見なすライプニッツに依拠した西南ドイツ学派の独自の展開([11])の傍証と考えることができる。

 そのように可能性を客観性に繰り込む流れにおいて、主観的に意味されたものといえども、ハーシェル/ヒューウェルの仮説演繹法の単なる仮説であってはならい。そうならば、新カント学派的な理想型に対して、時代錯誤的遺構を構想しているにすぎないことになる。この構成説について方法論上の洗練化と共に「社会の基礎概念」では、可能性の範疇は客観的と言うことが(原理的次元では争う必要がない大前提であり)言わずもがな、のことと対自化されたのであろう。つまり先に挙げたヴェーバー方法論のシフトは、客観的可能性を現象学に触発された思想史の文脈で考えなくてはならない。

 もしこの文脈の中で考えるならば、主体が構成する個別的主観(財は人格となったり物件となったりするがこの場合は人格財)に帰属する意味に、便宜上「主観的」という形容で妥協することは許される([12])。つまり主体が措定する、個別的主観の〈意味〉と〈財〉の言及にのみ便宜上論点を絞ることが出来る。こうした図式に「仮託」する西南ドイツ学派の独自の展開([13])にヴェーバーが棹差していることは次の二点に現れていると思う。

 第一に整合合理性が棄却されたのは、客観的連関がそれによって特徴付けるべきでない、という結論に至ったからである、と私は考える。そのことは「理解社会学のカテゴリー」おいて理解一般にとって整合的合理性という概念が方法論的端緒となっていたに過ぎないことに現れている。

 第二に整合合理性が「社会学の基礎概念」において主として回収されるに至った、目的合理性による理想型構成([14])における目的の問題がある。そもそも目的合理性の定義において行為の結果に対する予想([15])は、合理的な思考において計算される固有の目的のための条件とならねばならない、とされていた。したがって考量において、主観が前提している価値と選択肢は(客観的に)意味適合的であるべきである。「主観的に目的合理的に行なわれる行為」の存在は「客観的に目的合理的に行なわれる行為」の存在を排除するものではない。換言すれば純粋に個人特有な趣味的価値観に委ねられているわけではない。

 たしかにかつて池田昭と折原の間で行なわれた論争におけるように、目的合理性と整合合理性が別個の問題として設定されていることは諾う。しかし前者が主観的であるのに対し後者が客観的という問題設定の違いを言っているのだろうか。整合性Richtigkeitは価値と主観的意味の適合という形式的関係を論じているのではないか (GAzWL,S.432,S.433) 。それに対して目的合理性は目的と行為の客観的な帰結主義的関係(=実質的関係)を論じているのではないか。

 約すると、目的合理性のメルクマールを、先の折原の自覚性に代えて提案したように、まず@「帰結主義的な意図性」において捉える理路が、思想史的流れから見えてくる。

目的合理的行為を、主観に対する意識性([16])に限定するのとは、異なる目的合理性解釈がありうるのではないか。ちなみに折原は次のように述べている。

 

 本稿の二つの基礎概念〈没意味化〉ならびに〈覚醒予言〉のうち、前者については、別

 稿「マックス・ウェーバーにおける〈没意味化〉の概念」において論じた。そこでわた

 くしは、ウェーバーの論文「理解社会学の若干のカテゴリーについて」(一九一三年)を

 とりあげ、「客観的整合合理性」(行為の経過が、観察者から見て、「客観的に妥当なもの」

 としての「整合型」に合致していること)と「主観的目的合理性」(行為主体が、自分の

 行為の目的と意味を明晰に意識し、その目的にたいして適合的と主観的に明晰に意識さ

 れた―したがって客観的にみて適合的であるかいなかを問わない―手段に志向して行為

 すること)との矛盾に注目し、客観的整合合理化がかならずしも主観的目的合理化をも

 たらさず、目的合理的行為の客観的諸条件は増大しながら、諸個人がかえって自分の行

 為の〈意味〉を明晰に意識しえなくなり、そこから明晰に目的を設定し、明晰に適合的

 と意識された手段を選択して目的合理的に行為することもできなくなる、という〈没意

 味化〉の問題を探りあてた([17])。

 

 折原は一方で目的合理性を行為当事者の意識的明晰性によって特徴付け「没意味化」の問題を定式化する。他方、整合合理性を観察者にとって「客観的に妥当なもの」として特徴付けようとする。この特徴付けによって折原は主観的目的合理性と客観的整合合理性の緊張を想定している。「このばあい、この言葉の背後には、諸個人が整合型に同調して行動しているにもかかわらず、つまり、客観的には「整合合理的」に行動しているにもかかわらず、いな、そのためにかえって、行為の主観的「目的合理性」が低下する(=〈没意味化〉!)という矛盾関係が想定され、考えられているのではなかろうか」([18])と示唆する。

