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未来図書目録 アイン・ランドとは誰か

 

『インターコミュニケーション』

2002Spring

 

橋本努

 

書きたい本や企画したい本ならたくさんある。しかしそういう話は直接出版社に持ち込むことにして、今回はニューヨークに関係する内容に絞りたい。まだ翻訳のないアメリカの女流作家、アイン・ランド(1905-1982)について紹介したいのである。

アイン・ランドと言えば、40年代にはハリウッド映画やミュージカルのシナリオ作家として、50年代には国民的な大衆小説の作家として、また60年代以降はリバタリアニズムの政治思想を代表する哲学者として、アメリカではかなり有名になった女性である。逞しく、美しく、しかも破天荒な人生を送ったヒロイン的存在である。現在でもニューヨークの書店では、哲学や文学のコーナーに必ずといっていいほど彼女の本が数冊並んでいる。出版社ランダムハウスによるアンケート結果(1998)では、「20世紀の小説ベスト100」において彼女の小説は第1位、2位、7位、8位を占めた。また議会図書館とブック・オブ・ザ・マンス・クラブの共同調査によれば、ランドの主著『肩をすくめたアトラス』は、アメリカでは聖書に次いで人々に影響を与えた本であるという評価を得ている。さらに、最近の哲学入門書シリーズには、アイン・ランドの巻がカントやニーチェなどの巻と並んで出版されている。これだけ影響力のあるアメリカの作家であるにもかかわらず、日本ではまだ翻訳されていない。

その理由はおそらく単純であろう。アイン・ランド女史はリバタリアン=自由放任主義者であり、集団主義や巨大組織を批判して、資本主義とタフネスの文化を肯定するという、まさにニューヨークにおけるミュージカル文化が体現してきたような精神をもっているからだ。日本における従来の文学・思想傾向からしてみれば、敬遠すべき存在だったのであろう。

しかし20世紀におけるアメリカ経済の成功を考えるとき、また、911日の世界貿易センター崩壊がもつ社会的・文化的意味を考えるとき、ニューヨークの文化的特性を正面から検討することは極めて重要な課題であろう。そしてアイン・ランドの著作群は、そのもっとも重要なテキストの一つである。ベストセラー小説『水源(fountainhead)(1943)は、巨大組織を批判し、夢を追求するためにエゴイズムを肯定するというある建築家の物語である。精神の逞しさを謳歌し、そして善と悪の間で揺れる緊張した感情を描いている。(現在翻訳進行中。)また主著の『肩をすくめたアトラス』は長編ミステリー小説で、女性主人公ダグニー・タガードが巨大な鉄道会社と政府の癒着による官僚主義的な経済運営に闘いを挑む、というものだ。集団主義の組織的・倫理的な問題を徹底的に批判して、個人の力によって崇高な理想を追い求める生き方を描いている。この他には思想系の著作として、『資本主義:知られざるその理想』、『利己心の美徳:エゴイズムの新たな概念』、『ロマンチック宣言』、『不吉な並行関係:アメリカにおける自由の死』、『原始に戻ろう:反産業革命』、『新しい知識人のために』、『客観主義認識論入門』、『ビジネスマンには哲学が必要』、『新しい左翼:反産業革命』などがある。どれも、ニューヨークのような資本主義文化における「サバイバルの逞しさ」を政治的・倫理的・哲学的に考える上で、重要であろう。

さらに、アイン・ランドの愛人関係や、彼女を取り巻く人々も面白い。ランドには25歳年下の愛人ナタニエル・ブランデンがいて、彼は『アイン・ランドの文学作法』という本の他に、『アイン・ランドと過ごした年月』(1999)という私的な内容の本も著している。彼にはしかし妻バーバラ・ブランデンがいて、彼女は『アイン・ランドの情熱』という本を出版し、この内容を元にして2000年にはテレビ番組が編集されたほどだ。この他にも研究書として、『アイン・ランドのフェミニスト解釈』(1999)、『アートとは何か:アイン・ランドの美学理論』(2000)、『アイン・ランドとビジネス』(2001)、『アイン・ランドの認識論』(1999)、『アイン・ランド:その人生と思想』、『アイン・ランド 対 人間本性』(2001)、『アイン・ランド教』(1998)などの本が出版されている。『書簡集』、『コラム集』、『アイン・ランド辞典』、『携帯版アイン・ランド』、『アイン・ランド・リーダー』もある。カセットテープでの講演や、フィルム『生の感覚』まで作られている。どれも興味深く、話題に尽きない。

このように現在、アメリカでは、美学、倫理、哲学、小説、政治思想、経済倫理というさまざま観点から、アイン・ランドを再評価する動きが高まっている。なるほど私たちはこれまで、ハイエクの『隷従への道』や、オーウェルの『1984年』や、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』といったすぐれた著作から、巨大組織に対する批判を多くを学んできた。しかしそうした批判の先にあるはずの、アメリカ資本主義の本質を洞察しかつ肯定した著作というものをあまり知らない。資本主義社会を欲望と逞しさの観点から肯定するというアイン・ランドの思想は、「市場経済と文化」というテーマを現実主義的な観点から論じた貴重なテキストであり、またアメリカにおける全体主義傾向に対する痛烈な批判でもある。20世紀の資本主義は、ウェーバーのいう「プロテスタンティズムの倫理」ではなく、ランドのいう「エゴとロマン」に主導された。私たちはこれを肯定するにせよ批判するにせよ、彼女の著作を通じて多くを学ぶことができるはずだ。アイン・ランドの翻訳者や解説者が日本にも多く現れることを期待したい。そして編集者には魅力的な企画を期待したい。

 

(はしもとつとむ・ニューヨーク大学客員研究員、北海道大学大学院助教授。著書『自由の論法』創文社、『社会科学の人間学』勁草書房、共編著『マックス・ヴェーバーの新世紀』、『オーストリア学派の経済学』(予定)、共訳書『経済学と科学哲学』、『資本主義の倫理』、『時間と無知の経済学』、『顕示的消費の経済学』など。)