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各位の寄稿にたいする一当事者折原の応答4

折原

2004410

 

 

森川剛光氏の第二寄稿222)にたいする応答

森川氏のこの第二寄稿は、第一寄稿を「一点だけ補足する」試みとのことですが、森川色が打ち出された独自の論考で、しかも羽入書批判としては決定打ともいえるほど強烈です。かりにこのコーナーが法廷であれば、この森川鑑定で「訴訟としての勝敗は決まった」といっても過言ではないでしょう。

ただ、このコーナーは、法廷ではなく、学問論争の場です。筆者も「特別弁護人」を兼ねるとしても、職業的弁護士ではなく、一学究です。筆者の役割は、なにがなんでも「依頼人」の権益を守り(逆にいえば、「依頼人」にとって不利になることは避け)、「勝訴」を勝ち取ることに尽きるわけではありません。学問論争に固有の課題は、「法廷闘争」という比喩を越えたところで始まります。この違いが見過ごされ、論争に勝つという目的だけに関心を奪われると、われ知らず「敵に似せて己をつくる」ことにもなりかねないでしょう。

もとより、森川第二寄稿が、なにかそうした陥穽に足をすくわれているというのではありません。むしろ学術論文としても読みごたえがあります。さればこそ筆者は、森川鑑定ならぬ森川論文を、ヴェーバーの学問論をめぐる先行「森川−折原論争」の土俵に移して評価し、対質したいとの誘惑に駆られます。なるほど筆者は、森川第一寄稿への応答では、「『自殺要求』と『生産的限定論争』との区別を曖昧にして論点を拡散させないように」と提唱しました。それとは矛盾するようですが、いまもって他方の当事者・羽入氏が登場せず、主対決に火花を散らすことができない以上、(対羽入論争にかぎれば「副土俵」に当たるとしても、ヴェーバーをめぐる論争としては実質上/内容上はるかに重要な)この「森川−折原論争」の土俵で、「ヴェーバーの人と学問」にかんする理解を深め、主対決にそなえることも、許されてよいのではないでしょうか。

 

森川第二寄稿にたいする筆者の疑問は、「ヴェーバーの学問総体は、(フォルカー・クルーゼ氏とともに森川氏が導入している)『ドイツ歴史社会学』の枠組みに収まりきるかどうか、無理に収めようとすると、ヴェーバーの学問のある面――『意味探し』と緊張関係にある『素材探し』の面――が脱落してしまうのではないか」という一点にあります。

もとより筆者は、クルーゼ氏が進めている「ドイツ歴史社会学」の復権そのもの(鈴木幸寿/山本鎮雄/茨木竹二編『歴史社会学とマックス・ヴェーバー、上――歴史社会学の歴史と現在』、2003、理想社、所収のクルーゼ論文、参照)に異を唱えるわけではなく、それはそれとして高く評価します(Kruse, Volker, Geschichts- und Sozialphilosophie oder Wirklichkeitswissenschaft ?[歴史‐社会哲学か、それとも現実科学か?], 1999, Frankfurt a. M. は、邦訳されてしかるべき好著だと思います)。

顧みますと、筆者が社会学を学び始めた195060年代、ルネ・ケーニヒに代表されるドイツ社会学は、確かに「ドイツにおけるアメリカ社会学」「アメリカ社会学のドイツ版」にすぎず、とりたてて学ぶに値するとも思われませんでした。第二次世界大戦の戦敗国で、政治情勢の圧倒的優位のもとに、アメリカ文明の影響が学問にもおよび、社会学でもアメリカ流調査業績プラグマティズムが主流を占めたのは、ドイツとて日本と同様で、いたし方ないことだったでしょう。ヴォルフガンク・モムゼンが、ハイデルベルクにおける「ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」(1964年)で、パーソンズら「アメリカの紳士連」と表向き鋭く対立しながら、モムゼン自身の基本的立場はといえばアメリカ流の自然法的民主主義で、それゆえに「ワイマールの失敗」の実態と意義を捉え損ね、じつはそれにそなえていたヴェーバーの「指導者民主制」の評価も誤った(雀部幸隆『ウェーバーとワイマール――政治思想史的考察』、2001、ミネルヴァ書房、参照)という皮肉なエピソードも、そうした流れのなかに位置づけて捉え返されるのではないでしょうか。ヴェーバー研究にしても、ドイツにおける本格的な内在的研究、とくに「全体像」の構築をめざす研究は、ナチに追われてアメリカに亡命したラインハルト・ベンディクスの、経験的研究内容に焦点を合わせたMax Weber: An Intellectual Portrait [『マックス・ヴェーバー――その学問の包括的一肖像』、1960、第二版1962New York、拙訳、1966、中央公論社、改訳、上下、198788、三一書房] が、西ドイツに逆輸入され(独訳は1964年)、これが肯定−否定両様の発展刺激となって以来、テンブルック、ヘニス、ヴァイス、シュルフター、ケスラーらによって進められたといっても、過言ではないでしょう。テンブルックの挑発的で画期的な論文(1975)も、ベンディクス作「肖像」の向こうを張るかのように、その独訳と同じくDas Werk Max Webers[マックス・ヴェーバーの業績]と題されていました。

むしろ、ヴェルナー・ゾンバルト/マックス・ヴェーバーからアルフレート・ヴェーバー/カール・マンハイムをへてノルベルト・エリアス/カール・ポランニー/アレクサンダー・リュストフにいたる「歴史社会学」、すなわち「第三帝国」以前の時代に花開いた優れて学問的な伝統が、ほかならぬ母国のドイツで、これほど永く忘れ去られていた事実のほうが、知識社会学的研究のテーマに取り上げられてしかるべき問題といえましょう。それにたいして、遅きに失した感はあるものの、クルーゼ氏によって、「ドイツにおける『ドイツ歴史社会学』の復権」が企てられ、ヴェーバー研究もその一環として活況を呈してきたことは、それ自体たいへん悦ばしいことです。こうなってきますと、その流れは、ドイツではおそらく揺るぎないものとして定着していくでしょう。

