「知的誠実性を問うこと」の陥穽について 補遺
――牧野氏の問題提起に焦点を絞って――
宇都宮京子
2004年3月23日
はじめに
以前に、「『知的誠実性』を問うことの陥穽について」というタイトルで投稿を行なったが、本投稿は、その補遺だと考えて頂けたらと思う。実はもっと以前にこの文章は書いてあったのだが、理由はよく分からないが送信しようとするとファイルが壊れてしまい、送信することができなかった。そのため、先の投稿文章において、本投稿の内容にも部分的に触れておいたという経緯がある。しかし、その際は、文章があまりに複雑で長いものになることを避けるために、牧野氏が問題提起された個所については、注で簡単に触れただけであった。
今回、いろいろと工夫をして、以前に書いた文章をファイルとして壊さずに送信できるようになったので、改めて投稿することにした。すでに折原氏によって、詳細にかつ丁寧に「羽入」書について検討と批判とが行なわれているが、重複を恐れずに書いていくつもりである点は、先の投稿のときと変わらない。折原氏の批判と重複する部分が多々あることを承知の上で、今改めてこの投稿をするのは、牧野氏が指摘した個所は、多くの人々がその解釈に迷う可能性が高いところだと思うからである。
1.問題の所在
最初に、牧野氏の問題提起について、簡単に整理をしておきたいと思う。牧野氏は、橋本努氏の開設しているHP上の投稿(1月31日(2月7日改訂)版)において、以下のように書いている。(部分引用)
私には件の註全体の文脈、梶山訳/安藤編の頁でいうと139頁で二つの用例、「コリント前書1の26 エペソ1の18、4の1/6、テサロニケ後書1の11、へブル3の1、ペテロ後書1の10など」などのいわゆる「神の召し」の事例と、「イエス・シラク(ベン・シラ)」の「汝の職業にとどまれ」の事例をあげ、この二つの異なる用例を結ぶ事例として141頁以下で「コリント前書七章」を「現在のルター版」で逐語的に引用し、一五二三年にはルターはなお二〇節をRufと訳していることを指摘した後に、件の個所がおかれている――しかも改定時にはだめをおすように「前述のごとく、コリント前書7の17のklesisは今日の意味での『職業』を指すものでは決してない」とつけ加えている――という文脈からみれば、『コリント前書』第七章と理解するのが素直な解釈であるように思われます。
ただし、私のような解釈をとれば、当該註でウェーバーが用いている『コリント前書』第七章が「現代版」であるということをどう説明するのか、という難点に突き当たることになります。
…ただ羽入氏の著書の評価をはなれてみると、わたし自身は、折原氏のような解釈は「プロテスタンティズムの倫理」論文当該註の読み方としてはすこし無理があるように思えてなりません。この点についてはこれまで「プロテスタンティズムの倫理」論文に関して研究されてきたウェーバー研究者やキリスト教関係の研究者の方々にも、当該個所をどう読まれてきたのか、ご意見をうかがいたいところです。
牧野氏の問題提起の背景にあるのは、羽入氏が、彼の著書のなかで以下のように論じている点である(「羽入」書 87頁)。羽入氏は、この点をヴェーバーの知的誠実性を疑う際の根拠の1つと見なしている。
ヴェーバーは、Berufという訳語が、『コリントI』(第7章 第20節)で「クレーシス」というギリシア語に対して使われたことによって、クレーシスとポノスという語との間に架橋が可能になったと考えて彼の論理を展開した。ところが、羽入氏の調べたところによれば、ルターは、当時、『コリントI』(第7章 第20節)でクレーシスに対してruffという語を用いており、Berufという語を用いて訳してはいないので、 ヴェーバーの推論は成り立たない。そのような間違った推論を組み立てるのは、ルターの時代の聖書を調べていないか、調べて知っていたのに、その事実を隠蔽して、 推論を捏造したかのどちらかである。どちらにしても、知的に不誠実なこと限りない。しかも、ヴェーバーは、自分で、「現代の普通の版」を用いたと明記しているのだが、それがまた、ヴェーバーの訳が分からないところである。
このような羽入氏のヴェーバーの「倫理」論文批判に対して、牧野氏は、他のところでは折原氏と、羽入氏の著作に対する見解を共有しているが、以下のヴェーバーの論述をどのように解釈するか、という点では折原氏と見解を異にすると述べている。
「しかし、各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた勧告(Mahnung)において、"クレーシス"をBerufで翻訳していた(übersetzt hatte)ルターは、後に彼が、その旧約外典を訳した時には、各自は、その仕事に留まるように、という『ベン・シラ書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言 (Rat)において、ポノスを確かにその助言(Ratschlag)がもつ事実上の類似点のゆえに、同様にBerufを用いて翻訳したのである」(1)(Weber、1920、S.68)。