 しかしながら〈没意味化〉に、物件の価値に準拠して人格の価値が捉えられること以上のどれだけの生産的内容を盛り込むことが出来るか([19])。社会科学の概念構成として、意識に土俵を据えることの限界は、例えば次の思考実験から判る。誠実な振舞いが嘘をつかないで善行を施すことを目的とする。他方、誠実な振舞いが社会的公正の実現されることを目的とする。この義務ならざる二つの目的は意識の埒において反転しうることが思考実験できる(目的⇔目的の反転)。

 こうした意識を目的合理性のメルクマールとすることに対する恣意性を排除するためには、目的となる「意識されない価値」を前提として要請しなくてはならない。すなわち意識されない次元で価値、フッサールのタームでは意味を、客観的に想定することの方が現象学的に馴染んでいる。たとえどんなに自覚的表象を伴った克明な過程があっても、それと別個の合理的な価値をもちうる。例えばピアノの演奏をしているとき、当事行為者=ピアニストが音符をどのようなフォルテシモの強さを持ちアレグロの速さで奏でるかに細々とした注意が行き渡っているとしても、意味とは、音色のレアールな表象ではなく、芸術的価値の下で解明される体のものである。このことは客観的価値、もしくは意味が意図されているという事態を指している。

 善い行いをしているときその人は善い行為を意図しているのである。ちょうど嘘をついて利益を詐取しようとする場合と同じく自己利益的価値の実現を意図している(目的合理性)。もしくは社会的公正という義務によって制約されることが行為者に相関的に現れるケースであっても、価値に制約されることを意図している。ちょうどピアニストが音を奏でているとき名演奏者たるべしと意図しているように(価値合理性)([20])。

 このように意識的自覚とは別個の意図性という次元を設定し、目的合理性を帰結主義的に、価値合理性を非帰結主義的に了解するとどうなるだろうか。

 

三プロテスタンティズムの倫理の理想型/目的連関の本質直観

 ようやく折原の第五の反論に関連する橋本の代替案を議論の俎上に置くことが出来る。そこでは先に指摘したように三つの功利主義が区別されていた。社会学的問題に先行すべき功利主義の定義に共通の認識を得ておきたいのであえて問題にする。

 橋本は功利主義(1)を「規範的に内面化していない功利主義」と呼び、普通の功利主義を割り振るがこれは現代の標準的厚生経済学の規定に反する。ヴェーバーは「正直」、「時間の正確、勤勉、質素等」の美徳を「功利的な傾向」に数え、そうした善行の実践に「改心」した物語を、特徴付けているが、ここでの功利性が―規範的に内面化していないと規定される限り―自己目的的に、価値合理性において把握されていることを、橋本は見逃している([21])。現代の功利主義の理解によると、それは「厚生主義」・「総和主義」・「帰結主義」をメルクマールとするはずであり、目的合理性を基軸とするヴェーバーの問題関心から言っても、非帰結主義的なこれらの美徳は通常の意味での功利主義に数えるべきではない。そもそも規範的に内面化されていない功利主義は、「エトス」以前の問題であり、額面通り受け取るなら、⑵の「規範的に内面化した功利主義」つまり〈ミル的に有用性の基準に従ったことを望ましいとする立場〉が勝義の功利主義と呼ばれるべきである。それは帰結主義/目的合理的に定位している。

 ところがこのミル的な⑵「功利主義」が第一に(1)「規範的に内面化していない功利主義」と⑶「幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義」の中間型と見なされる隘路に陥っている。まず橋本が自ら⑶を「「反功利主義」と言ってもよいだろう」と述べていることは、この間の混同を露呈したものである。なぜなら常識的に言って「幸福主義や快楽主義などの外衣」を帯びない以上、効用を持たず「厚生主義」でないから、功利主義と呼ぶことを拒む方が価値理論的に見てナチュラルだからである。したがって(1)非帰結主義的美徳と⑶非厚生主義的反功利主義を対比しても、「功利主義」⑵を中間的に位置付けるなど無理筋と考える。

 次に第二に帰結主義的に特徴付けられた⑵「功利主義」は目的合理性を貫こうとするから、俗物的功利精神の卓越の可能性 (=羽入によって疑問符が付せられた「フランクリンの神の啓示」の問題)を含意する。しかるにあろうことか橋本は⑵の「規範的に内面化した功利主義」を「神の啓示」の論点と結合させる。このことは帰結主義的な目的合理性と齟齬をきたすと思われる。