それにひきかえ、日本には、「ドイツ歴史社会学」に類する(あるいはそれと同等/等価の)自国の伝統というものがありません。社会学に限定された大まかな展望ではありますが、フランスには、デュルケーム/デュルケーム学派の伝統があります。1990年代にソルボンヌに留学していた白鳥義彦氏によると、大学近辺の書店には、デュルケームの『レーグル』(Les regles de la methode sociologique[社会学的方法の諸規準], 1895, Paris)が平積みされていたとのことです。筆者が1993年にハイデルベルクに滞在したときにも、大学近辺のツィーハンク書店などには、ヴェーバーの諸論集(UTB叢書のポケット版)と『経済と社会』(第五版の学生版)は必ず取り揃えられていました。アメリカでもいまや、パーソンズやマートンの著作が、同等の地位を占めているのではないでしょうか。

ところで、自国の学問的伝統のなかに、こうした古典が定着して確たる地歩を占め、学生/院生が社会学なら社会学へのスタンスを形成するにあたっては基礎教材/拠り所となり、「危機−パラダイム・チェンジ」のさいにも、じつは再志向・再編成の準拠標をなす、というのは、たいへん意義の大きいことだろうと思います。というのも、学問は、まさにアルフレート・ヴェーバーのいう「文明過程Zivilisationsprozes」の一環で、連続的発展が可能な領域です。「パラダイム・チェンジ」といっても、「突然変異」あるいは「いったん白紙に戻して出直す」「無から再出発する」というのではなく、従来に比して「いっそう包括的な地平」が開かれ、それまで連続的に蓄積されてきた学知に「新しい体系化中心」から「新しい光」が当てられ「新しい解釈」が施され、新たに獲得される知見ともども「いっそう包括的な新しい体系」に「止揚」されるといった、「『文明的なるもの』の(『単線的』でなく)『弁証法的』な進歩」(マンハイム)に相当するでしょう。ですから、相対的安定期の日常的研究活動においてのみでなく、一見劇的な変化のさいにも、そこにいたるまでの連続的発展軌道の有無がものをいうわけです。そして、そうした軌道の礎をなすものこそ、上記のような古典であると思われます。

それにひきかえ、そういう古典を礎とする確たる軌道がないと、学問の展開も、なにか「『(定義上一回的な)文化運動Kulturbewegung』の途切れ途切れの散発と離合集散」にひとしいものと化してしまうのではないでしょうか。そこでは、学問の展開といっても、それだけ「個人プレー」がものをいい、政治やジャーナリズムの動向に左右され、諸外国の最新流行を追い、いつまでたっても「連続的に深まる」ことがなく、ちょっとしたことでも「振り出しに戻ってしまう」という不安定性を免れがたいでしょう。そうした展開が、論争を厭う文化・風土のうえに置かれればなおさらで、それだけ拡散的かつ非連続的な傾向がつのるはずです。というのも、論争こそ、発展の方向を探り出し連続的な軌道を創り出し保障していく協同作業そのものですから。

このように見てきますと、羽入氏が、文献読解の厳密性にかけてかつては定評のあった研究室から「鳴り物入りで」(「和辻哲郎賞」を受けて)学界にデヴューし、羽入書が(今回これで「玉石混淆」と評価を落としたとはいえ、従来は定評のあった)「ミネルヴァ人文−社会科学叢書」の一点として「言論の公共空間」に登場し、大学の生協書籍部でも平積みにされるというような現象も、加えては専門家がこの状況にたいして「見て見ぬふり」をし、他方では無責任な非専門家が絶賛/喝采し、再度「賞」(「山本七平賞」)を授与して「虚像形成」に拍車をかけ、専門的研究における連続的発展の失速と(ことによると、将来における)低迷途絶の予兆をなすというような事件も、品位ある伝統連続的発展軌道論争を欠く皮相で脆弱な学問文化/風土の一症候として捉え返されるのではないでしょうか。この「羽入書事件」が、品位ある学問的伝統のある社会で起きるとは、ちょっと考えられません。そうした社会では、もっぱら論敵の「知的誠実性」を問うて「詐欺罪」に陥れることだけを狙い、主たる歴史・社会科学的テーゼの歴史的妥当性には関心がないとうそぶく代物を、出版社に取り次ぐ不見識な歴史家も、そうした際物を受け入れ、自社出版物一般への定評を損ねても売り込みをはかる無定見な編集者/出版業主も、どこを探しても見つからないでしょうから。

というわけで、そういう伝統の欠如が、今回はこの「羽入書事件」に露呈されたと思われます。しかし、そうした実情をただ嘆いていても、手を拱いていても、なにごとも始まりません。伝統がなければ、創り出すまでです。そう捉え返せば、伝統の「欠如」も、いわば「白紙状態tabula lasa」として創造の好機となしえましょう。では、いかにして。管見では、学問としての普遍妥当性に根ざすの形成と、東西文明の狭間にある日本の文化地政学的条件に定位した個性的な展開の可能性とを、ともに考慮に入れながら、このふたつの要請にもっとも適した素材を、自国産かいなかを問わず古典のなかから厳選し、他国産であれば母国における取り扱い以上に徹底的にわがものとし教材化して、大学(とくに前期の教養課程)/大学院/公開市民講座に持ち込み、定着させていく以外にはないでしょう。

