作成・橋本努
ホッブズ『リヴァイアサン』岩波文庫[1651]
・トーマス・ホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679):英国国教会の田舎牧師の二男。オックスフォード大学卒業、フランシス・ベーコンの秘書を務める。三回におよぶ大陸旅行で、デカルトやガリレオらと交流した。
・「コモン-ウェルス」:ラテン語のキウィタス(都市)に当たる。ローマの都市国家に代表される政治社会。
・「リヴァイアサン」:人工生命の技術知によって創造された、人工的人間としてのコモン-ウェルス(ないし国家)。ホッブズはコモン-ウェルスを、一方では人体との対比によって、他方では機械との対比によって捉えた。聖書「ヨブ記」によれば、「地上にはかれ(リヴァイアサン)とならぶものはなく、かれはおそれをもたないように作られている。かれはすべての高いものごとを軽蔑し、あらゆる高慢の子たちの王である」とされる。聖書におけるリヴァイアサンは、人間の力をこえた、きわめてつよい動物であるが、神の力はこの動物をもたおすのだとされ、神の偉大さを示す例とされる。本書『リヴァイアサン』は、この人工人間の本性を探究する。リヴァイアサンの「素材」と「制作者」がいずれも人間であるとして、どのようにして、どういう諸信約によって、それらは作られるか、主権者の諸権利および正当な権力あるいは権威とは何か。そして何がそれを維持し、解体するのか、ということが探究されている。
第一部 人間について(第一巻)
第13章 人類の至福と悲惨に関するかれらの自然状態について
・【人々は生まれながら平等である】「自然は人々を、心身の諸能力において平等に作ったのであり、その程度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかに強いとか、精神の動きがはやいとかいうことが、ときとぎきみられるとしても、すべてをいっしょにして考えれば、人と人とのちがいは、あるひとがそのちがいに基づいて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張できるほど顕著なものではない、というほどなのである。すなわち、肉体の強さについていえば、もっとも弱いものでも、ひそかなたくらみにより、あるいはかれ自身とおなじ危険にさらされている他の人々との共謀によって、もっとも強いものを殺すだけの強さをもつのである。
そして精神の諸能力についていえば、(語にもとづく諸学芸、とくに科学とよばれる普遍無謬の諸法則にもとづいてことを処理する技量をのぞいてのことであり、その技量は、われわれとともにうまれる生得の能力でもなく、[慎慮のように]なにか他のものをわれわれが追求しているあいだに取得されるものでもないから、きわめてわずかの人が、わずかなものごとについて、有するにすぎない)、私はむしろ、つよさについてよりもさらに大きな平等性が、人々のあいだにあるのを、見いだすのである。というのは、慎慮は経験にほかならず、それは、ひとしい時間がすべての人に、ひとしく専念するものごとについて、ひとしく与えるものだからである。おそらく、そのような平等性を信じがたくするかもしれないのは、人が自分の賢明さについて有するうぬぼれにすぎないのであって、ほとんどすべての人は、自分が大衆よりも大きな程度の賢明さをもつと、思っているのである。」(207-208)
・【平等から不信が生じる】「能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の平等が生じる。したがって、もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受することができないとすると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的(それは主としてかれら自身の保存conservationであり、ときにはかれらの歓楽delectationだけである)への途上において、たがいに相手をほろぼすか屈服させるかしようと努力する。」(208)
・【不信から戦争が生じる】「この相互不信から自己を安全にしておくには、だれにとっても、先手を打つことほど妥当な方法はない。それは、自分をおびやかすほどの大きな力を、ほかにみないように、強力または奸計(わるだくみ)によって、できるかぎりのすべての人の人格を、できるだけながく支配することである。……[人々は]征服によって力を増大させなければ、守勢にたつだけでは、ながく生存することができないであろう。その帰結として、人々に対する支配のこのような増大は、人の保存のために必要なのだから、かれに対して許容されるべきなのである。」(209)「われわれは、人間の本性のなかに、三つの主要な、あらそいの原因を見出す。第一は競争、第二は不信、第三は誇り(glory)である。/第一は、人々に、利息をもとめて侵入をおこなわせ、第二は安全を求めて、第三は評判を求めて、そうさせる。」(210)