すなわち、この文中の、「終末論的に動機づけられた勧告」という表現が、どの資料を指しているのか、という点で、二人の見解は、分かれている。牧野氏は、羽入氏と同様に、ここは、『コリントI』(第7章 第20節)であると考え、折原氏は、そこではなく、「『エフェソ』『テサロニケII』『ヘブル』『ペテロII』における、純粋に宗教的なBerufを用いている勧告を指している」と考えている。(折原、2003、78頁)
では、そのような見解の相違は、羽入氏によるヴェーバー批判とどう関係するのだろうか。それは、羽入氏のように、『コリントI』(第7章 第20節)説を取る立場に賛成すれば、どうしても、「ルターが、『ベン・シラ書』の章句を訳す際に、“ポノス” という完全に、非宗教的な職業を意味する語を、Berufを用いて訳すきっかけを与えたのは、『コリントI』第20節において、ルターが"クレーシス"をBerufと訳していたことだと、ヴェーバーは、述べていた」と文脈上、読めることと関係している。
その場合、その結果として、「『コリントI』の第20節において、ヴェーバーは、ルターが、実際は、"クレーシス"をBerufと訳さないでruffと訳していたことを知らなかったか、あるいは、知っていたのに、その事実にわざと触れずに、無理に論証を捏造したのではないか」と推測されるようになる。
つまり、ヴェーバーは、ルター聖書の原書に当たることもせず、現代版を使って、ルター自身の訳との相違点も確認せず、ルターが"クレーシス"を、(実は、ruffと訳していたのに、)Berufと訳していたと思い込んでいたのかどうか、という点が問われているのである。また、最悪の場合は、ヴェーバーは原書にあたっていてruffとルターが訳していたことを知っていたのに、現代版における章句を引用してごまかした、という解釈が出てくるかもしれない。そして、もし、それが事実だということになれば、羽入氏の述べたとおり、ヴェーバーは、ここの論証において、非常に杜撰であるか、あるいは詐術を用いて論証を捏造したと見なされ、その知的誠実性を疑われることになる。
ところで、ここで、筆者の判断を、以下の具体的説明に先駆けて述べるならば、羽入説は支持しがたい。その理由を、以下で具体的に示したいと思う。
2.具体的な論証
2−1. Berufの訳は、2種類あるとヴェーバーが述べていたことからの判断
まず、ヴェーバーによってルターによるBeruf という語を用いた訳し方には、2種類あると述べられていた点は、注意すべきであると思われる。もし、「『コリントI』 第7章 第20節の、ドイツ語ではstandの意味であると解釈されていた"クレーシス"(2)を、ルターは、Berufと訳していた」と、ヴェーバーが考えていたならば、Beruf の訳し方は、1.純粋に宗教的な意味 2.架橋的な、Stand(奴隷の身分など、神が与えた客観的な秩序)としての意味 3.現世における職業という意味 の3種類あったと述べていたはずだと思われる。しかし、2種類とヴェーバーが述べている点を尊重するならば、Berufという訳語をルター がそこで用いていたと、(ヴェーバーは、)考えてはいなかったと見なすべきではないだろうか。
2−2.『コリントI』の章句をめぐる時制の使い方等からの判断
『コリントI』の章句を引用する直前に書かれているのは、以下の文である。
(引用1)Die Brücke zwischen jenen beiden anscheinend ganz heterogenen Verwendungen des Wortes Beruf bei Luther schlägt die Stelle im ersten Korinterbrief und ihre Übersetzung.(Weber、1920、S.67)
<訳> (ルターによるあの2つの全く異質であるように見えるBerufという語の使用の間に、コリントIの章句とその訳とが架橋する のである。)
ここでは、schlägtが現在形であることと、「訳(Übersetzung)」の前についているのは、ihreであって章句のことを指しており、ルターによる訳であるとは、特に述べられていないことにも注意が必要であろう。
このあと、『コリントI』の各章句が例示され、さらにそのあとに以下の文が続く。
(引用2)In v.20 hatte Luther im Anschluss an die alteren deutschen Übertragungen noch 1523 in seiner Exegese dieses Kapitels klesis mit 》Ruf《 übersetzt (Erl. Ausgabe, Bd.51 S.51) und damals mit 》Stand《 interpretiert.