筆者が、この見地に立ち、社会学にかぎっては、もろもろの素材のなかから最適と見て選び出し、教材化してきたのが、デュルケームの『自殺論――社会学研究』(1897, Paris)とヴェーバーの「倫理」論文でした。大学在職中には、教養課程における週一回の年間講義や、エクステンションとしての公開自主講座『人間・社会論』で、前半にデュルケーム、後半にヴェーバーを取り上げ、具体的な経験的モノグラフと抽象的な方法論(デュルケームのばあいには『レーグル』、ヴェーバーについては「客観性」論文ほか)とを関連づけて解説してきました。学生/院生/聴講者市民が、一年間、講義内容を参考にして自分で『自殺論』と「倫理」論文を熟読し、『レーグル』や「客観性」論文と結びつけて熟考すれば、学問としての社会学/広く社会科学のスタンスとはいかなるものか、がおおよそ分かるように、できれば身につくように、最善を尽くしました。そのうち、前半のデュルケーム教材を書物の形にしたのが、『デュルケームとウェーバー――社会科学の方法』上下 (1981、三一書房)です。表題は版元の要請にしたがいましたが、中身は上述のとおり、(「倫理」論文とも部分的には対比した)『自殺論』解説で、これほど懇切丁寧な古典『自殺論』読解手引書は本国フランスにもないと自負しています。後半のヴェーバー教材(「倫理」論文と方法論文との統合的解読)は、一書にはまとめきれず、「客観性」論文邦訳の解説に、「倫理」論文ほか経験的モノグラフからの例示/例解を比較的豊富に盛り込む段階で止まっていました(富永祐治/立野保男訳、折原浩補訳・解説、1998、岩波書店)。筆者としてはむしろ、「全体像」構築にそなえる専門的研究課題「『経済と社会』全体の再構成」を、ドイツにおける『マックス・ヴェーバー全集』版の編纂にも役立てようと、その刊行スケジュールと進捗をにらみながら先行させてきました。しかし、この「羽入書事件」を契機に、日本社会の学問状況/精神状況に危機感を抱き、反省をよぎなくされたいま、年来の予定を変更し、国際貢献は先送りしても、「倫理」論文と方法論との統合的解説を中心に、(「『経済と社会』全体の再構成」は専門的な細部として後で編入する)「全体像」を先に構築し、『ヴェーバー学のすすめ』の続篇として仕上げ、上梓しようと考えるにいたりました。

そこで、そのヴェーバー――つまり、この日本社会における歴史・社会科学と市民的教養に、連続的発展の軌道を敷設し伝統をも築き上げていく礎のひとつを提供して、今後永く役立ってほしい先達ヴェーバー――ですが、その学問総体を、ここで予先的に思い描いてみますと、どうでしょうか。どうしても「歴史社会学」の枠組みには収まりきれない面が残り、これまた重要と思えてくるのです。抽象的にいいますと、「歴史社会学」の枠組みからは、もっぱら「意味探し」としてのヴェーバーに光が当てられ、焦点が結ばれ、(上述のとおりそのこと自体には異論がないとしても)反面一次資料を貪婪に漁る素材探しとしてのヴェーバーが看過されるのではないでしょうか。そして、その傾向が行き着く果てにはやはり(一面的な「意味探し」に特有の)「動脈硬化」症が待ち受けているでしょう。筆者は、そうした危惧を禁じえません。そこでいま、この問題を、ポパー/アルバート流の批判的合理主義か、それともジグヴァルト/ゴットルの論理学/フッサールの現象学/ハイデガーの存在論か、といった哲学的基盤/支柱についてではなく、ヴェーバーの学問内容総体について具体的に問うとすると、どうでしょうか。

 

森川氏とともに、「ヴェーバーの業績の大部分が一次文献よりもむしろ二次文献に依存し」ており、その点はなにも「ヴェーバーに限らず、1920年代からの『ドイツ歴史社会学』に共通に見られたことである」とひとまず認めましょう。そのうえで、ではヴェーバーのばあい、当の「大部分」からはみ出る「一次資料に依拠する『小部分』」とはなにか、「大部分」と「小部分」相互の関係割合が、かれの学的生涯において、研究プラン研究プログラムの進捗との関連でどのような変遷をとげてきたのか、と問うてみましょう。

ここでは細部にはこだわらずに大要を述べますと、病前/「初期」の主要業績はみな、「中世商事会社史」にせよ、『ローマ農業史』にせよ、「東エルベの農業労働関係調査」にせよ、それぞれに欠くことのできない一次資料を貪婪に蒐集し、そこからえられた知見を整序して成り立っています。ヴェーバーは、「ドイツ歴史学派」の一員として精力的に実証研究を進めており、かれ固有の研究テーマも、独自の方法論的関心も、もとより(後に形をなしてくるものから遡れば見えてくる)萌芽はあるにしても、まだ前景に現れてはいません。

ところが、拙著『ヴェーバー学のすすめ』第一章でスケッチしたとおり、精神神経疾患(1898年〜)を契機とする近代的職業義務からの離脱/「自己沈潜」にもとづく生活そのものの実存的再編成にともない、かれを苦しめ、周囲の人々も虜にしている「近代的職業義務観」を歴史的に相対化し、経験科学の限界スレスレのところで概念によって捉え返し、ここからさらに「西洋近代の来し方/行く末」を見通そうとする、かれ固有の研究テーマと独自の方法意識が孕まれます。1903年ころからは、「倫理」論文と「ロッシャーとクニース」「客観性」論文とを当初の双極とし、経験的モノグラフと方法論とを相互媒介的に推し進める研究プログラムが、『社会科学・社会政策論叢』という格好のメディアをえて実施に移され、軌道に乗ります。ここに、いわばヴェーバーらしい「後期」ヴェーバーが姿を現し、経験的モノグラフとしては「主として二次資料に依存する業績」、方法論としては「そもそも一次資料を必要としない(あるいは、できあがったde facto業績をいわば一次資料に見立てて反省を加え、de jureを問う)業績」が続々と生み出され、重きをなしてくるわけです。この時期の(本人は予期していなかった死にいたるまでの)経験的モノグラフ類を、自足完結的最終的な完成作と見て、これにスポットを当てますと、そのかぎりで「歴史社会学者としてのマックス・ヴェーバー」像が結ばれるでしょう。しかしかれ自身は、自分の学問的営為を「歴史社会学historische Soziologie」とは規定しませんでしたし、この言葉を(おそらくは一回も)使っていません。「倫理」論文にも「客観性」論文本文にも「社会学Soziologie」という表記は皆無で、著者自身、「倫理」論文の末尾に近く、「この純然たる歴史叙述diese rein historische Darstellung(GAzRS, I, S. 204、梶山訳/安藤編、359ページ)と呼んでいます。