・【諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する】「人々が、かれらすべてを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、先頭によって争おうという意志が十分に知られている一連の時間にある。」(210)
・【そのような戦争の諸不便】「[戦争]状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。航海も、海路で輸入されうる諸財貨の使用もなく、便利な建築もなく、移動の道具および多くの力を必要とするものを動かす道具もなく、地表についての知識もなく、時間の計算もなく、学芸もなく文字もなく社会もなく、そしてもっとわるいことに、継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、それで人間の生活は、孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい。……われわれのうちのどちらも、それによって人間の本性を非難しているのではない。人間の諸意欲およびその他の諸情念は、それら自体では罪ではない。それらの情念からでてくる諸行為も、人々が、それらを禁止する法を知るまでは、おなじく罪ではなく、そのことは、諸法が作られるまえには、かれらが知りえないし、どんな法も、それを作るべき人格についてかれらが同意するまでは、つくられないのである。/このような戦争の時代の状態も、けっしてそんざいしなかったと、おそらく考えられるかもしれない。また私は、全世界にわたって普遍的にそうだったのでは、けっしてないと信じる。しかし、かれらが今日、そのような生活している、多くの地方があるのだ。すなわち、アメリカのおおくの地方における野蛮人は、自然の情欲にもとづいて和合する小家族をのぞけば、まったく統治をもたず、今日でも私がまえに言ったような残忍なやり方で生活している。」(212-213)
・【このような戦争においては、なにごとも不正ではない】「各人の各人に対するこの戦争から、なにごとも不正ではありえないということも帰結される。正邪(Right and Wrong)と正不正(Justice and Injustice)の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには、不正はない。強力と欺瞞は、戦争において二つの主要な特性である。……そこには所有(Property)も支配(Dominion)もなく、私のものとあなたのものとの区別もなくて、各人が獲得しうるものだけが、しかもかれがそれを保持しうるかぎり、彼のものなのである。」(213-214)
・【人々を平和に向かわせる諸情念】「人々を平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとに対する意欲であり、それをかれらの勤労によって獲得する希望である。そして理性は、つごうのよい平和の諸条項[自然の諸法]を示唆し、人々はそれによって、協定へとみちびかれうる。」(214)
第14章 第一と第二の自然法について、および契約について
・【自然の権利とは何か】「著作者たちがふつうに自然権(Jus Naturale)と呼ぶ自然の権利(Right of Nature)とは、各人が、かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理性において、かれがそれに対する最適の手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である。」(216)
・【自由とは何か】「外的障碍が存在しないこと」
・【自然の法とは何か】「自然の法(Law of Nature)(自然法Lex Naturalis)とは、理性によって発見された戒律すなわち一般法則であって、それによって人は、かれの生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去するようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しうるとかれが考えることを、回避するのを禁じられる。」
・【権利と法のちがい】「権利は、おこなったり差し控えたりすることの自由に存し、それにたいして法は、それらのうちのどちらかに決定し拘束するのであって、したがって法と権利は、義務(Obligation)と自由が違うようにちがい、同一の事柄については両立しない……」(217)
・【各人は自然的に、あらゆるものに対して権利をもつ】「人間の状態は、……各人の各人に対する戦争の状態なのであり、このばあいに各人は、かれ自身の理性によって統治されていて、……各人はあらゆるものに、相互の身体に対してさえ、権利をもつのである。それだから、各人のあらゆるものに対するこの自然権が存続するかぎり、どんな人にとっても(かれがいかに強力または賢明であるにしても)、自然が通常、人々に対して生きるのを許している時間を、生きぬくことについての保証はありえない。」