<訳>(20節において、ルターは、古いドイツの翻訳に引き継いで、1523年にもなお、この章 の釈義において、クレーシス を「Ruf」と訳し(エルランゲン版全集、51巻、51頁) 、当時、「Stand」と解釈していたのである。)
ここで用いられている動詞の時制は、過去完了(hatte…interpretiert)である。また、上記の(引用1)の前文の時制も、…,aber gerade hier verwenderte Luther…となっており、過去時制(verwenderte)である。前後の文が、過去を表わす時制で書かれているのに、その間にある文の、「架橋するのである」という部分だけは、現在形なのである。
もちろん、資料の提示は、「…では、…となっている」という表現で、過去に書かれた内容を現在形で提示することは、よくあることであるが、schlägtのような動詞の用い方については、過去にルターが架橋したこと(過去の事実)について述べているのか、架橋していることを今、確認できるということを示しているのかを、区別して表現する可能性が高いと思われる。
以上のような時制の使い分け、および、(引用2)における noch やdamalsという語の用い方を考慮に入れて、総合的に判断すれば、どう考えても、(引用1)の部分 は、文脈の流れに対しては、挿入句的な位置付けになっているとしか思えない。つまり、ルター以後のどこかある時代以降の、"クレーシス"を"Ruf"ではなく、"Beruf"と 訳し直した翻訳者や、それ以降、ヴェーバーの時代までそれを踏襲してきた翻訳者達 による『コリントI』第7章の17節から31節の訳し方を例示しようとしたということだろう。つまり、その時代の聖書解釈の基準に従えば、Rufという概念を、Berufとして 訳しても良いと、(ルター自身ではなく!)ルター以降、現在までの訳者たちが判断するような、ここはそういう文脈なのだ」ということを示したかったのではないだろうか。『コリントI』第7章の17節から31節まで通して読むと、神に召されたままの状態を保守しようとしているのは、日常生活の場においてである。
以上のような諸点から、ヴェーバーが、『コリントI』第7章の章句を、節の間の関連を示しながら例示したとき、「ルター自身もBerufを用いて訳していたと考えていた」とは思われない。また、 ヴェーバーみずから、「現代の普通の版」のルター聖書を使ったと明記しているので、ルター聖書の原書を引用しているかのごとく装おうとしていたとも考えにくい。 (牧野氏も、この明記について説明できないと述べている。)
2−3.ヴェーバーによる"sachlich"という語の用い方との関係での解釈
2−3−1.「終末論的に動機づけられた勧告」とは何か ――‘Aber’はどこにかかるかを考慮しつつ――
ヴェーバーは、『コリントI』第7章の章句の引用を行なったあと、『コリントI』第7章第20節 についてのテオフュラクトスによる注解に言及しながら、「ここでも、"クレーシス" は、今日のドイツ語の」Beruf《の意味ではない》と述べている。そして、さらにそれに続く個所では以下のように述べている。
「Aber Luther, der in der eschatologisch motivierten Mahnung dass jeder in seinem gegenwaertigen Stande bleiben sollte, "klesis" mit 」Beruf《 ubersetzt hatte, hat dann, als er spaeter die Apokryphen uebersetzte, in dem traditionalistisch und antichrematistisch motivierten Rat des Jesus Sirach dass jeder bei seiner Hantierung bleiben moege, schon wegen der sachlichen Aehnlichkeit des Ratschlages ponos ebenfalls mit 》Beruf《 übersetzt》.(Weber、1920、S.68)
<訳>(しかし、各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的 に動機づけられた勧告(Mahnung)において、"クレーシス"をBerufで翻訳していた (übersetzt hatte)ルターは、後に彼が、その旧約外典を訳した時には、各自はその仕事に留まるように、という『ベン・シラ書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言(Rat)において、ポノスを、確かにその助言(Ratschlag)がもつ事実上の類似点のゆえに、同様にBerufを用いて翻訳したのである。)(3)