  さて、「初期」とは二分される「(広義の)後期」を、さらにどこでなにを規準として「中期」と「(狭義の)後期」とに分けるかは、優れて、解釈者による観点のとり方に応じて異なってくるでしょう。筆者は、1910を画期と見ます。すなわち、この年の対ラハファール論争を契機に、それまでの「ロッシャーとクニース」(190306)、「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」(1904)、「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(1906)、「シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」(1907)、および(この二篇を忘れてほしくないのですが)「閉鎖的大工業労働者の淘汰と適応(職業選択と職業上の運命)にかんする社会政策学会の調査・方法論序説」(1908)、「工業労働の精神物理学に寄せて」(190809)における方法論上の(他の論客との対質をとおしての)模索が、ひとまず決着をみて、かれ独自の方法的立場が確立します。そして、「初期」以来獲得され集積されていた膨大な素材が、その後に(生前には主として二次資料を介して)蒐集される素材ともども、一方では「世界宗教の経済倫理」シリーズの(これこそ「比較歴史社会学」と呼ぶにふさわしい)諸労作、他方では「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」(『経済と社会』)と題する「法則科学的決疑論との双極に、方法自覚的体系的に整序され始めます。ここに、再起後十年におよぶ沈潜と模索をくぐり抜けて、再度「新しい創造の局面が始まった」と見ることができましょう。

ちなみに、この対ラハファール論争は、「反批判的結語antikritisches Schluswort」で終わっており、論争当事者ヴェーバーの作風から見て、つぎには当然、かれ自身のSyntheseないし新しいTheseの提示が予想されます。確かに論争の内容は、ヴェーバー自身が振り返って語っているとおり(GAzRS, I, S. 17、梶山・安藤訳、65-6ページ)、なんらうるところのない応酬だったにちがいありません。しかし方法上は、それ以降の再編成/再構築に向けていわば「否定的発展刺激」として作用し、この意味で重要だったと筆者は見ます。

 

さて、「儒教」(1915、改訂版「儒教と道教」1920)「ヒンドゥー教と仏教」(191617)「古代ユダヤ教」(191720)とつづく「世界宗教の経済倫理」シリーズは、「三部作」として一括して取り扱われるのがつねです。なるほどそれも、この「三部作」が、「倫理」論文末尾の注に明言されているとおり、「『倫理』論文を孤立させず、文化発展総体のなかに位置づける」ための、「普遍史[世界史]における宗教と社会との関連にかんする比較研究」(GAzRS, I, S. 206、梶山訳/安藤編、143ページ)として、その意味の「比較宗教社会学試論vergleichende religionssoziologische Versuche」という根本性格を共有しているかぎり、もっともな取り扱いというべきでしょう。しかし、そうした共通の基礎のうえで三者を類例として比較」してみますと、その間に方法上思想上の発展が見られ、興味をそそられます。

なるほど、「儒教」と「ヒンドゥー教と仏教」は、主としてシナ学/インド学の知見に依拠し、ただしばしば碑文/古文書/旅行記/宣教師報告/官報/新聞記事などの(翻訳ながら)一次資料と官庁統計も駆使して、(「倫理」論文では「資本主義の精神」に当たる)「経済志操Wirtschaftsgesinnung」「経済エートスWirtschaftsethos」を「関心の焦点focus of interest」とし、社会構造と宗教性の両面「も射程scopeに入れ」、そのあとに予定されている西洋における発展の分析にそなえ、「西洋の文化発展とは対照的であったか現に対照的であるもの」(拙著、37ページ)に照射を当て、それぞれの特性を鋭い概念に定式化していきます。そのかぎりでは、また、中国文化圏とインド文化圏とを、「基軸時代Achsenzeit」(紀元前500年前後の600年間を指すヤスパースの概念)以前から20世紀の同時代にいたるまで、それぞれ一篇の論文で一挙に扱いきる外延上極大の巨視的考察という点にかけても、両者は共通しています。ところが、両文化圏を東西比較のパースペクティーフのなかで捉える捉え方は、対象の性格を考え合わせても、「儒教」では静態的、「ヒンドゥー教と仏教」では(それに比べて)動態的です。そのうえ、それぞれの歴史的動態をクローズ・アップし、「西洋的発展との分岐点とおぼしき局面にさしかかるや、穿ち入り、掘り下げ、詳細に分析して(たとえば、排他的な一人格神[ヴィシュヌ]崇拝、救済道における呪術的/法悦的要素の排除、中産階級における「ゼクテ」形成といった[西洋的]条件が出揃った特例を含む、後期ヒンドゥー教諸ゼクテの比較分析)、東西分岐の歴史的根拠(上例についていえば、[西洋的]条件をそなえたゼクテにこそ顕著な「グル崇拝」を、上から統御し、その猖獗を阻止するに足る、官僚制的に合理化された教権制的中央権力の有無)を突き止めずにはやまない迫力が漲り、横溢し、可能でさえあれば(というのはヴェーバーのばあい、時間的余裕があって語学上のネックさえクリアできれば)必ずや一次資料による検証裏付けとそれにもとづくさらなる展開にも進んだであろうと読者に予想させ確信させるような、そういう度合いが、「儒教」から「ヒンドゥー教と仏教」にかけて、全体として強まっているとの印象を拒みがたく受けるのです。ヴェーバーが、第一次世界大戦後、『宗教社会学論集』の第一巻(1920)を編集するにあたり、初版「儒教」に大幅な改訂/増補を加えたのも、故安藤英治氏が調べ上げた細部の補正もさることながら、筆者にはむしろ、上記「動態分析における歴史的検証への潜勢力」ともいうべき特性における「ヒンドゥー教と仏教」以上へのレヴェル・アップのほうが、はるかに重要と思えます。ただ、そこのところを具体的に論証するとなると、両雄篇の「全論証構造」の分析と、「儒教」から「儒教と道教」にかけての「論証構造」再編成の追跡が必要とされますから、ここでは扱いきれず、『ヴェーバー学のすすめ』続篇に譲るほかありません。

