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大学院進学のすすめ

 

橋本努

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以下の内容は、大学生との会話の中から生まれたものです。

 

ご批判・ご意見・ご感想・アドバイスなどをお寄せいただければ幸いです。

 

皆様の意見を取入れて、よりよいものにしていきたいと思っています。

 

 

 

・大学院進学のすすめ

「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」(夏目漱石『門』岩波文庫)

 

 

 

・【大学院進学という甘いすすめ】

現在、文科省の方針によって、大学院生の人数は毎年一万人以上も増加している。大学院生数は日本全体で約20万人。これは研究者の総数と同じくらいの人数だ。博士課程に在籍する学生は、1970年において13000人、1996年において48000人である。

 

 これほど大学院生を増やしても、研究者になれる人数は以前と変わらないのだから、多くの大学院生は、途中で進路変更を迫られることになるだろう。進路を誤って失敗したと後悔する大学院生も、これからますます増えるにちがいない。しかしそれでも、多くの教員は学生たちに、大学院に進学することを勧めてくれる。大学側は、大学院教育を充実させることによって、文科省から多くの予算をもらおうと考えているからである。大学院進学への勧めは、いわば大学の「生き残り策」なのであって、あなたの人生にとって必ずしもよいアドバイスというわけではない。大学の先生は、あなたが研究職に就くことを保証してくれない。大学のポストに就くことができるのは、大学院生のおそらく20%以下である。理系の場合は修士課程を卒業してから一流企業に就職できるので、安心して大学院に進学してよいかもしれない。しかし文科系の場合はそうはいかない。

 

 キャリア・アップとして「修士」課程に進学するとしても、「博士」課程に進学するかどうかは、前もって考えておいた方がよいだろう。博士課程へ進学しないのであれば、あなたは修士課程一年目の後半から、就職活動を始めなければならない。もしこの時点で進学を迷っていると、「とりあえず博士課程に進学してから考えよう」ということになるが、これが一番危険である。

 

学者になるための見通しがあれば問題はない。しかしその感触が得られなければ、あなたは博士課程に入ってから、研究を続けていく意義を見失い、人生に対する見通しが立たなくなるかもしない。実際、ある年に私の大学院の授業を履修していた四人のうち、三人は途中でやめていってしまった。大学院生活を送っているうちに、不安になって別の道を探しはじめたのである。しかし修士課程ならいざしらず、博士課程を途中でやめるとなると、なかなかよい就職先は見つからないものだ。「大学院博士課程」への進学は、しばしば「入学」ならぬ「入院」と揶揄されることもある。大学院に入院すると、退院後の社会復帰が難しくなる。修士課程や博士課程を卒業しても、かえって「学歴過剰」と見なされることがあるからだ。むしろ大学院に進学しなければ、よい職業に就けたかもしれない。まずこの現実を直視しよう。「それでもいい」という人には、大学院進学を安心して勧めることができる。しかし「それではよくない」という人は、以下の内容を読んでからじっくり進路を決めてほしい。

 

 

 

・【大学院はこれから進化する】

 最初に悲観的な話しから入ってしまったが、少し見方を変えれば、大学院進学を楽観的に考えることもできるだろう。日本の大学は現在、過渡期にある。今後は、とりわけ大学院を充実化する方向に向かうであろう。すでに文科省はいくつかの大学を「大学院大学」として認定し、大学院教育の重点化をおしすすめている。1990年代以降の日本社会は「高度知識社会」というあらたな段階を迎えており、社会のニーズに合わせて、大学院レベルの教育がますます必要となっている。

 

なるほど一昔前であれば、大学院に進学することはおろか、大学で勉強することすら、立身出世のためにはあまり意味がないと見なされていた。例えば、早稲田大学教授の大槻義彦氏は、著書『大学院のすすめ』(東洋経済新報社2004年)のなかで、ある大手商社の重役(早稲田卒)の次のような発言を紹介している。

 

「私は、大学の講義はサボってばかりで、運動部をやっていました。いまになって考えると、大学の学問など実社会に出てからは、何の役にも立たなかったのですよ。」

 

この重役は、自分が大学で勉強しなかったことを自慢しているわけだが、現在の学生であれば、もはや通用しない自慢話であろう。大槻氏はこの重役に向かって、「そうですか、あなたの会社は学問など不必要なほど、低レベルの会社なんですか」と言い返しているが、頷ける批判だ。大学時代に勉強しなかった学生を採用する会社は、もはや将来性が危ぶまれるのである。

 

高度に発達した知識社会においては、学部レベルの知識のみならず、大学院レベルの知識を習得することがますます求められている。すでにアメリカやイギリスでは、企業のトップや政治家や官僚になるために、修士号や博士号を取得することが通常のキャリア形成となっている。例えば、アメリカのブッシュ大統領(Jr.)はハーバード大学経営学修士号取得、ビル・クリントン前大統領はイェール大学大学院修了、イギリスのマーガレット・サッチャー元大統領はオックスフォード大学大学院修了である。これに対して日本では、田中角栄が首相になって以来(1972-74)、学歴や知性の低い政治家が多く輩出されており、このことが度重なる政治発言問題を引き起こす要因にもなってきた。国民の政治家に対する不信は、年々増大している。こうした事態に対して大槻義彦氏は、日本においても真の文科系エリートを育てることが、大学院教育において必要であると主張している(『「文科系」が国を滅ぼす』KKベストセラーズ、参照)。

 

欧米に比べると、日本では、高学歴な人たちの数が相対的に少ない。現在、アメリカの大学院生数は、人口1,000人に対して、7.69人、これに対してイギリスでは、3.61人、フランスでは、3.65人、日本では、1.22人である。つまり日本における高学歴者の割合は、英仏の三分の一、アメリカの七分の一にすぎないのである。日本社会は今後、欧州並みに大学院生の数を三倍にまで増やして、社会で活躍する優秀な人材を育てていかなければならないだろう。すでに理科系の大学院においては、修士号の取得はキャリア形成にとって大きな意味をもっている。文科系の場合もまた、近い将来、同様の制度へと移行していくかもしれない。文科系の大学院教育は現在、移行期にある。現在の修士号の価値が低くても、将来はその価値が高くなることを予想して、キャリア形成を考えみてはどうだろうか。

