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「社会学入門」期末レポート2011-5

「倫理的正しさと道徳的正しさについての全体論的・個体論的考察」

鈴木 優輔

 


 

1         正しさに関する一般的解釈

 正しいとは何か。本項では辞書的な意味での「正しさ」についての解釈を与える。先ず、広辞苑第五版によると、『@まがっていない。よこしまでない。Aよいとするものや決まりに合っている。法・規則などにかなっている。きちんとしている。』という意味が与えられている。また、旺文社国語辞典によると、『@道徳・法律・道理にかなっている。真理にかなっている。A基準に合っていて乱れない。きちんとしている。B正確である。』となっている。

 さらに、「正」を漢和辞典で引いてみると、『(解字)会意。一と止を合わせたもの。止は足を表し、一は進んでゆく目標を示す。正は目標に向かってまっすぐ進むことで、正しいことを表す。(新選 漢和辞典 新版/小学館/昭和4921日新版発行)』という説明が見られる。したがって、以上のことから、正しいとは、@正確であること、とA道徳や法律や道理に適っていること、そしてB基準から逸脱せず、乱れていないこと、の3つの意味を持つ。

 

2         全体論的或いは個体論的に「正しさ」を語る意義づけ

まずは、少し長くなるが以下の英文を読んでみてほしい。

 

Although we are accustomed to thinking of individual ants as primary organisms, there is a sense in which the colony as a whole is also an organism. Indeed, our own bodies are also colonies, consisting of billions of individual cells co-operating in corrective organization. …the crucial point to appreciate is that just as there exist emergent holistic features in an ant colony, so there are such features in a cell colony.to say that an ant colony is nothing but a collection of ants is to overlook the reality of colonial behavior. …to say that a human being is nothing but a collection of cells, which are themselves nothing but bits of DNA and so forth, which in turn are nothing but strings of atoms and therefore conclude that life has no significance, is muddle-headed nonsense. Life is a holistic phenomenon.

 

(邦訳:我々は個々のアリを、基本となる有機体であると考えることに慣れているが、コロニー全体も、ある意味では、また一つの有機体なのである。実際、我々自身の身体もコロニーなのであって、集合的な組織の中で協力する何十億もの個々の細胞から成り立っているのだ。…正しく理解すべき決定的な点は、アリのコロニーには、はっきりとその姿の見える全体論的な特徴が存在しているのと同様に、細胞のコロニーの中にもそうした特徴があるということである。アリのコロニーは単なるアリの集まりに過ぎないということは、コロニーとしての行動の実態を見逃していることになる。…人間は細胞の単なる集まりに過ぎず、その細胞自体はDNAなどの微小な要素の寄せ集めに他ならず、さらにまたこれらは、原子の連鎖でしかないといって、それ故に、生命には意義はないと結論付けるのは、まるで阿呆である。生命は全体論的な現象なのである。)

1996年度 京都大学入学試験問題(後期)より抜粋)

 

 我々の身体や、それに付随して起こる生命活動は、全ては科学的な法則に支配された原子の運動でしかない。だからといって、そこに意味などない、と宣言するのは早計であろう。ひとつひとつの原子の運動の相互の作用が核酸やタンパク質を形作り、その核酸やタンパク質等々が細胞内小器官、ひいては細胞を作り、さらにその細胞が集まって肉体を為している。単なる原子の運動の相互作用が、何億、いや何兆、或いはそれ以上のパターンを生み出している。そのパターン同士が相互に影響しあうことで、再び我々を構成する最小単位である原子の振る舞いを変化させてゆく。これこそが生命の意味であろう。全体の存在は個体に依存し、個体の存在は全体に依存するのだ。ひとつひとつの原子の運動を見ることで、我々の肉体を理解することができるし、我々の肉体を観察することでまた、ひとつひとつの原子の挙動を捉えることができる。「正しい」という概念もこれと同じようなものだ。ひとりの言う「正しい」とみんなの言う「正しい」が相互に影響を与え合って、「正しい」という概念を作り上げているのだ。したがって、正しいという概念は原則流動的であると考えるのが妥当なのではないか? 以下、このような認識に基づいて「正しさ」について考えてみよう。