ここでは、傑出したインド学者の故中村元氏が、「ヒンドゥー教と仏教」第一部邦訳の「あとがき」でつぎのように述べているところを、専門家の評価として引用しておきます。「ウェーバーの宗教社会学論集が実に歴史的意義を有する貴重な学的成果であるということは、学界において周ねく認められていることである。インドの宗教を論じた『ヒンドゥー教と仏教』という部分も極めて注目すべきものである。のみならず、読んでみてまことに面白いものである。世界の諸文明圏の宗教現象を広く扱ったウェーバーは、専門のインド学者でないために、所論の中の誤謬もかなり目立つが、それにも拘らず、日本におけるインド研究乃至東洋研究の発展のために、……日本語に移さるべきものであることは、言うまでもない」(1953、みすず書房、221ページ)。中村氏は、こうした評価にもとづいて杉浦宏氏に邦訳を依頼し、みずから専門家として「補注」を寄せ、「誤謬」を訂正したうえで、(明らかにヴェーバーの問題設定を引き継ぎながら)「社会科学の専門学者ではないために、早急に何らかの断定を下すことよりは、むしろ諸方面の研究者が利用し得るようなかたちで材料を紹介する」という目的で、『宗教と社会倫理――古代宗教の社会理想』(1959、岩波書店)を上梓されました。オットー・ヒンツェに比定すべき専門家/歴史家(中村氏のばあい主要には思想史家)のスタンスといえましょう。

 

しかし、ここでむしろ注目したいのは、「ヒンドゥー教と仏教」から「古代ユダヤ教」にかけての発展です。まず、「古代ユダヤ教」は、「儒教」「ヒンドゥー教と仏教」とは異なり、一文化圏の全範囲におよぶ巨視的考察ではありませんし、通史としての「ユダヤ教史」「ユダヤ史」でもありません。著者ヴェーバーは、古代パレスチナというごく限られた地域に焦点を絞り、「誓約連合時代」から「王政期」をへて「捕囚」後にいたる限られた時期(「基軸時代」)の社会変動と宗教発展に、考察を集中します。

いま、その中身につき、極限的に切り詰めたスケッチを試みなければなりませんが、なるほど問題はまず、インド文化圏との巨視的な比較から、イスラエルの民が、(「客人民Gastvolk」を吸引し、「パーリア・カースト」に編入してやまない)カースト秩序は欠如している環境世界のなかで、なぜみずから「パーリア民族Pariavolk(宗教儀礼上も疎隔される客人民)」となって現在(1917年)にいたっているのか、というふうに、比較歴史社会学的に設定されます。ところが、この民は、みずからを「パーリア民族」たらしめている(本来かくあるべからざる)現世の世界秩序が、神ヤハウェによって転覆され、みずからを「支配者民族Herrenvolk」とする本来の秩序に転換される日を待望し、そのために比較的単純な合理的日常倫理を遵守する「生き方Lebensfuhrung」を創始し、これを堅持しようとしました。ここで「比較的単純な合理的日常倫理」とは、「モーセの十戒」に要約されるような神の命令を日常生活のなかで遵守する義務が課されるだけで、わけのわからない呪術/煩瑣な儀礼/法悦や狂騒道(情動耽溺)などへの「非合理的」逸脱がなく、つねに「醒めている」という意味で「合理的」であって、ことさら「伝統主義的」ではなく、さりとてまだ「禁欲」でもない「自然主義」的倫理の謂いです。

こうした日常倫理の「文化意義」は、インド文化圏における個人単位の伝統主義的もしくは遁世的な救済追求との対比によって鮮明に捉え返されます。インド亜大陸では、原住の諸種族(ムンダー族、ドラヴィダ族)と、西北から波状をなして侵入した種族(インド・アーリア諸族)が、異種族ごとに互いに凝集/対峙し合って種族分業関係を形成する特異な歴史的/社会的先行与件から、現世の秩序が上下の「カースト(宗教儀礼上相互に疎隔される閉鎖的身分)秩序」として編制され、これが「業の神義論」によって正当化され、神聖にして永遠不変と見なされるようになりました。個々人の救済追求は、そうしたカースト秩序の枠内で、自分の属するカーストの伝統的儀礼義務を忠実に守ることで「輪廻転生」のさい上層カーストに「再生」するか、日常生活から離れて「瞑想」をこととする「遁世」の道を歩み、「輪廻転生」そのものから「解脱」して「涅槃」に入るか、どちらかに向かわざるをえませんでした。いずれにせよ、宗教的救済追求の実践的活力が、前者にあっては伝統的社会秩序を積極的に補強する方向に、後者においてはそこから逃れて消極的に補完する方向に、作用することになります。それに反して、古代イスラエルでは、(砂漠から都市城砦/集落への)漸移的草原地帯における半遊牧的小家畜(羊、山羊)飼育者層に特有の、(定住農民との)契約/契約遵守を死活問題とする生活様式から、神−人関係にも「契約berith」の観念が適用され、民が連帯責任をもって神の命令を遵守すれば、神ヤハウェも「約束を思い起こして」革命を成就し、全信徒を「パーリア民族」の地位から救い出してくれる、という民族単位の現世内的また歴史的な救済論が成立するにいたりました。

そのうえ、エジプトとメソポタミアとの狭間にある古代イスラエルの地では、交互に両帝国の侵略にさらされ、やがては捕囚にいたる民族の相次ぐ苦難から、「ヤハウェはなぜ、自分の忠実な民をこの苦境から救い出してくれないのか、これではいったいどこに神の『義』があるのか」との「神義論の問い」が、それだけ切実に問われざるをえませんでした。これに答えて(アモスからイザヤ、エレミヤにいたる)捕囚前の記述預言者は、「この苦難は、(ヤハウェが義を顧みないからでも、無力だからでもなく、逆に)上辺でしかヤハウェに従順でない不義不実の民に、ヤハウェが帝国の大王をも操って懲戒の笞を振るっている徴である(したがってヤハウェは、地上をあまねく支配する天上の王である)」という反通則的(古今東西の宗教性一般に見られる、ある神が利益を与えてくれず、災いをもたらすばかりなら、その神を捨てて有力そうな他の神にすり寄る――「与えられんがために与うdo ut des」――「合理的」な「通則」とは正反対の)解釈を打ち出し、ヤハウェを超越的で普遍的な人格神に押し上げると同時に、かの「比較的単純な合理的日常倫理」の内面化(「志操倫理的な醇化gesinnungsethische Sublimierung」)をもたらしました。そのあと、捕囚の苦難の経験から、一方では祭司が儀礼的疎隔障壁を強化して、救済待望を「パーリア民族」的地位に接合し、他方では第二イザヤの預言において、そうした地位から生ずる復讐願望とルサンチマンが緩和されるとともに、「苦難のしもべ」の神義論が生まれて、パウロ流の「救い主(キリスト)論」の歴史的先行与件が成立することになります。