 

 

 

・【学問以外にも取柄のある人へ】

もしあなたが、学問以外にも、例えば指導力、体力、人間関係対処力、会話力など、他の能力においてすぐれているならば、学者になるべきかどうかを迷うであろう。学者として生きるよりも、別の職業についたほうが、自分の中にあるさまざまな能力を充分に発揮できるかもしれない。

 

私のアドバイスは、すぐれた研究者や教育者になる見込みと野心がなければ、別の道を考えたほうがよいということだ。若い頃は誰しも、学問に対して純粋に興味をいだくものである。しかし三〇代、四〇代になると、多くの人は純粋な知的好奇心を失い、学内のさまざまな雑務に追われて、そのうちに研究に対する喜びを感じなくなるようである。五〇歳にもなれば、一般に「学者として枯れる」と言われる。平均的な人間であれば、年齢とともに知的関心と能力を失う可能性が高い。また、あなたの書いた論文を読んで評価してくれる人は、日本語で書いても英語で書いても、平均すればおそらく、10人から100人くらいであり、このことにある種の「虚しさ」を感じるだろう。

 

 これに対して、もしあなたが企業や官庁・役所などに就職していれば、四〇代くらいから社会的に意義ある仕事を担う可能性があり、仕事に対してプライドを持つことができる。さらに、自分の仕事に対して、その社会的な意味を実感できるようになるだろう。四〇歳にもなれば、多くの人は、自分にとって興味のあることよりも、社会にとって貢献できることに関心をもつようである。そうだとすれば、大学の教員は、社会的に貢献する場面が少なく、歳とともにつまらない職業になるといえるだろう。一部の学者は社会的に意味のある仕事を成し遂げるかもしれないが、それ以外の学者は、それほどでもない。この現実を直視してほしい。だから、あなたに別の才能があるならば、その才能を使って社会的に意義のあることを成し遂げてほしい。学者というのは、論文を書くことに能力を特化させるわけだから、この能力を開花させないと意義深い人生とはならない。大学院生たちは、最初は、自己満足でもいいから納得のいく論文を書きたいと思っているようだが、その先の自分の人生について、あらかじめ想像力を働かせておこう。

 

 

 

・【大学院進学を迷っている人のために】

誰だって、はじめから課題発見力や情熱を持っているわけではない。おそらく多くの大学院希望者は、次のように迷っている。

 

 タイプ@:自分にとって勉強はそれほど辛いことではなく、それなりに勉強して大学に入った。大学でも勉強を続けてきたけれど、本当にこれでいいのかという疑問が残る。これで社会に出て、自分は満足な人生を送ることができるのだろうか。何かもっと真剣に打ち込むべきことはないだろうか。私はまだ自分の能力を出し切っていない。大きな試練のまえに立たされたことがない。こんな人生でいいのだろうか。

 

 タイプA:考えたり本を読んだりすることは好きだけれど、受験勉強は苦手で、結局あまり希望していない大学に入ってしまった。後悔している。もっと知的なことを求めているのだけれども、周りには知的刺激がない。とにかくよい大学の大学院に入って、本当の学問というものに触れて、もまれてみたい。

 

 タイプB:自分は人間関係がどうも下手で、会社で仕事をしても、たぶん組織のなかに馴染まないのではないかと思う。お金のために仕事をすると割りきれればよいのだが、そのような人生は魅力的ではない。大学の先生というのは、とにかく拘束されない時間があって自由だ。自分もそのような自由を手に入れて、安定した生活を送りたい。

 

 タイプC:モラトリアム生活を延長したい。自分はまだ将来のことを決めかねている。あせって就職しようとは思わない。将来、自分が何になるかについては保留して、とりあえずもう少しモラトリアム生活を続けてみたい。

 

 タイプD:とにかく学ぶことが好きで、純粋に学部時代の勉強生活を継続したいと考えている。自分は普通の人よりも、社会に出ることをのんびり考えているので、自分の人生の節目を感じるまでは、条件の許すかぎり学生生活を続けたい。

 

 以上のように、学生たちはいろいろな悩みを抱えながら、大学院への進学を考えている。私のアドバイスは、「とにかく勉強して大学院の修士課程に入ろう」というものである。修士課程に進学してから悩んでも、それほど遅くはない。修士課程で研究生活をはじめてみると、いろいろなことが分かってくるだろう。学問を継続するかどうかは、その後で判断しても間に合う。博士課程に進学する希望がなければ、大した論文を書かなくても修士課程を卒業することができるので、そこで勉強をやめればよい。

 

 ただ、博士課程への進学を希望するならば、次の二点が重要である。

 

 □学問を職業とすることに情熱をもてるか。

 

 □教育を職業とすることに情熱をもてるか。

 

たんなる知的好奇心というのは、年齢とともに減少する傾向があるので、学問や教育に対する情熱というものがないと、挫折する可能性が高いようだ。もちろん例外もあるだろうが、私の考えでは、博士課程に進学するかどうかは、能力の問題というよりはむしろ、学問に対するエートス(内面的で持続的な情熱)の問題であるように思う。学問の「力」と「無力さ」の両面を知り、それでも学問に人生の大半を捧げる覚悟があるのかどうか。そのようなコミットメントが問われているのかもしれない。

 

 

 

・【能力がなくても大学院に進学したい人のために】

学部時代を遊んで過ごしたために、思考力・暗記力・読解力・語学においてほとんど進歩がみられなかったが、しかしとりあえず大学院に進んで知的能力を鍛え直したい、と思っている学生がいる。なるほど、学部時代に遊んでいても、大学院に進学して研究者になるという道は開けている。実際、私の場合も、大学四年次から本格的に勉強したのであって、それまではジャズ研や海外旅行などに熱中していた。

 

 思考力・暗記力・読解力・語学。これらについて、もしあなたの現在の能力が、一流と呼ばれる大学の学部入試に合格しない水準であれば、そこからどのようにして大学院進学のために必要な基礎的能力を身につけていくべきだろうか。私のアドバイスは、大学院入試といっても、基本的には、一流大学の学部入試問題、とりわけ英語や小論文や現代文の試験問題を解くことができればよいのであって、それ以上ではないということだ。大学院入試では、基礎的な能力と専門的な能力が問われている。基礎的な能力に関して言えば、一年間を費やして、学部入試をもう一度受験するつもりで勉強すればよい。