・【基本的自然法】「『各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それにむかって努力すべきであり、そして、かれがそれを獲得できないときには、かれは戦争のあらゆる援助と利点を、もとめかつ利用していい』というのが、理性の戒律すなわち一般法則である。この規律の最初の部分の内容は、第一のかつ基本的な自然法であり、それは、『平和をもとめ、それにしたがえ』ということである。第二の部分は、自然権の要約であって、それは『われわれがなしうるすべての手段によって、われわれ自身を防衛する権利』である。」
・【第二の自然法】「『人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だと思うかぎり、他の人々もまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり、他の人々に対しては、かれらがかれ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのと同じおおきさの、自由をもつことで満足すべきである。』というのは、各人が、何でも自分の好むことをするというこの権利を保持するかぎり、そのあいだすべての人々は、戦争状態にあるのだからである。」(218)
・【権利を放棄するとは何か】「ある人のあるものに対する権利を放棄する(lay down)とは、他人がそのものに対する自分の権利からえる便益を、さまだける自由をすてる(devest)ことである。」(218)
・【権利を放置/譲渡するとは何か】「権利は、たんにそれを放置することによってか、あるいは、それを他人に譲渡することによって、除去される。たんに放置すること(Renouncing)によってというのは、それについての便益がだれに帰するかを、かれが顧慮しないばあいである。譲渡によってとは、かれがそれについての便益を、ある特定の人または人々のものとする意図をもっている場合である。」(219)
・【すべての権利が譲渡可能なのではない】「だれも、どんなことばまたは他のしるしによっても、それらの権利を譲渡したとか理解されることができないような、いくつかの権利がある。第一に人は、かれの生命をうばおうとして力ずくでかれにおそいかかる人々に、抵抗する権利を、放棄することはできない。……同じことは、傷害、鎖による拘束、投獄についていわれうる。……最後に、権利のこの放置と譲渡が引き起こされる動機と目的は、かれの身がらを、その生命において、また生命を嫌悪すべきものとしてではなく維持する手段において、安全に確保することにほかならない。」(220-221)
・【契約/信約/贈与】「権利の相互的な譲渡は、人々が契約(Contract)と呼ぶものである。」(221)「さらに、契約者の一方が、かれの側では契約されたものをひきわたして、相手を、ある決定された時間ののちにかれのなすべきことを履行するまで放任し、その期間は信頼しておくということも、ありうる。そしてこの場合には、かれにとってこの契約は、協定(Pact)または信約(Covenant)と呼ばれる。あるいは、きたるべき時に履行するはずの人は、信頼されているのだから、かれの履行は約束の遵守あるいは誠実とよばれ、不履行は(もしそれが意志によるのであれば)誠実の放棄とよばれる。」「権利の譲渡が相互的でなく、当事者の一方が、相手かその友人たちから友情または便宜(service)を獲得することを希望して、あるいは、慈善または度量についての評判を獲得することを希望して、あるいは、かれの心を同情の苦痛から解放されるために、あるいは天上でのむくいを希望して、譲渡する場合には、これは契約ではなくて、贈与(Gift)無償贈与(Free-Gift)恩恵(Grace)であり、これらの言葉は、まったく同一のことを表す。」(222)
・【相互の信頼による信約が、無効な場合】「当事者のいずれもが現在は履行せず、相互に信頼するという、信約がむすばれるとすれば、まったくの自然の状態(それは各人の各人に対する戦争の状態である)においては、なにかもっともな疑いがあれば、それは無効になる。しかし、もし双方のうえに、履行を強制するのに充分な権利と強力を持った共通の権力が設定されていれば、それは無効ではない。すなわち、はじめに履行するものは、相手があとで履行するであろうという保証をなにももたないのであって、なぜなら、ことばの束縛は、なにかの強制的な力への恐怖なしには、人々の野心、貪欲、怒り、およびその他の諸情念をおさえるには弱すぎるからである。そういう権力は、すべての人が平等で、自分自身の恐怖の正当性についての裁判官である、まったくの自然の状態においては、とうてい想定されえない。それで、したがってはじめに履行するものは、かれの生命と生存手段をまもる権利(かれはそれをけっして放棄しえない)に反して、自己をうらぎってその敵にひきわたすのである。/しかしながら、一つの権力が設定されて、さもなければ自分たちの誠実を放棄しようとする人々を拘束する、社会状態(civil estate)においては、その恐怖はもはや、もっともなものではない。そうしてそういう理由で、その信約によってはじめに履行することになっている人は、そうする[権利を放棄する]ように義務づけられるのである。」(226-227)