ここでヴェーバーがこのように述べているのは、具体的には、何を意味しているのか、について考えてみたいと思う。
ヴェーバーは、この文の直前で、「ルターは、(コリントIの)第20節において、古いドイツの翻訳を引き継いで、1523年にもなお、この章の釈義において、クレーシス を『Ruf』と訳していたこと(エルランゲン版全集、51巻、51ページ)」と 、さらにそれを、「当時、『Stand』と解釈しており、それは、今日的なBerufの意味ではなかった」 と述べている。さらに、テオフュラクトスによる注解においても、"クレーシス"は、 「自分の信仰をえた家、地区、および町村において」と解釈されており、「今日のドイツ語のBerufの意味ではない」、とヴェーバーは、書いている。その場合、それに続く上記の文の冒頭のAberは、どのような意味になるだろうか。阿部訳では、Aber以下は、「しかるにルターは、各自その現在の状態=身分にとどまれ、という終末論にもとづく勧告のところで、『勤勉』を《Beruf》と訳しているのだが、そののち旧約外典を翻訳したときには、各自その生業にとどまるべし、というベン・シラ書の伝統主義的・反貨殖主義的な訓戒を、この二つがただ内容上類似していることからギリシア語の 『勤勉』をドイツ語の《Beruf》と翻訳したのである」となっている。(ここで、阿部氏が、"クレーシス"のところを、「現在の状態=身分」と書いているところから、阿部氏が、dass jeder in seinem gegenwaertigen Stande bleiben sollte,の部分は、 『コリントI』第7章第20節を指している、と考えて翻訳していたことが分かる。しかし、阿部訳では、ギリシア語のponosも、klesisと同様に「勤勉」と訳し、原語もついていないので、文脈が見えにくくなっている。)ところで、Aberは、原文を見ればすぐに分かるように、意味上、übersetzt hatteに繋がっているのではなく、hat dann,…ponos ebenfalls mit 》Beruf《 übersetzt》に繋がっている。つまり、『コリントI』第 7章 第20節は、「テオフュラクトスによる注解においても、"クレーシス"は、『自分の信仰をえた家、地区、および町村において』と解釈されており、それは、今日の Berufの意味ではなかったが、「しかるにルターは、各自その現在のクレーシスにとどまれ、という終末論にもとづく勧告のところで、」その「クレーシスを《Beruf》と訳していたが」と続くのではない。ここは、「しかるにルターは、…後に彼が、 その旧約外典を訳した時には、各自は、その仕事に留まるように、という『ベン・シラ 書』の、伝統的主義的で反貨殖主義的に動機づけられた助言(Rat)において、ポノス を、確かにその助言(Ratschlag)がもつ事実上の類似点のゆえに、同様に、Berufを 用いて翻訳したのである」と続くのである。
さて、この文脈を抑えた上で、ここで、「各自、その現在の身分に留まれ」という勧告の正体について考えてみたいと思う。ヴェーバーは、『コリントI』第7章、第20節においては、"クレーシス"を、Standとルターが解釈していたことについては、すでに指摘していた。しかし、その時の、訳語は、Rufであって、Berufではないとも述べていた。そうであれば、どこかに、Stande、"klesis"、そして、Berufの3つの語を結び付けている「勧告」がないかを探すべきであろう。折原氏は、その答えを、ルターが、 「『エフェソ』『テサロニケII』『ヘブル』『ペテロII』でklesisをberuffと訳していた事実」に求めている(折原、2003、78頁)。その場合、上記の勧告におけるBerufという語の意味内容が、純粋に宗教的であっても構わないのかどうかについて考えてみたいと思う。羽入氏は、ルターが、「『コリントI』7・20を"Beruf"で訳したという事実」こそが、ルターをして、「『ベン・シラの知恵』11・21の"ポノス "をも『コリントI』7・20と同様に"Beruf"と訳させるに至らしめた」とヴェーバーが主張していた、と解釈している。しかし、羽入氏は、wegen der sachlichen Ähnlichkeitという語の解釈を間違えているのではないかと思われる。