 

 しかし問題は、あなたの周りの友達がもはや勉強していないという状況の中で、あなただけが強制されずに過酷な勉強をしなければならない、ということだ。そうした孤独な戦いは、とても挫折しやすいものだ。例えばもし、勉強を集団で強制される場合には、それは一人で勉強することよりも、はるかに楽である。みんなで行進すれば苦痛が減じられるように、みんなで勉強すれば、それほど苦痛を感じない。ところがひとりで自由に勉強する場合には、同じ勉強量といってもかなりの苦痛だ。2倍も3倍も大変である。だからできれば、いっしょに勉強してくれる人がいると助かる。切磋琢磨してくれる友人がいると助かる。あるいはゼミの教官に、勉強のプログラムを設定してもらうとよいかもしれない。

 

 

 

・【修士号の取得に意味はあるか】

多くの分野では、大学院の修士号を取得しても、それだけではあなたの社会的ステイタスを上げたことにはならない。その理由は二つ考えられるだろう。

 

 第一に、自分が今通っている大学の大学院に進学して修士号を取得しても、必ずしもよい就職先が見つかるわけではない。とくに文科系の場合は不確実である。将来のことを考えるならば、今の大学のランクよりもレベルの高い大学院修士課程に進学するか、あるいは大学院に進学しないで、就職浪人をしたほうがよいかもしれない。

 

 第二に、最近では修士課程への進学者が増大したために、修士号のレベルも下がっている。修士論文を書かなくても修士号を取得できる大学院もある。また、その大学における卒業論文よりも質の悪い修士論文を書いても、博士課程に進学できたりする。大学側は、大学院生の数を増やさなければならないので、とにかくレベルを下げているのだ。したがって修士号を取得して博士課程に進学しても、それだけではその人の学問的能力を保証することにはならない。事実、博士課程に進学してから自分の学問的実力のなさに気づき、悶々とした日々を送るような大学院生が続出している。大学側は、職を提供する当てもなく大学院生を増やしているので、大学院は現在、モラトリアム人間たちの溜まり場と化しているというところもある。事態はこのようであるから、修士号を取得してもあまり意味がない。

 

 修士課程への進学に意味があるとすれば、それは、とにかくもっと勉強したいという「止むに止まれぬ知的欲求」を満たすということであろう。自分の知的欲求を満足させなければ、大学院に進学しても、なかなか充足感を得ることはない。ある先生によれば、現在の大学院は「高学歴廃棄物処理施設」であるという。つまり、学歴ばかり高くて社会的には使い物にならない人たちの溜まり場だというのである。あなたも人生を捨てたくなければ、進路を真剣に考えよう。

 

 しかし特定の分野の大学院については、修士号取得に大きな価値がある。日本ではまだ少ないが、一部の「ビジネス・スクール・コース」や「ロー・スクール・コース」や「国際関係」分野の大学院である。とりわけ国際機関に就職を希望している人は、修士号を取得していると有利である。また日本で修士号を取得し、海外で博士号を所得するならば、大きなキャリア形成となる。こうした事情について、大学院に進学する前に的確な情報を集めておきたい。

 

 

 

・【勘違いをして進学しよう】

大学院に進学してすぐれた研究論文を発表しても、よい大学に職を得ることができるかどうかは「運」に左右される。あなたの論文を正当に評価してくれる教員がその大学にいないことも多いだろう。また、あなたの研究にふさわしいポストは、すでに誰か別の人によって埋められているかもしれない。だから研究者として相応しい能力があっても、クレヴァーな人(目敏い人)はこのリスクを引き受けたくは思わないだろう。本当に大学の先生になれるかどうかなどとマジメに考えていたら、大学院に進学することなどできない。大学院に進学する際には、自分の能力をまず過信し、そしてなんとか研究者になれるという「勘違い」をしなければならない。実際、こういう勘違いをしている人が大学院にはとても多いのだが、勘違いによって自分の研究がうまくはかどれば、あなたは能力以上の研究業績を出すことができる。

 

事実、大学院とは、自分の知的能力の限界に挑戦するところである。あなたはまだ自分がどの程度の知的能力を持っているのか、十分に理解してはいない。自分の知性の程度について知るためには、その限界まで挑戦してみなければならない。暗記力、語学、議論能力、文章力、批判的吟味能力、独創的能力など、自分がどの程度の知性を発揮できるのか、そしてそれによってアカデミズムや社会に貢献できるのか。こうした問題について、いちど自分の能力の限界に挑戦してから、答えを出すほかない。

 

しかし途中で自分の能力の限界に気づきはじめたら、そこから人生の問題がはじまる。いつまでも自分の能力を過信してはいられない。学者の道をあきらめるか、あるいは、生活の不安に耐えながら研究を続けるか、いずれかの選択を迫られるだろう。多くの場合、少しずつ自分の勘違いを縮小していくことになるだろう。しかしそれでも、最初に勘違いをして自分の能力に自信を持たなければ、大きな研究を成し遂げることはできない。最初から縮こまった研究をする人は、その専門分野においてすら、すぐれた成果を上げることができないであろう。

 

 

 

・【地道な学問に耐えられるか】

研究活動というものは、必ずしも自分の知的好奇心に従って行動するのではない。むしろ、知的好奇心が尽きたところから始まる、と考えておいた方がよいだろう。大学制度の下では、あなたは何よりもまず、自分にとって興味のあることではなく、学界に貢献できるような研究をするように求められている。もちろん、自分の興味と学界への貢献の二つがうまく重なれば、それが最高である。しかしどんな研究でも、ある程度まですすめると、人は次第にそのテーマについて興味を失い、別のテーマに関心を移していくものだ。実はここからが研究者としての勝負である。あなたは興味関心を失った研究テーマについて、地道な研究をつづけることができるだろうか。

 