 まとめるとヴェーバーはプロテスタンティズム的なBeruf概念を「資本主義の精神」の中心にあるものと位置付けながらも、他方で脱魔術化されたエトスとして「すでに宗教的基盤が死滅したもの」として構成する必要があった。この二つの側面は、資本主義精神の方がプロテスタンティズムとの概念的履歴を抹消されていれば資本主義への影響は説けず、逆に宗教的なものの「資本主義の精神」にとって「本質的」であれば資本主義のエトスの離陸を説けないという緊張関係を内包しているのである。言わば前者が宗教的超越に通じる契機であり、後者が現世の営利が目的を構成する契機である。故に現世の営利の手段とすること=目的合理性と同様に、他方手段の目的となる価値属性を否定することもできない。世俗内的労働を現世の営利を目的とするものとして帰結主義的に捉えるとき目的合理的であるが、価値合理的観点から見ればプロテスタンティズム=宗教的超越という客観的精神形象の義務論的属性の発露と見なすことも許される。この二つの文脈を分けない限り、「自然の享楽をしりぞけてひたすら貨幣を獲得しようとする」帰結主義と「快楽や幸福を目的とする功利主義からは「非合理的」と見られる」義務論的制約を両立させることはできない。むしろヴェーバーを改訂しようとするのなら目的合理性・価値合理性を支える非意識的連関と〈価値属性説〉([22])に相応の配慮をし、両合理性の概念的分析の更新を図るべきである([23])。

  以上のように帰結主義的意図性において客観的価値、もしくは意味を捉えることは、A「本質直観」される「現象学的意味連関」を想定することと繋がっている。

まず(α)現象学的意味の概念を押さえておこう。周知のように「社会学の基礎概念」の中で意図を意味の相で捉え「思念された意味」を⒜事実的歴史的に個別のケースかまたは平均的近似的に一般のケースで思念されている意味か⒝概念的な理想型において行為者により思念されている意味と規定し、行為に関する経験諸科学が問う意味は、教義的諸科学(法学・論理学・倫理学・美学)が追求する「正当な」「妥当な」意味とは異なると捉えている([24])。このことは「思念された意味」が価値と無関係であることを含意しているのではない。この「思念された意味」は、規範的教義科学とは違った仕方で、客観的な価値の下に留まる。したがって目的合理性が主体に焦点を結ぶからといって、主観的な個人特有の趣味的価値観のみ([25])を、想定しているとは考えにくい。フッサールへのヴェーバーの言及(「理解社会学のカテゴリー」冒頭注GAzWL,S.427,fn.1,usw.)などに端的に示されているように、現象学の範疇的直観・(フッサールのタームでは)意味 ([26])の客観的存立を管制高地に設えてヴェーバーを解する必要がある。

 このように合理性の背後に客観的なリッカート的価値/フッサール的意味を想定することは強ち無謀ではない([27])。その例として、次のような考察が引用出来る。理解社会学から因果的解明のプロセスを捉え返してみれば

 

 自己にとって大なり小なり透過的な直接的動機のうえに重畳するようにして、従来明確

 に自覚していなかった新しい意味が発見され「外側から」意味受胎がはかられる過程で

 あるといえよう。受胎される新しい「意味」は決して行為者の直接的動機を離れて飛翔

 するものではないが、行為者の「心理」に還元されえず、通常は意識化・自覚化されて

 いない([28])。

 

 ここまでで論じたように価値連関/合理的な適合性が意識されないとしたら、現象学的意味によって裏打ちされていると考える方が自然である。このような目的合理性解釈の下では、従来の理想型解釈は現象学的本質直観(β)を踏まえていない故に、不十分なものと言わざるを得ない。これらから以下の考察を得ることが出来る。

 理想型とは「純然たる理想上の限界概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この限界概念を規準として、実在を測定し比較し、よって以って、実在の経験内容のうち、特定の意義のある構成部分を明瞭に浮き彫りにするのである。こうした概念は、現実に準拠して訓練されたわれわれの想像力が適合的と判定する、客観的可能性の範疇を用いて、われわれが連関として構成する形象にほかならない」 (GAzWL,S.194)というものであった。

 ちなみに、これに関連して向井守は「客観性論文」に依拠した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について、以下のように述べている。例えば「プロテスタンティズムの倫理」の理想型の要素と、「資本主義の精神」の要素とが、せいぜい因果適合性をもつに過ぎない ([29])。すなわち向井は現実の模写不可能性から、因果帰属の捨象に解き及ぶのである。「彼〔ヴェーバー〕は、具体的個性的因果関係といっても、現実の因果関係をあったがままの全体性において認識するなどとは決して考えていなかった。そのようなことは不可能であり、また無意味である」([30])。

  そこで今まで論じてきた図式に「仮託」することが許されるのならば([31])、理想型の本質部分、例えば宗教的基盤という来歴は、実際に資本主義精神の本質的要素と相互作用的な連関を持たなければならない。つまり模写不可能ということは、現実からの抽象から帰結するとしても、理論において現実の本質が直観されねばならないはずである。「実在の経験内容のうち、特定の意義或る構成部分を明瞭に浮き彫り」されるといっても、概念の埋め込みを介した資料の本質看取が枢要となることに変りはない。