その理由は、@『コリントI』第7章、第20節では、本来、宗教的な語"クレーシス"が、Standという意味で用いられて「客観的状況」を指しており、それは、各自が神によって現世に置かれた状況とも解釈できることから、宗教的でありながら、現世的なニュアンスを帯びていると解釈できること、とA(「事実上の類似点」という語を、どのように解釈すべきか、がここでは、非常に重要だと思われるのだが、)世俗的な仕事としての意味を従来になっていたギリシア語のponosも、この世俗の世界すべてが、神の与え給うた状況なのだと考えるという発想がすでに存在していれば、事実上は(sachlich)、神の招聘の一形態と解釈もできること、の2点から、それらを総括することによって、導き出せる。
この場合、『コリントI』第7章、第20節において、"クレーシス"が、Berufで、直接、訳されていなくても、ルターの頭や心の中に、宗教的なBerufと世俗的なポノスと が実際に結びつき得るとみなす可能性が存在していたことが、『コリントI』第7章、 第20節の前後関係を踏まえた第20節のルターによる解釈の仕方を見て、確認できさえすれば、ヴェーバーにとっては十分だったのである。そして、ルター以降の翻訳者達 が、"クレーシス"を、Berufで訳しているという事実も、その可能性を裏付けているのである。
その関係を、ヴェーバーか書いている順番に即して、以下でもう1度、整理してみたい。
クレーシス → Ruf= Stand(神に召されたままの状態→現世における客観的状況)
クレーシス → Beruf(神による招聘、召命)
ポノス → 世俗の仕事 → Beruf
クレーシス→Beruf→ Ruf(Stand)→ ポノス → Beruf
<wegen der sachlichen Ähnlichkeit>
クレーシスは、従来、ルターによってBerufで翻訳され、神による「招聘」という意味しか担っていなかったが、『コリントI』の第17節から第31節までの意味の連関、特に、第20節においては、Rufと注釈をつけられ、「現世における客観的状況」の意味の Standと解釈された。人々が置かれている現世における状況(Stand)すべては、結局 は、神が与え給うたものである、という発想がこれらの節全体を通して確認できる。それゆえ、ポノスという世俗的な職業の意味を含むギリシア語にも神が与え給うた、 という意味を帯びさせることが可能になり、この語と、人々が置かれた客観的状況を表わすクレーシスとの間にも、(事実上の)類似性が見出されるようになった。その結果、ルターは、ポノスにも、クレーシスに対して用いていたBerufを訳語として用 いた。
つまり、Berufという訳語が、『コリントI』(第7章 第20節)でクレーシスに対して使われたことによって、クレーシスとポノスとの間に架橋が可能になったのではなく、クレーシスとポノスとが、Standという解釈を媒介にして結びついたことによって、ポノスをBerufで訳すことが可能になったのだ、という論脈になる。
2−3−2.「誤訳」と「新しい訳の創造」との関係について
ところで、Berufという語が、現在使われているような、宗教的かつ世俗的職業の意味を併せ持つようになった背景として、ルターの宗教活動の実態も関係していたことが、すぐ後で述べられている。なぜ、その説明が必要であったかと言えば、ポノスという完全に、非宗教的な職業を意味する語をBerufで訳したとき、そこで生じる結果の可能性は、3種類(以上)あったと考えられるからである。例えば、@従来、Berufという概念は、宗教的な領域のものであったので、この訳を施したことが、1つの創造活動となって、現世における 宗教的なニュアンスを含んだ職業という新しい総合的な意味を産出する、という場合 Aそのような新しい訳を受け入れる素地が、当時の客観的状況のなかに存在してい ないため、単なる「誤訳」として退けられる場合 Bどちらかの意味だけが生き残って、新しい第3の意味の創出には繋がらない場合の3つが考えられる。
このように考えていくと、もともとある意味に訳されていた語に、別な意味を担っていた語を対応させて、「誤訳」と非難されずに受け入れられ、しかも、両方の語が もともと帯びていた意味のどちらかだけを採用せず、新しい折衷的意味を生み出すということは結構、難しいことで、当時の人々の間にその新しい意味がすでに広まっているか、受け入れられる素地が存在していた場合にしか成立し難いと思われる。