 例えばあなたは、社会学者ルーマンのシステム理論を読んで大いに興味を持ったとする。そしてルーマンについて調べ、「ルーマン論」を書いたとする。しかし、たんにルーマンを読んでまとめただけでは、学界に貢献したことにはならない。貢献するためには、ルーマンを超える社会理論を提出するか、あるいはルーマンの本をしっかり翻訳して、日本の研究者たちにルーマンを「伝道」したり、海外のルーマン研究動向を「紹介」したりする、という「情報提供」を長きにわたってしなければならない。翻訳や紹介をするためには、まずドイツ語をしっかり勉強して、さらにテキストを詳細に検討しなければならない。しかしそのような作業をしているうちに、人はルーマンのシステム理論に対する初発の好奇心を失い、翻訳や紹介という研究を、途方もなく面倒くさい作業だと思うようになるだろう。このようにして多くの人は、地道な学問に挫折することになる。

 

 では、ルーマンと対等に勝負して、新たな社会理論を構築するという研究はどうか。この研究にはとても特殊な能力、すなわち「理論を創造する力」が必要となる。もしあなたが学部時代に何らかの特異な才能を示すのでなければ、ルーマンと同じレベルで勝負することに成功する確率は低い。学部時代に、独創的な理論を思いついたとか、ドイツ語をスラスラ読めるようになったとか、あるいは別の芸術的分野で創造的な才能を示したとか、他人には真似できないような体験をしたとか、なにか特殊なことがなければ、新しい理論を構築する可能性は低いだろう。自分の独創性に自信がなければ、ルーマンを地道に紹介するほかない。しかしそのような研究は、あなたの興味関心が移り変わっても、一〇年くらいかけて関わるという覚悟がなければならない。だからまず必要なのは、自分を縛って地道に研究するという覚悟なのである。

 

 

 

・【大学院を目指す人は、学部時代に優秀な成績を取るべきか】

大学院の修士課程で日本育英会の奨学金を得たい人は、学部の成績においてできるかぎり「優」をそろえ、大学院の入試試験でもすぐれた得点を示さなければならない。奨学金をもらえるかどうかは、成績で決まる場合が多い(ただし部署によっては「親の収入」を優先する場合もあるので、確認しておこう)。これに対して奨学金をもらう必要のない人は、学部時代によい成績を取る必要はない。また大学院入試も、合格する程度に勉強すれば、それでよい。

 

 では実際のところ、学部時代によい成績を修めなかった学生は、大学院で通用するのであろうか。それはかなり不確実である。大学院に進学するためには、学部時代に、その準備となる勉強や学問を、成績とは関係なく自主的にこなしておきたい。学部における期末試験は、多くの場合、模倣と暗記力を試すものであり、そこで必要な能力は、大学院における研究とあまり関係がないかもしれない。だから学部時代には、試験勉強よりも、実質的な自主勉強を優先しなければならない。ただし、試験勉強は、克己・勤勉・節制・規則正しさ・周到さ・忠実さなどの「美徳」を養うことができる。これは研究者としても役立つ美徳なので、こうした能力を身につけておくために、やはり試験勉強は重要だということになる。

 

 これに対して、試験ではなくレポートを課す講義は、しっかり受講しておきたい。大学院において必要な能力の大部分は、レポート作成能力である。レポートは卒論の予行演習にもなる。また、卒論をしっかり書いておかないと、今度は修士論文を書けないということにもなる。

 

 では、試験もレポートも手を抜いて、自分が重要だと思っている研究だけを自由に独自にすすめる、というやり方はどうか。この方針は、英雄的な個人主義であり、誰もが真似できるわけではない。しかしこの仕方ですぐれた論文を書くことができれば、「すべてよし」である。あなたは学界において高い評価を得るだろう。ただしこの方針にはリスクが伴う。よい論文を書くことができなければ、最悪の結果となる。これに対して学部時代によい成績を修めた学生は、すぐれた修士論文を書くことができなくても、それなりの論文を書いて、地道に研究を続けるようである。勤勉な点取り虫型の研究スタイルには、結果として一定の効用がある。しかしその効用が何であるかは、最初は分からないものだ。それゆえ最初は、学部時代によい成績を修めないで「英雄的個人主義」の道を歩むか、それともよい成績を修めて「勤勉な点取り虫」の道を歩むか、という選択が問題となる。研究者として魅力的な人間になるためには、英雄的な個人主義の道を選ばなければならない。そして一つの問題に苦悩して、徹底的に考え抜く、あるいは徹底的に調べ上げる、という愚直な情念を持たなければならない。

 

 

 

・【基本をマスターしよう】

大学院でどの分野を専攻しようかと迷っている人も多いだろう。いろいろな分野に関心があって、一つに絞ることができないという学生も多いと思う。しかし、ある程度まで興味関心を広げたら、今度は自分の興味関心に時間的な優先順位をつけて、まず学部から修士課程にかけて何をやるべきかについて絞り込もう。何はともあれ、若いうちに取り組むべき科目は、語学、数理、統計、哲学のうちのどれか、あるいはすべてである。これらの科目は、講義その他の機会を利用して、いやでも勉強しておきたい。何でもいい。若いうちにしか身につけることができないような、基礎的な学力を身につけよう。基礎学力が身につくと、その後の研究が開けてくる。

 

 例えば、経済学であれば、ミクロ経済学とマクロ経済学を習得する。あるいは、マルクス『資本論』の第一巻を習得する。政治思想であれば、プラトン『国家』、ホッブス『リヴァイアサン』、ロック『市民政府二論』、ルソー『社会契約論』、ミル『自由論』などを読んでレジュメを作ってみる。法学であれば、民法と刑法の教科書を習得する。社会学であれば、一冊の古典と、社会調査法について勉強する。これ以外にも例えば、第二外国語や統計学を勉強していく。このように、何か基礎となる勉強をしっかり身につけると、自分の研究能力に自信が沸いてくる。反対にこうした基盤が何もないと、あなたの研究は持続せず、空中分解してしまうだろう。基礎学力のない人が書く論文は、手抜き工事で建てられた家に似ている。外見はかっこよくても、ちょっと揺さぶられれば壊れるような危うい研究になってしまう。基礎学力の習得に関しては、手を抜いてはならない。

 

 

 