 

3.「正しい」という概念の再構成

 1.正しさに関する一般的解釈 で述べた「正しさの3つの意味」をより高度に組みなおそう。まず、@やBの意味は、我々が容易に想像できる正しさの裡に実現されうる。たとえば、 という数式は、「cは直角三角形の斜辺であり、abはその他の2辺である」という定義さえ与えれば、常に成立するような類のものである。我々はこのような事実に対して、明らかに正しいということができる。なぜならば、ある定められた定義に従えば誰でも正しいと言うことができるからだ。このように正誤が明らかに判定できる正しさを、以降「論理的正しさ」と呼ぶこととしたい。

 問題はAの意味における正しさである。Aを見返してみると、「道徳や法律や道理に適っていること」とある。ここで、道徳とは、『人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。』という意味であり、また道理とは、『人の行うべき正しい道。道義。』という意味である。したがって、このAの意味における正しさとは、「そうあるべき状態」のことを意味している。

 私の疑問はここにある。「そうあるべき状態」の妥当性は評価できるのか?という疑問だ。例えば、世間一般に言われる「殺人をしてはならない」という言葉。確かに、社会においては、殺人という行為は悪いことであるという認識がなされている。しかし、「殺人を行うことは悪いことだ」とする論理的に明快な理由はあるのだろうか。殺人をしてはいけないという「正しい」認識の「正しさ」は常に妥当なものであると評価できるのだろうか。「そうあるべき状態」というのは、人間の相互作用によって、刻々と変化しているのではないか。

 このような疑問を考察するために、「倫理的正しさ」と「道徳的正しさ」という2つの言葉を定義したい。倫理的正しさとは、内的に獲得される、すなわち「自らの思惟」により決定される正しさであり、道徳的正しさとは、外界によって与えられる、つまりは「規範」によって形成される正しさということである。

 これで、「正しい」という言葉を論理的正しさ・倫理的正しさ・道徳的正しさという3つに再構成することができた。では、実際にこの「倫理的正しさ」と「道徳的正しさ」について全体論的・個体論的に考察を加えることで、「正しい」という概念を明らかにしようではないか。

 

4         具体例を考える

1997年、21世紀が目前に迫ったこの年、日本を震撼させる事件が起こった。神戸市連続児童殺傷事件―通称「酒鬼薔薇事件」―である。

 

神戸市須磨区の住宅街で9725月、小学生の児童5人が襲われ、山下彩花さんと土師淳君が殺害され、1人が重傷を負った。兵庫県警は、当時14歳だった男性を殺人や死体遺棄、殺人未遂などの容疑で逮捕。神戸家裁は同年10月、男性を医療少年院に送致する保護処分を決定した。

( 2007-05-23 朝日新聞朝刊 1社会 )

 

 事件の犯人は「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る中学生であった。彼の殺人にみられる残虐性は常軌を逸していた。気分が悪くなるので、詳細は書かない。彼に関する感想は、「気が振れている」、ただそれだけだ。気違いは気違いである。今問題にしたいのは酒鬼薔薇の異常性ではない。事件の衝撃で気が振れてしまったのか、酒鬼薔薇に対してシンパシーを抱く人間が現れたという事実だ。「殺人」という反社会的行為を犯した彼に共感する声が湧き上がった事実は、「正しさ」を捉えなおす試みを提示した。