このように、「古代ユダヤ教」の叙述は、ユダヤ民族の「文化圏」を、中国/インド文化圏と同じく、西洋とは異質の「他者」として措定し、空間的な巨視的比較によって「対照」的諸要素を探り出してきては「西洋における発展の分析」にそなえる、というものではありません。それはむしろ、当のユダヤ民族が当時の西洋文化圏自体の内部に「パーリア民族」として現に存在している事実と正面から取り組み、(すでに概念上用意された他文化圏の「対照」的諸要素を援用することによって)上記のとおりその特性と歴史的由来を問うところから出発します。そのうえで、当の「パーリア民族」性と結びつきながらも、後のキリスト教において当の結合から解放され普遍化される「比較的単純な合理的日常倫理」とその「志操倫理的醇化」傾向、「超越的普遍的人格神観」と「キリスト論」といった、今日の西洋文化圏の基礎をなす思想/エートスについて、その歴史的淵源を問い現在の読者をその現場に導きその発生状態に立ち合わせ追体験させようと読者との対話を繰り広げていくのです。

そのさい、著者ヴェーバーは、確かに「非専門家Nichtfachmann」(GAzRS, V, 7. Aufl., 1983, Tubingen, S. 4, 5、内田芳明訳『古代ユダヤ教』上、1996、岩波書店、1315ページ)として、ヴェルハウゼンやエドゥアルト・マイヤーを初めとする旧約学者や古代史家の(「一生を費やしても精通できない」と認める)膨大な専門的業績を、整理して継受し、慎重に参照しました。しかし、それと同時に、旧約聖書を初めとする一次資料から、当の発生状態にかかわる歴史的諸事実を復元し、それぞれが「かくなって他とはならなかったのはなぜか」を経験的に説明していきます。もとより、さらにいっそう非専門家の筆者には、専門的先行業績にたいするヴェーバー独自の貢献が、どこに、どの程度あるのか、その後における当該専門諸学の発展に照らして現にどこまで認めてよいのか、正確に評価することはできません。ただ、つぎのことだけはいえるのではないでしょうか。すなわち、一次資料としての旧約聖書の記載事項(たとえば、モーセがシナイ山頂でヤハウェから「十戒」を授かるという『出エジプト記』の記事)がそのまま歴史的事実を映し出しているわけではなく、むしろそこに象徴的に表現され、権威づけられている歴史的事実そのもの(たとえば「十戒」の歴史的成立経緯)については、聖書信仰からは自由な経験科学的考察をめぐらして「明証性」のある仮説を立て、そのうえで当の仮説の経験的「妥当性」を、できれば一次資料からの直接証拠、さなくとも間接的な比較証拠/状況証拠の積み重ねによって検証していかなければなりません(たとえば、「十戒」の歴史的起源を、レビ人が司牧のさいに携えた「罪」カタログの、「定言的命令」表への倒置に求め、当時の状況に照らし、遠くバラモンの類例も引いて立証しようとする、それこそ「目から鱗が落ちるような」ヴェーバー説)。そのばあい、ここでも「価値自由」に徹するヴェーバーのスタンスと、豊富な比較史的知識(状況証拠)とが、ただたんに(専門家には欠けている)視点と問題設定を持ち込むだけではなく、当の視点と問題設定にかかわる歴史的諸事実の復元と因果帰属にかけても、専門家に伍して引けをとらない、ヘブライ語への精通不足を補ってあまりある、とりわけ聖書信仰から自由な読者にも説得力があって腑に落ちる歴史社会科学的説明を、提供してくれているのではないでしょうか。さればこそ、ひとりの専門的旧約学者が、「イスラエル宗教をイスラエル人の生の地盤との関に於て把握すること」をめざす『イスラエル宗教文化史』を刊行するにあたって、「『古代ユダヤ教』の成果から最も深く学んだ」(関根正雄、1952、第8刷、1960、岩波書店、5ページ)と特筆することも、起こりえたのでしょう。ここにも、オットー・ヒンツェに比定すべきスタンスが表明され、実を結んでいるといえましょう。

そういうわけで、「三部作」でも「古代ユダヤ教」となると、「西洋における発展の分析」にそなえて、他文化圏の対照的要素ないし傾向を探り当てて鋭く定式化しておく、という準備段階から、すでにその「西洋における発展の分析」の内部に入り込み、その淵源のひとつを一次資料も用いて発生状態において捉える歴史・社会科学的研究という性格を色濃く帯びてきます。また、「三部作」以降の展開については、出版社の19191025日付け新刊予告によりますと、「古代ユダヤ教」のまえに「西洋に特有の発展の一般的基礎(または、古代および中世におけるヨーロッパ市民層の発展)」「エジプト、バビロニアおよびペルシャの諸事情(またはエジプト、メソポタミアおよびゾロアスター教の宗教倫理)」が挿入され、「古代ユダヤ教」のあとには、「詩篇およびヨブ記」にかんする補足と「パリサイ人」(現行「古代ユダヤ教」付録)につづき、「タルムードのユダヤ教」、「原始キリスト教」、「東方教会のキリスト教」「イスラム教」および「西洋のキリスト教」が、「世界宗教の経済倫理」シリーズの続篇として執筆され、『宗教社会学論集』は全四巻本として刊行される予定だったようです(cf. Schluchter, Wolfgang, Religion und Lebensfuhrung, Bd. 2, 1991, Frankfurt am Main, S. 594)。これらが、著者の急逝によって頓挫せず、予定どおり執筆されていたとしたら、上記のような発展傾向と潜勢力は、(少なくとも「原始キリスト教」と「西洋のキリスト教」にかんするかぎり)ますます顕著に現れてきたのではないでしょうか。そして、その延長線上で、「倫理」論文末尾の研究プランと連結され、このプランが実施に移されて、「中−後期」ヴェーバーにおける探究の大きな円環が閉じられることになったのではないでしょうか。「大きな円環」というのは、「倫理」論文の「全論証構造」に見られる「プロテスタントの経済活動熱と近代的社会層帰属傾向」から出発し、フランクリンからルター/ルター派、「禁欲的プロテスタンティズム」を経由して「市民的職業エートス」とその現況に戻ってくる、西洋近世以降の「小さな円環」にたいして、当の「倫理」論文から出発して「基軸時代」の中国、インド、古代パレスチナにいたり、イスラム教と東方教会キリスト教の発展と対比しつつ、原始キリスト教、中世キリスト教をへて西洋近世に戻ってくる「世界史の旅」ともいうべき円環の謂いです。