・【魅力的な先生に出会う】

理想論からいえば、自分で面白いと思った学問を専攻するのが最もよい。しかし私の場合、面白い学問はいろいろあったが、結局、魅力的な先生がいる分野の学問を専攻することにした。つまり、他に比べて思想系の先生は魅力的な生き方をしているようにみえるという理由から、思想系の学問をめざす決心がついたのであった。いまでも、内田芳明先生と斉藤純一先生との出会いを鮮明に思い出す。あるいは間宮陽介先生や嶋津格先生との会話を思い出す。それほど貴重な出会いであった。私はもともと、思想とか哲学に興味を持っていたが、しかしそのような研究をする能力など私にはない、と思い込んでいた。だから大学院に行ってまで思想を専攻しようと思わなかった。ところが思想系の先生たちとの出会いは、自分の情熱を方向づけてくれるキッカケとなった。それまでに、いろいろな先生の研究室を訪れてお話を伺ったり、議論したり、ゼミに参加させてもらったりしたのだが、最終的に思想系の学問を選択したのは、そこに魅力的な先生たちがいたからである。すぐれた先生との出会いは「運」である。だから少しでも多く、先生たちに出会う機会を増やしてみたい。

 

 

 

・【指導教官と大学院生の関係】

大学院でのあなたの研究生活のスタイルは、指導教員との関係において大きく左右されるであろう。それは例えば、次のようなものだ。

 

「自由放任コース」:あなたが修士論文を書き上げるまで、指導教官は、授業もせず、個人指導もせず、ほとんど何もしないというコース。忙しい先生は、構っているヒマがないので、学生たちを自由放任にしておくわけである。これを「解放」と感じるか、それとも「疎外」と感じるかは、あなた自身の問題である。

 

「仲よしコース」:学部時代の楽しいゼミナールの延長で、先生といっしょに食事したり、会話したり、息抜きの時間を共有する。基本的に勉強は自分でやって、先生と会うときは息抜きをする。例えばいっしょに映画を見に行ったり、夏休みに登山に行ったりするような付き合い方である。この場合、学生は自分で勉強しなければ、大学院生活はほとんどお遊びとなる。

 

「仏門コース」:ミクロ経済学などの基礎的な科目を毎週みっちりとトレーニングしていくコース。宿題に追われ、そのノルマがこなせなければ、脱落していく。大学受験勉強のような生活である。自分の趣味や恋愛やくつろぎなど、いっさいの事柄を断念して、仏門に入った僧侶のように、修行に励む生活である。

 

「心中コース」:先生と共同研究をするために、「先生についていきます」と傾倒するコース。徹底した師弟関係を結んで、資料を集めたり、雑務を引き受けたり、授業を手伝ったり、研究を補助しながら、その合間に研究の仕方を教えてもらう。「研究者になりたければ私と共同研究しよう」というお誘いを、「束縛」と感じるか、それとも「善意」と感じるかは、あなた自身の問題だ。そのような共同研究をしたからといって、研究者になれる保証はないのだが、さまざまな雑務を経験することで、研究生活の全体を共有することになる。

 

「マラソン・コース」:毎週、先生は学生に対して何を勉強するべきかについて一定のメニューを与える。そして学生はそのメニューに従って勉強していくというコース。学生はマラソン・ランナーであり、先生はそのコーチの役を引き受ける。先生は、厳しい課題を要求するスパルタ系のコーチであるかもしれない。あるいは自らは課題を課さず、学生の自主的なメニュー設定を承認するだけの、やさしいコーチであるかもしれない。

 

「迷える子羊コース」:以上の五つのコースをすべて中途半端に組み合わせるならば、あなたは「迷える子羊」だといえるだろう。まだ何をどう勉強したいのかについて明確でなければ、このコースを歩むことになる。迷いながらがむしゃらに研究するか、それとも迷いつづけて研究に手がつかなくなるかは、あなた自身の問題である。しかし先生との関係と研究活動の両方を模索している人は、とりあえずこの「迷える子羊」コースということになり、いろいろな経験してみる他ない。

 

 以上のコースについて、あなたは自分が望ましいと思うコースを指導教員に伝える必要があるだろう。そして指導教員とのあいだに、教育上の関係について合意を得ておきたい。私の場合、ある種のマラソン・コースであった。しかしそれは大学院の修士課程のみで、博士課程に進学してからは、自由放任コースとなった。このように、コースについてはいつでも変更可能である。最初はなるべく厳しいコースから経験しておくと、後で後悔することはない。逆に博士課程に入ってから厳しいコースを選択するというのは、意外とやりにくいものだ。

 

 

 

・【就職の世話をしてくれる先生を探そう】

もしあなたが自分の学問能力に自信がないのであれば、大学院では、就職の世話をしてくれる先生を探して指導教官に選ぼう。指導教官としてふさわしい人は、学問的にすぐれている人というよりはむしろ、世話好きの先生であり、学会によく出席する顔の広い先生であり、就職の面倒を見てくれる先生である。大学院では、まず就職の世話をしてくれるかどうか、この点について先生に聞いておこう。もっとも、全体の一割くらいしか、就職の世話をしてくれる先生はいないだろうが。

 

 

 

・【天下り大学院に進学しよう】

東大の教員たちは、六〇歳で定年退職すると、他の大学に天下りをして、七〇歳くらいまで大学教授を続けるようである。天下りの先生たちは、学界における有名人であり、若い大学院生たちの就職の世話をしてくれる可能性も高い。彼らは学界において広い人脈を持っており、その人脈を利用して就職の斡旋をしてくれる。例えば○○大学のある大学院生は、博士課程二年目にして地方の短大に就職が決まった。コネである。

 

 具体的にどの大学が天下りの拠点であるかについては、各専門分野によって異なる。したがってそうした情報をなんとかして手に入れよう。また、大学院における指導教官を選ぶ場合に、元東大の先生で天下りをした先生を選ぶことをお勧めしたい。天下りの先生たちは概して、教育においても就職のあっせんにおいても、とても親切である。彼らは現在活躍しているというよりも、少し前の時代(二〇年くらい前)に活躍していた人たちであることが多いので、そのような情報を図書館の書籍を通じて手に入れよう。現在活躍している先生たちは、とても忙しくてあなたの面倒を見てくれない。これに対して天下りの先生たちは、あなたをその分野の後継者として育てたい、という情熱をもっている。

 