換言すれば、Berufの例からも分かるように、文字の連鎖や音の連鎖が意味を媒介する(担う)ことは確かだとしても、その担われる意味の中身を決めるのは、文字列や発音そのものではなく、それを用いる人々の精神(解釈)である。それゆえ、当時、ルターが、実際に、どのような布教活動を行っていたのかということと、その聞け手たちが、どのように影響を受けて、どのように解釈したかがが重要になる。
ところで、以下の2つの文の表現の違いも注意して読み比べる必要があると思われる。まず、ヴェーバーは、以下のように述べている。
Die lutherische Übersetzung bei dieser Sirachstelle ist, soviel ich sehe, der erste Fall, in welchem das deutsche Wort 》Beruf《 ganz in seinem heutigen rein weltlichen Sinn gebraucht wird.(S.66 L.31)
<訳>(この「ベン・シラ」書におけるルターの翻訳は、私の見るところでは、そのBerufというドイツ単語が、完全にそれの今日的な純粋に世俗的な意味において用いられている最初のケースである。:下線 宇都宮)
また、他のところでは、次のように述べている。
Es scheint in der lutherischen Bibelübersetzung zuerst an einer Stelle des Jesus Sirach(II, 20 u. 21) ganz in unserem heuitgen Sinn verwendet zu sein.
<訳>(それ(Beruf)は、ルターの聖書翻訳では、まず、ベン・シラ書の章句(II,20と 21)のところで、われわれが今日用いている意味において使用されているように思われる。:下線 宇都宮)
しかし、この後者の文中の、「われわれが今日用いている意味」とは、具体的には、どのような意味が想定されていたのだろうか。これは、「ある宗教的な――神から授けられた召命=使命(Aufgabe)という観念が少なくとも他の観念とともに含まれて」 いる「職業」観念を指すのであろう。これは、純粋に世俗的な意味だけを担っているのではないであろう。
『ベン・シラ書』の章句において、ポノスという完全に、非宗教的な職業を意味する言葉をBerufで訳したとき、その翻訳作業そのものは、純粋に世俗的な語に対して、 Berufを用いたということになるのであろう。しかし、ルターの信仰の深まりやその状況が、その翻訳を可能にしたのであり、それは、誤訳にはならずに、新しい意味の創造ということになったのであろう。その創造を引き継ぐかどうかは、彼の後続の翻訳者達の解釈にかかっているのであり、翻訳とはその意味では、その都度、その都度、 創造作業的側面があるといってもよいと思われる。そのように考える時、すぐ前に書かれていた以下の文の意味は、非常に明確になると思われる。
Es zeigt sich ferner, dass nicht…, sondern dass das Wort in seinem heutigen Sinn aus den Bibeluebersetzungen stammt und zwar aus dem Geist der Uebersetzer , nicht dem Geist des Originals.(S.65 上から、L.2〜)
<訳>(…ではなく、むしろ、今日的な意味におけるその語は、聖書の翻訳(pl.)に由来 し、しかも、翻訳者たちの精神に由来しているのであって、原典の精神に由来しているのではないということがさらに、明らかになる。)
以前の投稿においても指摘したが、今日的な意味における‘Beruf’は、複数形の翻訳や翻訳者たちに由来していると書かれていることが重要であろう。ルター一人の解釈に由来するのではない。
2−4. 上記の(引用2)の内容及び、『コリントI』第7章 第17節のクレーシスに は、「職業」(Beruf)としての意味はないことを、ヴェーバーが、追記していることの意味について
この追加の文は、第17節のクレーシスには、元来「職業」の意味は含まれてはおらず、Berufの元来の意味であった「神による招聘」との親近性が強いことを強調している。この文の存在は、テオフュラクトスによる注解においても、"クレーシス"は、「自分の信仰をえた家、地区、および町村において」と解釈されており、「今日のドイツ語のBerufの意味ではない」、とヴェーバーが、書いていたことと関係があると思われる。ここでは、客観的状況しか意味していないと介された第20節の"クレーシス"も、第17節の宗教的なクレーシスとのどちらにも「職業」という意味は存在していなかったことを強調している。そのようにしてヴェーバーは、ルターが、ポノスという完全に非宗教的な職業を意味する語をBerufで訳したことによって 初めて、Berufという語に、「職業」という意味が加わったのだということを強調したのだと思われる。すなわち、ヴェーバーは、ここで、ルターの行った翻訳の創造的意義を強調しようとしたのではないだろうか。