 振り返ると橋本の第一の査閲で挙げられたこの第五の論点とも関わってくる。以上の考察でヴェーバー/リッカートは価値の彼我の同一性によって、文化科学的認識の基礎を説けるようになったという論点を私は得た。例えばヴェーバーの「倫理」で言えば、フランクリンを典型とするプロテスタントは歴史家と同じ宗教的価値に態度を採った、という具合に理解されるはずである。つまりヴェーバーが抽象したフランクリンの人格は、「資本主義の精神」という契機を限界概念として具えていなければならない。橋本にいみじくも語っているように「正確に言えば、ウェーバーはフランクリンという人物の生き方を素材にして、単なる処世訓に還元されないような、資本主義の精神」という理想型を構成しているはずだからである。

 そもそもヴェーバーは美的理想型とは異なる形で、新カント学派から理解社会学を構想したのであった。リッカートが『文化科学と自然科学』で頷じ得なかったように科学的概念構成と美的概念構成の間には懸隔がある。そもそも理想の概念とは、カントにおいて―客観的実在性と程遠い完全性を有つ―神の概念とダブりつつも、実在性を成り立たしめる限界概念であった。その点では現象学的イデア的本質が数学的形象の認識において、範疇的に直観されなければならなかったのと通底している。言うまでもなく、数学的直線は経験世界において、レアールな対象として見出されないが、黒板の上に描いた直線の限界概念として働く。(曲がっている黒板の直線はイデアールな直線という了解の下に立つものであるし、幅がある黒板の直線も、直線の際に幅のない境界に直線を思念する、という了解に拠って来るものである。) 実際知覚の風景には直線の概念が埋め込まれている。だからレアールな対象として理想型が資料に見出されないことを、デフォルメされた抽象絵画とのアナロジーで説くのは、解説として誤解を招く。こうした新カント学派/現象学派のイデアリテートを汲んだ発想がヴェーバーと無縁であるとは考えにくい。

 

〔結び〕 以上のように、現象学の流れを汲んだ目的合理性解釈に与し、理想型をそれに即して考えることを促す。そこから、資料内在的な理想型を要求する羽入の指し手のように、「資本主義の理想型をフランクリンの資料の行間に読み込むべし」という規範的共通了解が生れよう。

 総じて「倫理」論文の基層には、資本主義精神よりもヴェーバー自身の非実証的問題意識が先行しているのではないか。例えば安藤英治の考察に拠ると、「倫理」論文における近代資本主義論は「本文、註ともに殆んどすべてが加筆分であり、しかもヴェーバーの行なった厖大な加筆の主体をなしているのはこの部分であ」([32])り、「原論文の主題は資本主義をめぐる「禁欲」論であ」った ([33])。つまり「倫理」論文は禁欲という「世俗的な価値」が基軸を成しているのである([34])。

 ヴェーバーが結果的に素描出来たのは古プロテスタンティズムではなく、むしろ近代後期の資本主義の経済倫理という世俗的イデオロギーにすぎないのではないか。そうした現世の肯定のイデオロギーは、ヴェーバーが神の死というニーチェ的な状況判断を共通に受け容れていたことを示唆する。そのことは、例えば『道徳の系譜』と「世界宗教の経済倫理」に対応関係を見出すことによっても裏付けられる([35])。この意味で、神なきヴェーバーにとっても資本主義精神の理想型は―逆説的な言い方をすれば―超越 ([36])の契機をなすという言い方も出来る。したがって、ヴェーバーにおける経済倫理は、言わば宗教と比肩するイデオロギーとしての位置を持つかを問うべきなのではないか。〔文中敬称略〕

文献略号

Heinrich Rickert

Gr  : Die Grenzen der naturwissenshaftlichen Begriffsbildung, J.C.B.Mohr, 1Aufl., 1902.

GE2 : Gegenstand der Erkenntnis, Einführung in die Transzendentalphilosophie, J.C.B.Mohr, 2Aufl., 1904

Max Weber

GAzWL: Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, J.C.B.Mohr, 4Aufl., 1973.