 ただし、天下りの大学院に進学することの難点は、大学院生同士の付き合いが少ないということだ。一流大学の大学院生たちは、先生たちに頼らずとも、互いに刺激しあってすぐれた研究成果を出していく。これに対して二流大学の天下り先生に師事すると、こうした切磋琢磨の機会をあまり持つことがない。

 

 

 

・【大学教授になるためのマニュアル】

鷲田小彌太著『大学教授になる方法』PHP文庫[19911995]は、偏差値五〇で大学教授になれることを、さまざまな実例を引きながら示している。資金も能力もないがなんとかして大学の先生になりたいという人は、ぜひ本書を手にとってみよう。そこには例えば、次のようなアドバイスや分析がある。

 

@語学の教員や教育学部の教員は、修士課程を終えただけの人が意外と多い。

 

Aあまり有名でない大学院、付属短大のある大学院を卒業して、その大学または短大の先生になることができる。(拓殖短期大学経営科・貿易課の教員一二人のうち、拓殖大学出身者は七人である。)

 

B偏差値の低いアメリカの大学院を卒業することが得策である。

 

C教員採用を、自校出身者で固める大学、高学歴・高偏差値で固める大学、旧帝国大学の植民地のような大学など、大学によってさまざまである。これは簡単に調べられる。

 

Dコネや友人を頼りに大学教員として就職するケースについて。

 

 他にも、業績の作り方や評価の仕方について書かれている。私がこの本を読んだのは、大学院修士課程一年生の時であった。大学というのはこんなにイイカゲンなのか、と驚愕してしまった。そして「自分もなんとか大学の先生になれるだろう」という希望がわいてきた。自分が大学に就職することで、少しは大学がよくなるのではないかとも思ったりもした。鷲田氏は次のように述べている。「自由競争のもとで、多くの人がこの職業を目指すことが、とりもなおさず、大学教員の『質』を向上させる結果を生むであろう。」その通りである。大学教員の質を上げるためには、多くの人に「大学教授になる方法」を知ってもらわなければならない。その意味で、本書はすべての大学生にとって必読である。

 

 

 

・【研究テーマの悪い選び方】

一番よくないのは、学部のゼミでたまたま読んだ本に興味を持ち、それだけの理由で(別の選択肢をあまり考えずに)大学院でも同じ研究を続けてしまうことだろう。そのような大学院生は、多くの場合、面白くない人間である。ゼミにおいて一流の研究者と一流の文献を読んだならマシであるが、あなたは学部時代に、二流の先生と二流の文献を読んでしまった可能性が高い。残念ながら私のゼミもその部類だ。ゼミで学問の初発の関心を身につけてしまうと、誤った方向に導かれてしまうことにもなる。大学院での研究テーマは、なるべく多くの選択肢の中から、いろいろと試行錯誤するなかで、それこそ二、三年くらいかけて、修正・変更していくことが望ましいであろう。納得のいくテーマに出会うことは、かけがえのない経験だ。それを探すためにも、いろいろな人と会話したり、いろいろな分野の本を手にしてみたい。

 

 

 

・【問題一〇〇個、文献一〇〇本をリスト・アップする】

大学院を受けようと思ったら、研究テーマを決める必要がある。誰でも最初は、「コレコレの分野に何となく興味がある」とか、「コレコレの本が面白そう」というくらいの関心で大学院受験を考えはじめるが、この段階から出発して、自分の「興味関心」を「研究すべき問題」へと練り上げていきたい。そのためにはまず、自分の研究に参考となる専門の文献をリスト・アップして、「読書計画」を立ててみよう。

 

 また大学院入試では、面接や筆記試験を通じて、受験者は自身の研究テーマを説明することが求められる。その際、どのような「問題」をどのような「文献」を使って研究するのかについて、しっかりプレゼンテーションできるようにしておきたい。研究者になるために必要な能力は、頭のよさというよりも、むしろ、自分で問題を立て、自分で研究プログラムを立て、自分で表現する能力だ。そうした能力を磨くために、私はまず「問題一〇〇個、文献一〇〇本」をリスト・アップすることを勧めている。

 

 「問題一〇〇個、文献一〇〇本」を挙げろ、というのはとても大変な作業である。最初はとにかく支離滅裂でもよいから、自分の散漫な問題関心と読みたい文献を、手当たりしだい列挙していくことになるだろう。「問題」といっても、「ナショナリズムについて」とか「自由について」という大きなテーマから、「J・S・ミルにおける自由と寛容の関係」という研究課題レベル、あるいは「エコノミーの語源は?」といった辞書で調べられる小さな問題まで、いろいろなレベルで列挙することができる。ポイントは、大・中・小の諸問題を階層的に組み合わせていくことだ。文献リストについては、まず図書館に通いつめて、一、〇〇〇冊ぐらいの著作や論文の著者名とタイトルを、情報として知ることが必要となるであろう。図書館に慣れていない人は、毎日二〜三時間、二〜三か月の期間を使ってリスト・アップするくらいの根気が必要となろう。

 

 このようにして問題と文献をリスト・アップしてみたら、この段階で何人かの先生にアドバイスを受けてみたい。一人の先生のアドバイスだと、偏っていて危険である。少なくとも二〜三人の先生からアドバイスを受けておきたい。先生たちは、現在の学界にとって意義のある問題の立て方とか、他に読むべき文献を教えてくれるだろう。そのようなアドバイスを受けたら、そこからさらに自分の問題関心を鋭いものに練っていく。

 

 では、なぜこれほど多くの問題と文献をリスト・アップしなければならないのか。理由はいくつかあるだろう。

 

 @多くの事柄に問題関心をもっている人は、知的な意味で魅力的である。これに対して問題関心の少ない人、狭い人、ぼんやりしている人は、知的に魅力がない。

 

 Aいろいろな問題関心をもち、それらの問題を体系的に捉えていれば、研究を持続することができる。これに対して問題関心がバラバラな人、問題関心がコロコロと変わる人は、研究者として承認されない。

 

 B学生がいろいろな問題関心をリスト・アップしておいてくれると、先生はアドバイスをしやすい。どの問題を最初に研究し、そしてどの問題を後回しにすることが妥当な選択であるか。このような研究順序の問題について、先生といっしょに考えることができる。一番やりたい研究を後回しにした方が賢い、という場合もある。やりたい研究は就職してからでもできるし、その方が認められるということもある。二〇代という一番重要な時期にやっておいたほうがよい研究とは何か。それを探り当てよう。