このように解釈すれば、この追加文が書かれたことは、 その前の文における、あの「「終末論的に動機づけられた勧告」という個所が、『コ リントI』第7章 第20節を指していることの証拠にはならないと思われる。
むすび
以上のような検討を通して判断するならば、羽入氏・牧野氏と折原氏との間でその見解が別れた、「各自、その現在のStandeに留まれ、という終末論的に動機づけられた 勧告(Mahnung)」とは、何を指していたのか、という問いへの答えは、やはり、 Stande、"クレーシス"、そして、Berufの3つの語を結び付けている「勧告」、すなわち、折原氏が指摘しているように、「『エフェソ』『テサロニケII』『ヘブル』『ペ テロII』における、純粋に宗教的なBerufを用いている勧告」であらねばならないと思われる。
そして、一旦、その解釈の立場をとれば、この問題をめぐる羽入氏の詳細な論証は、 ヴェーバーの知的不誠実性をここでは明らかにしてはいないし、ヴェーバーが、何かをごまかして自分の論証をもっともらしく捏造しようとしたのでもないということになる。但し、ヴェーバーがなぜ、ルター聖書の原書もチェックしていたであろうことが 推定されるのに、その聖書においては、"クレーシス"がruffと訳されていたことに触れていないのは分からない。しかし、上記のように解釈すれば、触れる必要性がなかったことも確かであると思われるし、またもっとありそうな理由として、ruffと訳されていたことを書くことによって、却って論旨が分かりにくくなる可能性があると判断したということも考えられる。もし、後者の理由であったとしても、それは、杜撰さや知的不誠実性によるのだとは言われないであろう。
それから、最後に、このように考えていけば、ヴェーバーが、現代の普通の版のルター 聖書を用いていたと自分で書いていたことは、少しも不思議なことではなくなることを確認しておきたい。
以上のような検討の結果、私は、牧野氏の問題提起に対しては、折原氏の解釈の方が妥当だと思われると回答したいと思う。
【参考文献】
羽入辰郎 (2002)『マックス・ヴェーバーの犯罪−「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性の崩壊」−』ミネルヴァ書房
折原 浩 (2003)『ヴェーバー学のすすめ』 未来社
牧野 雅彦 (2003)「羽入−折原論争への応答」(HP上の投稿 橋本努氏によるタイトル)
Weber,Max(1920)”Die protestantische Ethik
und der Geist des Kapitalismus, Gesammelte
Aufsätze zur Religionssoziologie I J.C.B.Mohr
(Paul Siebeck) Tübingen (G.A.Z.Rと略す):阿部行蔵訳 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」、(『ウェーバー 政治・社会論集』(世界の大思想23) 河出書房 所収)
(1) 使用したテキストは、Max Weber (1920) Gesammelte Aufsätze zur Riligionssoziologie I J.C.B.MOHR(PAUL SIEBECK)=G.A.z.R. 本文中の原文の引用 については、S.63-68 参照 (下線:宇都宮)
(2) …dass hier, wenigstens in erster Linie, an Beruf als objective Ordnung im Sinn der Stelle I Kor.7,20 gedacht ist.(S.65 L.32)<訳>ここでは、少なくとも何よりもまず、『コリントI』第7章 第20節の意味での客観的秩序としてBerufが考えられている、ということ…
(3) 長い文であるので、本来ならば2つの文に分けて訳す方が分かりやすいと思われるのだが、そうすると、Aberがどこにかかっているのかが不明瞭になるので、ここでは敢えて1文で訳した。