 

 ところで、「倫理」論文の末尾では、例の「精神なき専門家、心情なき享楽人」輩出の予言が、「こうなると価値判断、信仰批判の領域に入り込むので、この純然たる歴史叙述にはそぐわない」(GAzRS, I, S. 204、梶山訳/安藤編、359ページ)として打ち切られ、研究プランの提示に移って、叙述が締めくくられます。若干整理してみますと、一方では、

T.「禁欲的合理主義」を歴史上の与件とするその影響の面で、

それがなお(「倫理」論文のそこまでの叙述に加えて)、@社会政策的倫理の内容に――したがって、それを介して、私的な集会から国家にいたるまでの、(諸個人が主観的な「意味」に準拠して取り結ぶ)社会的諸関係の組織と機能のありように――、いかに作用したのか、A「人文主義的合理主義humanistischer Rationalismus」と、その生活理想、ならびにその文化的な影響にたいして、いかなる関係にあったのか、さらに、B哲学および科学における経験主義の発展、C技術の発展、D精神的文化財と、いかなる関係にあったのか、が分析され、そのうえで、

U.当の「禁欲的合理主義自体について

中世における世俗内禁欲の萌芽に発し、やがて頂点を通り過ぎて純然たる功利主義に解消をとげる[その]栄枯盛衰geschichtliches Werdenが、歴史的にhistorisch、しかも禁欲的宗教性の個々の普及地域に即して、追跡されなければならない」(GAzRS, I, S. 205、梶山訳/安藤編、359ページ)とされます。

そうして初めて、「禁欲的プロテスタンティズム」が、他の諸要素(たとえば上記「人文主義」)との関係で、どれほど近代文化の(とりわけ多様に「合理的な」特性の)創出に与って力あったのか、その「文化意義」の度合いを明らかにすることができましょう。「倫理」論文では、「(合理的な)職業エートス」の形成という(重要ではあるけれどもただ)一点にかぎって、「禁欲的プロテスタンティズム」の影響が確かにおよんだという事実と、いかなる動機づけをとおしておよんだのか、その態様を究明したにすぎない、というわけです。

ところが、そうして「禁欲的プロテスタンティズム」の「文化意義」が明らかにされたならば、こんどは他方、

V. 当の「禁欲的プロテスタンティズム自体が

その歴史的生成Werden特性Eigenartにおいて、他の社会的文化諸条件とりわけ経済的諸条件の総体によって、いかなる影響を被っていたのか、という側面が、究明されなければなりません。この「倫理」論文では、「かつて宗教的意識内容が人々の生き方、文化、国民性にいかに大きな影響をおよぼしていたのか、近代人一般にはもう思い浮かべられない」という事情を考慮に入れて、研究の課題がT.の側面に限定されました。しかしさりとて、「文化と歴史にかんする一面的に『唯物論的』な解釈に代えて、同じく一面的に『唯心論的』な解釈を定立する意図は毛頭ない」(Ibid., 同上)というのです。ということは、肯定的/積極的に言いなおせば、両解釈をともに、研究の(結論としてではなく)「準備作業Vorarbeit」として「歴史的真理」の究明に役立てよう、ということです。

 さて、このような研究プラン/プログラムを「世界宗教の経済倫理」シリーズの展開にかんする上述の考察と結びつけてみますと、そうしたプランのめざす方向は、とりもなおさず、「倫理」論文を「世界宗教の経済倫理」水準に――いっそう正確には、「儒教」から「ヒンドゥー教と仏教」をへて「古代ユダヤ教」へと順次高められてきた「動態分析における歴史的検証への潜勢力」を全面展開する水準に――引き上げることにほかなりません。そうした研究はまた同時に、「初期」の「素材探し、「中−後期」の「意味探しを否定的媒介として高次の次元で展開され両者の総合が実を結ぶ段階であるともいえましょう。

 

ある学者が生み出した学問上の業績全体を、後世の人間が解釈し総括するというばあい、ともすれば、当の学者が亡くなり研究活動が絶たれた時点で、すべての内容が完成の域に達していたかのように、あるいはそれまでの所産が「自足完結的な全体」をなすかのように、思い込みがちです。とくに解釈−総括者自身が、対象としている学者が逝去した年齢にまで達していないばあいには、暗黙のうちにせよ、そうした前提の上に立っていることが多いのではないでしょうか。筆者も、ヴェーバーが逝去した56歳になるまでは、漠然とそのように信じていました。ところが、その歳になって、自分の人生にもまだなすべき仕事が残されている、そして幸いにもそうした仕事に取り組もうとする意欲が湧く、という経験をしますと、これが翻って、対象にかんする解釈や総括にも投影されます。あのヴェーバー――飽くことなく探究に生きる「意味探し」にして「素材探し」のヴェーバー――が、たかだか56歳で、自分の学的生涯に見切りをつけ、業績のまとめにかかって、自分の『著作集』を編み始めたなどとは、とうてい考えられないのです。

