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「F.A.v.ハイエク――人間像の考察」はじめに

『経済思想』日本経済評論社、所収

橋本努

 

 

 

はじめに

 1989年にベルリンの壁が崩壊したとき、日本の社会はバブル経済の絶頂期にあって、一つの時代が終わるというムードに包まれていた。近代の終焉、科学の終焉、冷戦構造の終焉、生産力至上主義の終焉、歴史の終焉、マルクス=レーニン主義の終焉、戦後民主主義の終焉、等々の議論がそれである。こうした「終焉論」はいずれも、実はマルクス主義の失効に淵源していた。マルクス主義が無効になるとすれば、それは近代の諸思想全体の終焉でなければならない。けだしマルクス主義は、近代の諸潮流をすべて止揚するはずのものだったからである。およそ知識人たちはそのように捉えて、資本主義を超えることの思想的困難を、時代の終焉論へと投影したのであった。

 しかし東欧革命(1989)やソビエト連邦崩壊(1991)について考えるとき、たんなる終焉論では捉えきれない歴史の変動がはじまっていた。当時の革命の指導者たちは、既存の体制をただ破壊するために活動していたのではない。彼らはマルクス=レーニンの思想に代えて、フリードリッヒ・フォン・ハイエクの思想を実現するというビジョンを持っていた。例えばエリツィン大統領の参謀で1991年から1994年まで首相代行と大蔵大臣を務めたエゴール・ガイダル氏は、ハイエクの思想を革命に不可欠のイデオロギーとして、真摯に受けとめている。彼は「共産主義の有効性に疑問を投げかけた最も影響力のある同時代の著作家はだれか」という質問に対して、「もちろんハイエクです」と答えている。なぜなら「ハイエクは、マルクスと同じくらい印象的に、非常に明快な世界像を与えたからだ」、というのである[1]。ハイエクの思想は、東欧革命とソビエト連邦の改革において、マルクス主義に代わる世界像を提供した。その思想的影響力は、21世紀における私たちの社会秩序観を、根底において規定するものになっていると言えるだろう。

 フリードリッヒ・オーグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899-1992) は、ウィーンにおいてオーストリア学派の若手経済学者として出発し、ロンドンのLSE(London School of Economics: 1931-1949)に職を得てからは、ケインズとの論争や社会主義陣営の経済学者たちとの論争を繰り広げた。また社会主義と全体主義社会の危険を説いた啓蒙書『隷従への道』(1944)は世界的ベストセラーとなり、ハイエクの名を一躍有名にした。さらにハイエクは、モンペルラン協会を1947年に設立して、自由主義の世界的連携と交流を発展させてきた。シカゴ大学(1950-62)に移ってからは、『感覚秩序』、『科学の反革命』、『自由の条件』などの広範な分野にわたる研究成果を発表、フライブルク大学(1962-69)およびザルツブルク大学(1969-77)においては、経済思想上の名著とされる『法・立法・自由』(1973-79)を著している。1974年にノーベル経済学賞を受賞すると、ハイエクの思想は、次第に時代の要請と呼応していった。例えば、1980年代におけるアメリカのレーガン政権、イギリスのサッチャー政権、日本の中曽根政権などの政策運営において、ハイエクのビジョンは大きな政治的影響力を与えている。そして終極的には、1989年の東欧革命と1991年のソ連崩壊において、ハイエクの思想は社会革命の理念として、歴史の先端に踊り出たのであった。

 これほどまでに大きな影響力を与えた経済思想家は、20世紀においてはケインズを措いてほかにいないであろう。すでにハイエクの学問と思想に関する研究は、さまざまな観点から試みられている[2]が、本稿ではそれらの研究との重複を避けるために、日本において比較的紹介されていないハイエクの伝記的側面に焦点を当てて論究することにしたい。ハイエクの誕生から死に至までの人生を伝記的に振りかえり、その中でハイエクの思想の本質を掴み出してみたいのである。

 

 

以下、目次

 