 

 C面白そうな文献のないところに、すぐれた研究は生まれない。文献にも、質の良いものと悪いものがある。だからまず文献を漁って、いくつかの面白い文献と、先行研究を知る必要がある。先行研究がなければ、専門性の高い研究論文を書くことは難しい。とにかく研究には時間がかかる。だから最初は、二年間で修士論文を書くのに相応しいテーマと文献を見つけなければならない。

 

 Dよい修士論文を書いても、その後、研究が続かないという人は意外と多い。次にやるべき研究が見えてこないからである。こうしたスランプに陥らないためは、長期的な研究テーマを徐々に練り上げて、そこにさまざまな小課題を位置づけていくことが必要となる。できれば早い時期にライフ・ワークとなるようなテーマを掴みたい。

 

 E文献を多くリスト・アップするといっても、それらの本をすべて読む必要はない。なぜ一〇〇本の文献をリスト・アップするのかというと、ある研究テーマについて、どれくらいの文献があり、そのうちどれが必読の文献で、どれが重要でない文献(読むに値しない文献)であるかについて判断することができれば、専門の研究者としての能力を身につけたことになるからだ。いろいろな文献に対する的確な評価は、あなたがアカデミズムを担う際に、ぜひとも必要な鑑定能力となる。すぐれた文献を知らないというのは、専門家として恥ずかしいことのようである。

 

 

 

・【どんな学問を専攻するか】

大学院ではどんな学問を専攻すべきか。あなたは、自分が思う存分に研究してみたいテーマにチャレンジすべきだろうか。それとも将来のことを考えて、自分でも研究者になれそうな、ニーズの高い分野を選んで研究をすすめるべきであろうか。

 

 一般に、ニーズがあっても面白味のない研究分野では、すぐれた研究者が集まらず、結果として大学院生は大学に職を得やすい。これに対して、内容的には面白いが社会的ニーズの少ない学問分野では、就職の激戦区となり、大学院生たちはなかなか大学の職にありつけない。そこで小心者は、面白くないが職のみつかる学問研究を専攻しようとするだろう。これに対して大胆で野心的な人は、リスクを引き受けて、面白い学問研究の激戦区に飛び込むだろう。面白い研究分野には、本当に面白い人たちが多く集まるので、学問はいっそう面白くなる。もちろん、面白い分野の研究は就職難に見舞われる可能性が高いから、問題はリスクと責任だということになる。

 

 面白い研究かそうでないか、という問題だけでなく、相関的な研究かタコツボ的な研究か、という問題もある。また、実学を志向するか、哲学や理論や思想や歴史などのあまり役立たない研究を志向するか、という問題もある。大学院生の人数の増大とそれに伴う就職難によって、研究分野の選択問題は、いっそう深刻になっている。どうしても大学に職を得たいのであれば、就職のニーズの高い研究分野というものを知っておこう。大学院で専攻すべき分野は、それを大学で教えたいとか、それを研究することで社会貢献がしたいという動機を大切にして、決めていこう。

 

 

 

・【その専攻分野で本当によいのか】

 ある学生の話である。学部三年生の夏に、彼は留学から帰ってきた先輩の大学院生と飲む機会があった。そのときに彼は、自分がこれから大学院に進学して中国経済を専門に研究したいという決意を述べたのであるが、その大学院生はこう返してきた。「君は一生中国のような国と付き合っていくのかい。僕は絶対やだね。」こうした投げ捨ての批判を受けて、彼は一度、大学院進学を断念しかける。結果として、大学院受験のための勉強が遅れ、浪人する原因となってしまった。しかしあとから振り返ると、大学院生からのあのときの批判は、よい経験になったようだ。彼は次のように述べている。「私が言いたいのは、院進学にあたって、家族・友人・先輩・教授などから、一度脅かされて、悩んだほうがいいということだ。脅かしを克服し、苦悶を乗り越え、学問のプロとして成功するための勝算を考える。こうした過程から生まれる決意、プロになる覚悟が、研究者になるためには必要なのだと思う。」

 

 大学院に進学するにあたって、できれば多くの批判を受けて、悩んでおいたほうがよい。悩まないよりも悩んだほうが圧倒的によい。しかし現状は、大学院に進学してから専門分野の選択に迷う人が多く、そうなると膨大な時間を無駄に費やしてしまうことになる。最初に悩んでおけば、「決意」が硬く「意志」の強い研究生活を送ることができる。しかし後から悩むとそうはならない。この不可逆性について知っておこう。

 

 

 

・【学部時代とは別の分野の大学院に進もう】

あなたの大学では教えられていない専門科目でも、日本全国でみた場合には、とても重要で意義のある研究分野がたくさんある。また、ある分野の学問にはそもそも大学院生が集まりにくい、ということもある。あるいは、大学院になってから専攻した方がよい分野、というのもある。例えば私が携わる「経済思想」という分野は、これを学部生のときから専攻しても大学院では伸び悩むということがある。やはり学部生の段階では、経済理論の勉強を優先したほうがよいだろう。

 

 多くの専門分野では、大学院の修士課程から勉強をはじめても十分に間に合うように出来ている。また、学部時代の専攻分野とは別の分野に進むことによって、将来、自分の研究の幅が広がり、独創的な研究をする可能性も高まるであろう。私は学部時代に国際金融論を専攻し、大学院では社会哲学を専攻した。このように専門分野を変えることは、自分の研究の意義を根底から考える機会を与えてくれる。あなたは二〇代という一番大切なときにどんな研究をすべきか。一度、選択肢を広げて自由に考えてみよう。

 

 

 

・【一度社会に出てから大学院を受験しよう】

大学院で研究すべき研究課題には、二つの種類がある。大学においてのみ問題関心をもつことができるような学問と、社会に出てからはじめて問題関心を強烈にもつことができるような学問である。

 

 前者の学問は、例えば数学、物理学、理論経済学、分析哲学などである。これらの学問は、社会に出て働いている多くの人にとっては、どうでもいい問題である。そのような学問を研究するためには、大学の内部において、とくに先生たちとの交流のなかで、問題関心を育まなければならない。

 