 

 



[1]折原浩、『ヴェーバー学のすすめ』未来社、2003年、以下略号、折原。九鬼の目下の研究課題は経済倫理の再考であり、本稿はヴェーバー合理性論のバージョン・アップの副産物にすぎない。

[2] 当該箇所「コリントT」七・ニ○を挿入部分と見なす宇都宮京子の読解Weber,1920,S.67は一定の説得性をもつことを認める。しかしながらWeber,1920,S.68の「各自は、その現在の状態Standに留まるとの、終末観によって動機づけられた勧告」が「コリントT」七・ニ○を含んでいることをいくら強調しても強調しすぎることはない。もし1523年のルターの翻訳の流儀、すなわちklēsisRufを割り当てる仕方が妥当なものであるならば、「コリントT」七・ニ○をRufと訳す1533年まで(折原、133ページ)、終末観に基づく勧告による「召名観一」(折原、68ページ)が保持されたことにはならないのか。

 「ⓓルターが、1523年の釈義では、20節のklēsisを、"Stand"の意味には解しながらも、「旧いドイツ語訳に倣って」まだ"Ruf"と訳出している事実を指摘し、ⓔこのklēsisEhestand, Stand des Knechtesなどの「身分status, Stand」には相当しても、まだ今日の»Beruf«を意味してはいなかったことを(ブレンタノとの応酬から)強調し」たと言う折原氏にこの点を問いたい。折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答3」2004年3月23日より。

[3] 以下関係する限りで、現象学に触発された西南ドイツ学派の独自の発展に触れる。

[4]折原浩「各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答2」2004年3月15日より。

[5]「ルターの宗教改革事業が、聖書独訳以外の著作その他の活動を経由して、他言語圏の宗教改革者達に影響を与え、後者が自国語聖典を翻訳/改訳するさい、もとより進行途上のルター訳を参照しながらも、それぞれ熟慮の末、聖典の関連各所にBeruf相当語を採用していった、というごく自然な間接の経路」(折原、61ページ)が経験的モノグラフとして検証されているかどうかは、今も完結していない一つの係争点と見なせるだろう。

[6] 茨木竹二「「文化科学方法論」の再検討にむけて」『思想』1992年5月、No.815、152-223ページ。

[7]宇都宮京子「ヴェーバー社会学の構成―リッケルトとヴェーバー」『社会学理論の〈可能性〉を読む』情況出版2001年、69ページ。

[8] Von Gerhard Wagner/Heinz Zipprian,“Max Weber und die neukantianische Epistemology” Zeitschrift für Soziologie,Jg.14, Heft2, 1985.

[9] 宇都宮京子「M.ウェーバーにおける現象学の意義とその影響について―シュッツ、パーソンズのウェーバー解釈と「客観的可能性の範疇」をめぐって―」『社会学評論』167、1991年。宇都宮の二つの意味の区別は歴史主義論争の流れに位置付けられているが、むしろフッサールの『論研』第一研究の文脈に即して理解されるべきであると考える。特に宇都宮によるラスクの「意義」理解には、西南ドイツ学派の範疇/意味の体系に関する配視を欠いている。このことについては、別の機会に譲る。

[10]Bruno Bauch, Wahrheit, Wert und Wirklichkeit, F. Meiner, 1923.宇都宮の指摘 (宇都宮京子「マックス・ヴェーバーの行為論」『情況、ニ○世紀社会学の知を問う』1999年4月号別冊45ページ。) に反して、バウフは「妥当性」に「正当性」の意味を籠めている。

[11]整合合理性が換骨奪胎され理想型の形成に組込まれたことに関しては、折原浩・林道義・池田昭の間で論争が繰広げられた。それに沿う形で関係史を押さえておきたい。

  折原・池田の間で目的合理性を主観的なものと捉え、客観的な整合合理性との対照において捉えようとする共通の志向がある。折原は主観的目的合理性と客観的整合合理性との間に論理的に相容れないものを見たのに対し、池田は主観的目的合理性が客観的整合合理性によって測り得る可能性を説く。

 その結果として両合理性を共約可能と解する池田と立場を異にし、折原は最終的に異質な両合理性のうち、「社会学の基礎概念」においては、整合合理性が目的合理性に繰り入れられるとする立場を取った。つまり目的合理性の内包自体、「社会学の基礎概念」と、整合合理性を説いていた「理解社会学のカテゴリー」とにおいて違っているとされる。