かれが、第一次世界大戦におけるドイツの敗戦のあと、「ミュンヘン労兵評議会」や「ヴェルサイユ講和会議」で辛酸をなめ、内政外交とも政治に見切りをつける一方、大学(ヴィーン、ミュンヘン)に復職し、学生団体からの講演依頼も受けて立ち、なによりも(それまでは必要な時に論考を素早く書き下ろして矢継ぎ早に状況に投企し、あとから論集を編むことや書籍に仕立てることにはまったく関心のなかったかれが)みずから『宗教社会学論集』を編集し、これと相互補完関係をなす『経済と社会』――すなわち、「初期(第一期)」「中−後期(第二期)」の研究成果を、その後に計画されている(いうなれば「第三期」の)研究における特性把握と因果帰属に手際よく的確に活かすための「法則科学」的決疑論(いわば概念用具の「道具箱」)――を(叢書『社会経済学綱要』の実質的編集者として協同執筆者の寄稿の不備を自分の担当部分で補って叢書全体の水準を保とうとした、という外的契機も手伝ったとはいえ)叢書の一点としては度外れて浩瀚な書物の形にまとめて公刊しておこうとしたのも、なすべきことはなして戦後の荒波を乗りきったうえは1920年代からは学者に徹して学生とともに祖国の学問的文化的再建を担いこれに専念しようと、「初期」から「中−後期」にかけて温めてきた(上述の)研究プランと構想を「満を持して」実施に移す準備態勢と条件の整備としてあった、と筆者には思えます。少なくとも「倫理」論文末尾の上記プランが、「中期」かぎりで立ち消えになったとか、「世界宗教の経済倫理」の「序論」「中間考察」で「結論」が出てしまって、「倫理」論文は1920年の改訂だけで、当の「結論」の水準に引き上げられたとか、たまたま急性肺炎に罹ったときに手がけていた「社会学の根本概念」が「学者としてのヴェーバーの白鳥の歌」だといったような主張は、かれの業績を――もっぱら書き残された業績のみを――自分に都合よくひと回りもふた回りも小さく切り縮めてしまう解釈として、筆者には容認できません。

むしろ、そのように生前「後期」までに実現されたプログラムと、実現されずに潜勢態dun?misとして遺されたプログラム」とのズレに注意を喚起したいと思います。かれの業績を、「出来上がったもの」/「自足完結的なもの」として、「役立つところからプラグマティックに利用していこう」というスタンスも、それはそれとして意味があり、無下にしりぞけるわけではありませんが、筆者は採りません。マックス・ヴェーバーの「人と学問」を、ここで一端をスケッチしたように、内的/動的に発展をとげ、志半ばにして頓挫したプログラムとして、わたしたち自身の(可能的な)伝統のなかに取り入れ、引き継いで、(ばあいによっては)当のプラグラムをかれに成り代わり、手分けして実現していくことはできないものでしょうか。そうすることが、今後の国際的な荒波を乗り切っていくのに、わたしたち自身の「普遍[世界]的に開かれた文化的アイデンティティ」を形成していくうえで、必要かつ重要なのではないでしょうか。森川氏を初め、新進気鋭の若手の研究者諸氏が、そのような方向で考えてくだされば、筆者としてそれに優るよろこびはありません。

では、そうした見地から、もういちど出発点としての「倫理」論文を振り返り、とくに改訂稿にもほとんどそのまま保存された当初の研究プランに照らして、その「全論証構造」を再検討してみるとどうでしょうか。初版と改訂稿では、ヴェーバーにおける「意味探し」と「素材探し」との緊張関係が、それぞれどこで妥協点をみいだしているのでしょうか。「遺された研究プログラム」に照らして、どこに改められ、乗り越えられるべき問題点が残されているでしょうか。本稿をしたためはじめたときには、そこまで論ずるつもりでいましたが、今日のところはここで区切って、次稿を期したいと思います。ご了承ください。森川氏には、ここで提起した問題について、急ぎませんからいつか、批評なり反論なりを発表してくださるように期待いたします。そのうち「森川−折原論争」コーナーをつくりましょう。また、筆者としては、次回の「日独社会学会議」が、ヨハンネス・ヴァイス氏主宰のもとにカッセルで開催されることになっており、クルーゼ氏も参加されるでしょうから、そこで上述の趣旨を敷衍し、「『ドイツ歴史社会学』とマックス・ヴェーバー」とでも題して報告し、(三年まえに、いわき明星大学でお目にかかった)ヴァイス、クルーゼ両氏と旧交を温め、実りある論戦も交えたいと考えています。

 

そのまえにここで、森川氏またはドイツ留学の経験があって論考をドイツ語で表現/発表することに熟達している若手の方々に、少々緊急を要するお願いがあります。かねがね気になってはいたのですが、『ヨーロッパ社会学論叢Archives europeenes de sociologie』(独文または英文でも可)と『社会学雑誌Zeitschrift fur Soziologie』に載った羽入論文を、そのまま放っておいてよいものでしょうか。欧米学術誌への日本人研究者の寄稿がまだまだ少ない現状で、羽入論文のようなものが発表されたままでいますと、それが日本の学界水準を代表するかのように、あるいは日本の学界ではああしたものが通用するかのように、受け止められかねません。羽入論文を受理/掲載した編集者も編集者/査読者も査読者ですが、「日本の学界からどういう反応が返ってくるか、試してみよう」という考えが半ばあったかもしれませんし、それ以上に、読む人はきちんと読んでいて驚いているはずです。そうした先入観が定着してしまいますと、今後留学したり、国際会議に出たりする若手(あるいはさらにその後輩の諸君)に、陰に陽に不利な作用がおよびかねません。たとえば、日本人留学生というので、いちいち「羽入論文をどう思うか」などと意見を求められ、無意味な対応に時間を割かなければならないとしたら、迷惑千万でしょう。

 「それなら自分で書け」というご意見もあろうかと思いますし、筆者もできればそうしたいのです。しかし筆者は、若い頃には留学する余裕がなく、ゼミナールやコロクヴィウムで「揉まれて苦労した」経験がないために、いまだに外国語での表現力に乏しく、たいへん時間と労力を要します。『ヴェーバー学のすすめ』続篇に早く取りかかりたくもあります。ですから、どなたか執筆/寄稿を引き受けてくださるとありがたいのですが。筆者が『ヴェーバー学のすすめ』で提出した論点やデータを存分に使っていただいて結構です。名乗り出て引き受けてくだれば、筆者もできるかぎり支援/協力します。日本のヴェーバー研究ならびに歴史・社会科学が健やかな発展の軌道に乗り、実力に相応しい国際的評価も高めていけるように、どうかひとつよろしくお願いします。
2004410日記)