 これに対して後者の学問は、例えば社会調査、国際関係、経営学などである。これらの学問を営むためには、一度社会に出て、社会的な問題関心を強烈に受けとめるという経験が重要となるであろう。一度就職をして、仕事上の問題や悩みを抱え、それによって精神的葛藤に陥る。この葛藤を処理するために、葛藤を引き起こす原因となる社会構造について研究しようと思い立つ。そしてその研究を通じて、社会を少しでもよくしようと制度改革を提案していく。このプロセスが重要となる。

 

 あるいはこういうことも言える。人間、必要に迫られて焦らなければ勉強しないものである。一度社会に出て、二〇代後半から大学院に入学すれば、自分には時間がないと思い、そこから焦って勉強することができる。社会人入学した大学院生たちは、若い大学院生たちの社会性のなさやモラトリアムというものに反感を持ち、彼らを軽蔑している。そして「私は彼らとは違う」というプライドをもって、勉強しているようだ。社会人経験者たちは、とにかくいま勉強することに将来の生活がかかっているのだから、必死に勉強する他ないという実感を持っている。これに対して学部からストレートに大学院に進学すると、まだ人生の時間がたくさんあるような気がして、研究に対して悶々と悩みがちである。

 

 

 

・【地方大学の大学院は不利か】

大学院を選ぶ場合、地方の大学と都心の大学とでは、どのような差があるだろうか。まず地方大学の大学院には、次のようなメリットとデメリットがある。

 

 まずデメリットから。@すぐれた大学院生が少なく、また議論好きの大学院生も少ないので、大学院生同志で知的に刺激し合うことを期待できない。これに対して都心の大学院に進学すると、学生同志のいろいろな私的研究会に出席することができるので、知的刺激が多い。A地方では時間がゆっくり流れているので、一日の勉強量が自然と減ってしまう。あくせく勉強する気にはならない。Bすぐれた先生に会う機会が少なく、本気で研究するということがどういうことなのかについて、体験できない場合が多い。C何を研究すべきかについて、考えるための材料が少ないので、つまらない研究テーマに関心を持ってしまうことがある。D先生や学生たちとの間で人脈を作ることが難しく、自分の研究のキャリア形成には不利である。E文献情報や、学界にかんするさまざまな情報について、アクセスする機会が少ない。

 

 これに対して、地方大学で学ぶメリットは次のような点である。@すぐれた先生に出会うことができれば、その先生から多くを学ぶことができる。例えば古典の読解などの特殊な技術を、先生から深く学ぶことができる。地方の大学の優秀な先生は、やる気のある学生に多くの時間を割いてくれる可能性が高い。これはもっとも大きなメリットである。Aよい研究テーマが見つかり、しかもそのテーマに没頭するだけの能力があれば、地方の大学院では、他の誘惑がなくて研究がはかどる。これに対して都心の大学院では、自分の研究テーマを他者から批判されることが多く、なかなか自信を持って研究を続けることができない。また都心では、他の分野の研究が楽しいものに見えてくるので、自分の研究に没頭できない人が多い。B就職に関しては、地方大学の大学院はそれほど不利ではないかもしれない。というのも、都心の大学院には学生の数が多いので、必ずしも偏差値の高い大学院に進学すれば大学に就職できるとは言えないからである。

 

 

 

・【一人の天才と一〇〇人の職人制】

アカデミズムの社会は、市場社会や政治社会と同様に、そこに一人のすぐれた個人さえいれば、飛躍的に発展する。あとは、その周りにすぐれた研究者の仕事を支える人たち(実証研究とか学説史研究とか論理的に細かいことをできる能力のある人たち)が集まって、すぐれた研究者のアイディアを継承し、体系化し、応用していけばよい。例えば「哲学」という学問分野は、基本的に、大哲学者が書いたものを注釈する、という研究で成り立っている。だから細かいことに器用で粘り強い人であれば、学者としての哲学者になる見込みが大いにある。アカデミズムの世界は一人の天才と100人の職人によって成り立っている。もしあなたが職人的な研究(解釈、注釈、紹介、翻訳、応用、比較、編纂、復刻など)に器用な人でなければ、天才的な研究を目指さすほかない。

 

 

 

・【哲学科の大学院を希望する人のために】

「私」とは? 真理とは? 善とは? 時間とは?……あなたは、こうした根本的な問題にとりつかれて、もがき苦しんだことがあるだろうか。苦しんでいる人、その人は「哲学病」である。哲学病の人は、中島義道『哲学の教科書』講談社の第五章「哲学者とはどのような種族か」をぜひ読まれたい。一生病気でなければ、哲学を専門とすることはできないようだ。病気から回復したければ、文学・思想・芸術などへ転向した方がいい。

 

 哲学というのは、最も知的で学識の必要な学問かといえば、そんなことはない。固有の意味における哲学とは、存在や自我や時間といった問題に「決定的につまずくこと」からはじまる。哲学的な問題をちょっとかじりたい、というのであれば「思想」研究をすすめたい。思想というのは、哲学者の言ったことの「文化的・社会的意義」を理解していこうとする営みである。これに対して哲学は、その文化的意義など、ある意味でどうでもよく、哲学的営為を真正面から継続していくことに意義があると考える。

 

 

 

・【あなたの人材価値を判定してもらおう】

大学四年目の春になると、学生たちは就職活動の時期を迎える。会社情報を調べたり、時事問題について考えるようになり、そしていくつかの企業を訪ねることになる。人気のある企業に就職することは難しい。面接試験に落ちて、自分の人材価値(人的資本)はどれほどのものなのか、と悩む人も多いだろう。「自分はいったい、大学時代に何をやってきたのだろう」。このように反省する人も少なくないはずだ。

 

 これに対して大学院を受けようと思っている人たちには、就職活動をするのではないかぎり、自己反省を迫られることがない。だから自分が研究者としてどれだけの人材価値をもっているのかについて、先生や大学院生にストレートな評価を聞いておこう。とりあえず、諸先生方が過ごした大学生活と比較してもらって、いろいろな意見を聞いておこう。また、諸先生方がこれまでみてきた学生たちと、あなたの生活経験を比較してもらって、一定の評価を得ておきたい。すべてこうした評価は、就職面接をしないで大学院に進学することの危険を認識するために、役立つであろう。