 整合合理性を考えるにあたり、示唆を与えてくれるのはリッカートの「歴史的中心」(historisches Centrium vgl.Gr,S.561 usw.)の発想である。リッカートが文化科学的認識を扱っている『自然科学的概念構成の限界』では、「歴史的中心」論が重要な位置を占めており、それによって次の認識論的連関が考えられている。―歴史家は 価値に対して態度を採ることを通じて研究対象に価値を関係づける。この研究対象、つまり人間事象の主体は価値に態度を採り、そのことによって価値を附帯した人格という財をなす。そうした研究対象たる「精神的存在」をリッカートは「歴史的中心」と呼ぶ。この「精神的存在」すなわち心が関わりながら生成していくものが、文化科学の研究対象である。ただし「リッカートによって極めて強調された〈他人の心的生への原理的な接近不可能性〉(GAzWL,S.12,fn.1)」のくだりには、留保が必要である。たしかに自然科学的手続きを取る心理学者は、他人の心に近づきえない(vgl.Gr,S.533)。しかし困難を伴うものの「歴史家は他者の心的生を正にその個性的特徴の観点から記述する」ことが可能でない。ヴェーバー/リッカートが属する1900-1910代の新カント学派はヘーゲルの影響下にあり、−デュルタイと並行的に−ヘーゲルの「客観精神論」を継承するという意義をもっていた。(ちなみにディルタイが「対象的になった心的生」を研究する手引きをヘーゲルに求めて、「ヘーゲルは人間が何であるかを、自己についての沈思や心理学的な実験によってではなく、歴史を通じて経験する」(Wilhelm Dilthy, Gesammelte Schriften, Bd.5, Vandenhoeck & Ruprecht,5Aufl., 1957,S.180)と述べたように。) 研究対象たる「精神的存在」とはまさにこの点において、研究の与件=財 (精神科学の対象の場合、学的省察にとって人格財となる) として客体化して現れるものである。当事者に内在化しているという点では「主観的」意味が、他方精神存在が学知的省察にとっての研究与件となり、客観的精神化して扱いうる限りでは、〈客観的価値〉を有ちうる。つまり歴史家と研究対象とが対峙する価値が共通なものへと帰一すると考えられるから、客観的に整合的な連関を支えることが出来る(Gr,S.533-534)とリッカートは説く。(これはヴェーバーの「整合型」の着想と一致する。ただし例外的ケースがある。リッカートは、研究者の関係づける価値と異なるケースを認めないわけではない。つまり研究者の関係づける価値が「歴史的中心」である他者自身が採る価値と異なるケースを例外的に許す。そのようなとき、研究者は当の他者、すなわち「精神的存在に、没入して生きる」(hineinleben Gr,S.566)結果、研究者の側の価値と「歴史的中心」の価値と共通になると言う。つまり、リッカートはその他者の生にテクスト媒介的に入り込み、相手の立場に身を置いて考えて、解釈学的に地平が溶融することを要請する。それは方法論的に見てみれば、異種のままの価値を出発点としながら、〈相手の立場に立ち〉解明行為の前提に関しては同一の価値に帰着すべしと考えたのである。)例えばこの点に関してはヴェーバーも「〈シーザーを理解するには、自分がシーザーである必要はない。〉完全な〈追体験の可能性〉は、理解の明証性にとっては重要であるが、意味解釈の絶対的条件ではない」と留保を付けている。

 この点を向井は見逃し(向井守『マックス・ウェーバーの科学論』ミネルヴァ書房、1997年189ページ)、ヴェーバーとリッカートの相違の証左としていることは不適切である。誤解の根底にはリッカート認識の対象における「第三の主客関係」を採ったとに引きずられて内在主義を一般的に採用したというところに由来する(GE2,S.26を見よ。九鬼一人『新カント学派の価値哲学』弘文堂、1989年、52-62ページ)。

[12]この方法論的妥協を許す認識論的下支えとなったものが、前期リッカートの方法論的形式を受けて、現象学の流れを汲んだ中期リッカートの意想であったことはすでに論じたことがある。ヴェーバーがフッサールの範疇的直観に対して肯定的であったことは、前期リッカートの先験的心理学と好対照を見せている。九鬼前掲書、第一章第三節⑴、第二章第二節⑵。

[13] その独自の展開として私は、以下のような事柄を想定している。

 人は「1足す1は2」のような客観的な「理論的命題」の意味と「思念された意味」がおよそ趣を異にすることを指摘するだろう。たしかに一ドルの商品と一ドルの商品を買えば二ドル消費する行為の「思念された意味」は「理論的命題」を前提としてのみ解明( deuten )される。しかしここで言う「理論的命題」は算術等式を指示するのではなく、経済価値の換算等式なかんずくドル換算の営利的価値を指示していると解釈すべきである。したがって仮に文化人類学的価値を前提にすれば、その等価交換行為は贈与という「思念された意味」を有つ。

 ヴェーバーの例を援用すれば、斧振りは経済的価値の理解を前提にしてのみ「営利的伐採」という「思念された意味」を解明できるし、宗教的価値を前提にしてのみ「雨乞い」という、その「思念された意味」を解明できるのである。こうして見れば純粋数学命題の領域に留まらず、実践的領域に価値前提を認めることが出来る。広義の価値前提は具体的に何が意図されたか、という「思念された意味」の解明にとって不可欠な契機を成す(九鬼、前掲書、53-62ページ)。そもそも理解社会学は、具体的行為の正しい因果的解明を含意する;つまり外的過程や動機を的確に認識するに留まらず、それを含む行為連関の意味を理解されるように認識する(GAzWL,S.551)、という作業も包含したものであった。