1 研究者に至るまで

(1) 家系と幼少期

(2) 戦争体験

(3) 学部生時代

(4) ニューヨーク留学

(5) 20代後半から32歳まで

 

2 経済学

(1) ロンドン (1931-40)

(2) 30年代後半

(3) ケンブリッジ (1940-49)

(4) 隷従への道 @イギリス

(5) 隷従への道 Aアメリカ

(6) モンペルラン協会

 

3 政治

(1) 50歳:離婚と再婚

(2) シカゴ (1950-62)

(3) 自由の条件

 

4 晩年

(1) フライブルク 1962-69

(2) ザルツブルク 1969-77

(3) インフレーション問題と貨幣発行自由化

(4) ノーベル経済学賞(1974)

(5) IEAとサッチャー政権

(6) 再びフライブルク (1977-92)

 

 

参考文献

Barry, Norman (1979) Hayek’s Social and Economic Philosophy, London: Macmillan.

Berliner, Michael S. ed. (1995) Letters of Ayn Rand, New York: Dutton.

Cockett, Richard (1994) Thinking the Unthinkable: Think-Tanks and the Economic-Revolution, 1931-1983, Great Britain: Harper-Collins.

Ebenstein, Alan (2001) Friedlich Hayek: A Biography, New York: Palgrave.

Finer, Herman (1946) The Road to Reaction, London: D. Dobson.

橋本努 (1994)『自由の論法――ポパー・ミーゼス・ハイエク』創文社.

――― (1995)「フリードリッヒ・A・ハイエク──社会の自生的秩序化作用の利用」大田一廣/鈴木信雄/高哲男/八木紀一郎編『経済思想史──社会認識の諸類型』名古屋大学出版会、所収.

Hayek, Friedlich August von (1944) The Road to Serfdom, London: Routledge.

―――― (1967) Studies in Philosophy, Politics and Economics, Chicago: University of Chicago Press.

―――― (1975) Die Irrtümer des Konstruktivisms, Walter Euken Institute.

―――― (1978a) A Tiger by the Tail: The Keynesian Legacy of Inflation, Sudha Shenoy, complier and introducer, London: Institute of Economic Affairs.

―――― (1978b) New Studies in Philosophy, Politics, Economics and the History of Ideas, London: Routledge.

―――― (1984) Money, Capital, and Fluctuations: Early Essays, Roy McCloughry, ed., Chicago: University of Chicago Press.

Johnson, Frank (1975) “The Facts of Hayek,” Daily Telegraph Magazine, September 26, 1975.

Keynes, John Maynard (1971-1989) The Collected Works of John Maynard Keynes, London: Macmillan for the Royal Economic Society.

Kramnick, Isaac and Barry Sheerman (1993) Harold Laski: A Life on the Left, London: Allen Lane.

Kresge, Stephen and Leif Wenar eds. (1994) Hayek on Hayek: An Autobiographical Dialogue, Chicago: University of Chicago Press.

Lawson, Nigel (1993) The View No.11, New York: Doubleday.

Mises, Ludwig von (1960) “Liberty and Its Antithesis,” Christian Economics, August 1.

Oral History Program (1983) “Nobel Prize-Winning Economist Friedlich A. von Hayek,” University of California at Los Angels.

ラアテナウ (1934)「新しき社會」『世界大思想全集96 新しき社會/ラアテナウ著:陶山務譯. 讀書論・胡麻と百合/ラスキン著:本間立也譯』松柏館書店、所収.

ラシーヌ (1993)『フェードル:アンドロマック』岩波文庫.

トロロープ、アントニー (2004)『電信局の娘 アントニー・トロロープ短編集1』都留信夫編、津久井良充編訳、市川薫ほか訳、鷹書房弓プレス.

Yergin, Caniel and Joseph Stanislaw (1998) The Commanding Heights, New York: Simon & Schuster.

 

 



[1] Yergin and Stanislaw (1998: 277).

[2] ハイエクの思想を入門的に紹介した拙稿(橋本努 1995)を参照されたい。