先ず、殺人者にたいして共感する者(特に若者)の声がマスコミを通じて報道されたという事実は、明らかに日本社会における道徳的正しさの変容を伝えていた。本来、殺人を犯した者は忌避の対象として軽蔑されるべき存在であった。たとえ殺人にシンパシーを感じている者がいても、それを口にする者を排除する力を持った伝統的道徳観が息づいていた。それが、日本社会における道徳的正しさだったし、多くの人の倫理的正しさだった。しかし、その道徳観は蝕まれていた。いや、変化していた。道徳的正しさは刻々と変化している。ちょうど、社会を構成する人間がその生と死によって更新されてゆくのと同時に。神戸市連続児童殺傷事件から14年経った今、この道徳的正しさの変容はさらに加速している。インターネットの世界では「死ね」などという言葉はすでに冗句に変容してしまっている。昔は(といってもつい10年くらい前のことだが)「死ね」という言葉を使うことにどれだけの抵抗があったか、私はありありと思い出すことができる。しかし、今は違う。私はまるで平気な顔をして「死ね」と言える。これは私の中の倫理観が変化したからだ、と言えるだろう。恐らく、他にも私と同じように、倫理観が変化した人がたくさんいたのだろう、個々の変化が全体の変化を呼んだ。つまり、道徳観が変化した。そしてこの変化した道徳観がさらなる個々の倫理観の変化を生んで、恰もそれは外洋のうねりのように、変化してゆく。ここに、「正しさ」の変容が実現されうるのだ。

 

5.結論として

具体例を見ると、正しさは千変万化、明らかな形を与えられるものとは到底思えない。正しさは十人十色、正しい認識の「正しさ」が正しいということは保証されていないとしか思えない。ならば「正しさ」とは虚構であるか、と判断するかというと、それも早計である。では正しさとは何か?今からその核心に迫る。

正しさとは、その時代に生きる人間相互の働きかけによって生じる。当然のことながら人間は関係性の中に生きている。その関係性の中で生きるために生じたのが正しさという概念だ。「論理的正しさ」の発明により、人は自らの行動をパターン化して、より効率的な生活をしようと努めた。「倫理的正しさ」「道徳的正しさ」の発明により、人は精神的・肉体的共同体内で、他者との間に線を引くことに成功した。つまり、これは条約のようなものだ。条文のない条約。例えば「他人に暴力を振るわない」ということに「正しさ」(つまりは妥当性)という意義が与えられることで、他者の自己への攻撃を食い止めるという結果になった。もちろん、「正しさ」により他者への暴力が禁止されることで、自分から相手への暴力というものもタブーとはなったが、多くの場合は暴力の禁止が人間相互の無駄な争いにエネルギーを費やすことを避ける方向へ働き、より多くの労力を発展のために費やすことができるようにしたのである。

したがって、「正しさ」とは生存のために編み出された概念である。種の存続のために、個々の行動を制限するのが「道徳的正しさ」であり、個の生存のために個々の行動を制限するのが「倫理的正しさ」である。そして、倫理的正しさは道徳的正しさと連関する。

 

…もしも君がそういう極限的な状況に置かれたとしたなら、あらゆる可能性を考え抜いて、判断するんだ。君の善悪、君の全人生を、そのひとつの行為に賭けるんだ。善悪の判定は「神」のみぞ知る。このとき、来世の存在への問いは、避けられないとわかるだろう。極限的な場面ばかりじゃない。君の行為のひとつひとつ、心の中のあらゆる思いが、そういうことなのだとわかるだろう。(14歳からの哲学―考えるための教科書―/池田晶子/トランスビュー社、2003 P164

 

 「殺人」を正しいと言うことだって可能だ。しかし、それは自己の人生のすべてを賭けた思惟によってしか為されない。生きるための判断は、とてつもなく重い。「正しい」と宣言することは、人生を変えうる。だから、思惟に対する誠実な姿勢が必要なのではないか。そして、その誠実な姿勢こそ正しさを体現しうる唯一の事実であろう。

 

 

参考文献

『正義論概説』(森末伸行著 中央大学出版部/1999

『倫理学概説』(小坂国継、岡部英男編著 ミネルヴァ書房/2005

『考えるヒント2』(小林秀雄著 文春文庫/2007

『ロールズ』(チャンドラン・クカサス、フィリップ・ペティット著 山田八千子、島津格訳 勁草書房/1996

『道徳形而上学原論』(カント著 篠田英雄訳 岩波文庫/1960

『自由論』(JS・ミル著 塩尻公明、木村健康訳 岩波文庫/1971

『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著 ちくま文庫/2010

『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』(池田晶子著 トランスビュー/2009

14歳からの哲学』(池田晶子著 トランスビュー/2003