[14] 中野敏男『マックス・ウェーバーと現代』三一書房、1983年、209-217ページ。

[15]池田は要するに「主観的に合理的と思い込んでいる」だけでよいとし、実際予想が目的に対して整合的に合理的である必要はない、というのである。たしかに予想は主体の見込みであるから、事実最善の選択肢を予料しているとはかぎらない。しかし、どんな価値領域の意味を籠めているかは当の主体の解釈学的地平の先取に委ねられている。

[16] そもそもカントにおける人格概念が自覚性に定位していなかったように、合理性の昂進を意識の自覚性と結びつけることは無理筋である。批判哲学的観点から見て心理主義的誤解の危険を孕んでいる。Heinz Heimsoeth、須田朗・宮武昭訳『カント哲学の形成と形而上学的基礎』未来社、1981年、214ページを参照せよ。「…「我思う」の核心に位置する自己意識はけっして《感性的》に受容される意識ではなくて、《純粋に知的》であることが明らかになった。そしてこの自己意識は、その意識の内容となるあらゆる所与に先立っているがゆえに、いわば《空虚》であるにしても、やはり有限な意識の出発点であった」。

[17] 折原浩『危機における人間と学問―マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌―』未来社、1969年、427ページ。

[18]折原浩、同書、397ページ。

[19] 「われわれが、帳簿を「正しく〔整合的に〕 (“richtig”)つけたり、九九表を「正しく」適用したり、市街電車やエレヴェーターやマッチを「正しく」利用したりするためには、それらが成り立っている合理的な原理をかならずしも知っている必要はない。むしろわれわれは、多くのばあい、なぜそうした利用が可能なのかなどと問うことなく、その「客観的に整合合理的」な利用方法を(たいてい子供のころから)「教え込まれ」(「指令」ないし「授与」され)、いったんそれに習熟すると、以後はその利用を、自明のこととして習慣として繰り返してゆくわけである(「事実上の客観的、整合合理的行為」) 」(折原同書、408-409ページ)。中野敏男もこの解釈のラインを受け継ぐ。「この把握から、〈客観的整合合理性−主観的目的合理性〉の対概念は、〈折原没意味化論〉の鍵を握ることになる」(中野敏男『マックス・ウェーバーと現代』三一書房、1983年、210ページ。)。中野はこうした折原的視角をウェーバーの〈物象化〉の構図に収めて、一書を纏めている(中野同書、序章、第二章第五節、第六節、第七節参照)。

 ところで廣松渉によれば初期マルクスにおける物象化=物化とは以下のようなものであった (廣松渉『唯物史観の原像』三一書房、1971年、62-63ページ)。 ⑴人間そのものの物化。たとえば、人間が奴隷(商品)として売買されるとか、単なる機械の附属品になってしまっているとかいうような状態。…… ⑵人間の行動様態の物化。たとえば、駅の構内での人の流れや満員電車のなかで人びとの在り方など。自分たちの行動を各人がコントロールできないような惰性態になっているという意味で「人間の行動でありながら物的な存在になってしまっている」とされる。⑶人間の心身的力能の物化。たとえば、彫刻とか絵画とかいった芸術作品や、俗流投下労働価値説的に考えられた商品価値など。……

 ヴェーバー行為論で問題となる物象化は客観的整合性=合法則性の累進に伴う―高々⑵の位相で考えられた―行動様態の初期マルクス流の物化にすぎない。人間主体のコントロール可能性が逓減するだけであって、「駅の構内での人の流れ」という意味が没化するということは当たらない。もとより後期マルクスの物象化論をヴェーバーに読み込む冒険を頭から否定するものではない。しかし後期マルクスは「社会というものが自存的な法則性をもって固有の実在であるかのように現象するのは、諸個人の協働的営為が物象化されて形象化されることに因るものである」(同書、85ページ。) としていたのに対し、それが折原の理解する限りでのヴェーバーの物象化論と趣を異にすることは容易く見て取れる。「帳簿を「正しく〔整合的に〕 (“richtig”)つけたり、九九表を「正しく」適用したり、市街電車やエレヴェーターやマッチを「正しく」利用したりする」ことが哲学的に極めて素朴なレヴェルで述べられていることに疑念を呈せざるを得ない。(なお廣松渉『現象学的社会学の祖型』青土社、1991年、第八章第四節参照。)

[20] もとより本稿の本線から脱線するが、私は意識性と区別された意図性として以下の事態を考えている。  この意図性という土俵に踏み込むや否や人は、〈利益性〉に対して正の負荷しかかけられない。その意味で人は、非合理的な場合を別にして須らくエゴイストであるべきなのである。目的合理性や価値合理性に適合しているとき、―整合合理性に適合的である場合は言うまでもなく、自覚の有無に関係なく―、合理的に振舞うことを意図しているのである。目的合理性を利益との手段において捉えるヴェーバーは、合理的行為を共約する地平として、行為が意図されている点に注目する。すなわち目的合理的行為においても、価値合理的行為においても行為の過程そのものが意図として重視され、意図された行為の理解を主眼とする。「思念された意味」が籠められた行為の記述には意識性ではなく、意図性が充溢していると解すべきである。

[21] 「「勤勉」「質素」「几帳面」「正直」「思慮深さ」といった徳目が掲げられるが、」そうした徳目を折原が「手段系列に編入する」(折原、97ページ)というとき、同様の錯誤、つまり価値合理性の見落としが為されている。これに対してここでの功利主義は自己目的的な利害関心であるばかりか、「各人に義務として命じられている」と折原は答えるかもしれない(折原、98ページ)。しかしながら義務論的な倫理を功利主義とは呼ばない。倫理の基本に属するこの撞着について、折原は如何に考えるのか。「価値合理性」(すなわち、このばあい「倫理的価値」としての「固有価値」への意識的なこだわり)」を、いわば「目的合理的」な「価値硬直化」としてしりぞける厳密な功利主義と、これらの徳目は両立しがたい。(折原浩「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」2004年6月5日も参照のこと。)

[22] 惜しむらくは、ヴェーバーが価値論の発展を見ずに価値対象説のレヴェルに留まっていたことである価値属性説によれば、基体に価値判断の対象となりうる一切を含め、定在的な物体・精神、相在的な事象を包括せしめる。同時に価値を実体として「対象に内在するもの」とする価値の定義(アドラーのタイプB)にも反対される。

 なおかつ価値比較はリンゴや冷蔵庫それ自体を比較できず、せいぜいその重さや体積なりの属性しか比較し得ないように、基体の属性に即して行われる。デューイが強調するように価値それ自体は実体的な概念ではない。それはちょうど「重さ」のように「重いもの」「しかじかの重さをもつもの」は存在するが、「重さ」それ自体は実在しない。それは基体の「重さ」のように属性である。とはいえ主体の手元にzuhanden存在することには変わりはない。その財態は、だれかがそれに関わるという、主観の情念の応対を予想する。ヴェーバー理論の改訂となるので、本文中では省略したが、価値が財の属性となるという構図に転化しよう。この価値客観説→価値属性説の移行を西南ドイツ学派のパラダイムチェンジに訴えて正当化することも可能であると考える。

[23] この点失敗に終わっているとはいえ、橋本努の労はヴェーバー合理性論のアポリアを浮き上がらせる貴重な捨石になっている。

[24] Max Weber, Wirtschaft und Gesellschaft, T,5Aufl.,S.1f.

[25] Heinrich Rickert, System der Philosophie, TTeil, J.C.B.Mohr, 1921, S.132.

[26]ちなみに機会因的表現において意味は受肉する。Edmund Husserl, Logische Untersuchungen, Zweiter Band.T.Teil, 1.Aufl., 1901, 2.ungearbeitete Aufl., Max Niemeyer, 1913, S.80.  

[27]廣松渉『現象学的社会学の祖型』、第二章第一節参照。

[28] 厚東洋輔「ヴェーバーと意味の社会学」『現代思想』Vol.3-2、1975年、162ページ。ただし意味の客観性が強調されるあまり、フッサールの機会因的な表現に配視が及んでないことは悔やまれる。(ヴェーバーの意味が自覚・無自覚の如何を問わないものであったことについては、GAzWL,S.331f.)

[29] 「フランクリンの論述で「資本主義の精神」と呼んだ精神的態度の本質的諸要素が、われわれが先にピュウリタンの職業的禁欲の内容として確定したものと同じである。ただフランクリンの場合には宗教的基礎付けがすでに生命を失って欠如しているにすぎない」(Max Weber, Gesammelte Aufsätze zur Religions

-soziologie, BdT, J.C.B.Mohr, 6Aufl., S, 202f.) 。

[30] 向井、前掲書、257ページ。

[31]もとよりここでの議論は方法論的次元で個人主義に妥協した話であり、存在論的/認識論的には、現基的反省が必要である。本稿ではそこまでの言及は控える。

[32]安藤英治『ウェーバー歴史社会学の出立』未来社、214ページ。

[33]同書 216ページ。

[34]同書 224ページ。

[35]デートレフ・ポイカート著、雀部幸隆/小野清美訳『ウェーバー 近代への診断』名古屋大学出版会、1994年。V/T参照。

[36]憶断を憚らずに言えば、(普遍史規模における合理化論は宗教の対極にあるように思われるかもしれないが、)ヴェーバーにとって合理化のプロセス言わばヘーゲル的客観精神が自己展開する過程であり、彼の経済倫理は信仰の一形態ではないか。左右田学派、なかんずく杉村広臓の経済倫理の諸論稿を踏まえ、新カント学派の衣鉢を継ぐことが今後の課題である