・【恐怖によって強要された信約は、有効である】「まったくの自然状態で、恐怖によってむすばれた信約は、義務的である。例えば、私が敵に対して、自分の生命とひきかえに、身代金または役務を支払うことを信約すれば、私はそれに拘束される。……またもし弱い王侯が恐怖によって、強い王侯と不利な講和をするならば、……かれはそれをまもるように拘束される。そして、コモン-ウェルスのなかにおいてさえ、……なにごとであれ私が義務づけなしに合法的に行ないうることならば、私はそれをすることを恐怖によって信約しても合法的なのであり、そして私が合法的に信約することを、私は合法的にやぶりえないのである。」(229-230)
・【市民社会における宣誓の空虚さ】「ことばの力は、人々をかれらの信約を履行するように拘束するには、よわすぎるので、それを強化するには、人間本性のなかに、二つの手段しか考えられない。そしてそれらは、かれらの約束を破棄することの帰結への恐怖か、あるいは、それを破棄する必要がないようにみえることの自慢や誇りかである。この後者は、あまりにまれにしかみられないので、あてにすることができないような、寛大さ(Generosity)であって、人類の最大部分である富や支配や肉体的快楽の追求者たちにおいては、とくにそうである。あてにされるべき情念は、恐怖であり、それについてはふたつのきわめて一般的な対象がある。ひとつは、みえない霊の力、もうひとつは、かれがそうすることによって立腹させるであろう人々の力である。これら二つのうちで、前者のほうが力は大きいのだが、後者への恐怖のほうが、ふつうは大きい恐怖である。前者への恐怖は、各人におけるかれ自身の宗教であり、それは市民社会の[時代の]まえの人間本性のなかに、その場所をもっている。後者はそういう場所をもたず、すくなくとも、人々にかれらの約束をまもらせるに十分な場所を持っていない。」(232)
第15章 その他の自然法について
・【正義と所有権はコモン-ウェルスとともにはじまる】「相互信頼による信約は、いずれかの側に不履行についてのおそれがあれば無効であるから、正義の起源は信約の成立ではあっても、そういうおそれの原因が除去されるまでは、そこには、実際には、なにも不正義はありえない。その除去は、人々が戦争という自然状態にあるあいだは、おこなわれえないのである。したがって、正と不正という名辞が場所をもつためには、そのまえに、ある強制権力が存在して、人々がかれらの信約の破棄によって期待するよりも大きな、なんらかの処罰の恐怖によって、彼らが自分たちの信約を履行するように、平等に強制しなければならず、かれらが放棄する普遍的権利のつぐないとして、人々が相互契約によって獲得する所有権(Propriety)を確保しなければならないのであり、そしてそういう権力は、コモン-ウェルスの設立のまえには、なにもないのである。……したがって、自分のものがないところ、すなわち所有権がないところでは、なにも不正義はなく、強制権力がなにも樹立されていないところ、すなわちコモン-ウェルスがないところでは、所有はない。すべての人がすべてのものに対して、権利をもつのだからである。」(236-237)
第16章 人格、本人、および人格化されたものについて
・【人格とはなにか】「人格(Person)とは、『かれの言葉または行為が、かれ自身のものとみなされるか、あるいはそれらの言葉または行為が帰せられる他人またはなにか他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制に代表するものとみなされる』人のことである。」(260)
・【自然的人格と人為的人格】:なにかを代表するものを人為的人格と呼ぶ。
・【人格という語はどこからきたか】「人格という語は、ラテン語である。そのかわりにギリシャ人は、プロソーポンという語をもっていて、それは顔をあらわし、ラテン語のペルソナ(Persona)が、舞台上でまねられる人間の仮装や外観をあらわし、ときには、もっと特殊的に、仮面や瞼甲のように、それの一部分で顔を仮装するものを、あらわすのとおなじである。そして、それは舞台から、劇場においてと同様に法廷においても、ことば(speech)と行為を代表するすべてのものに、転化した。それだから、人格とは、舞台でも日常の会話でも、役者(Actor)とおなじであって、扮する(Personate)とは、かれ自身や他の人を演じる(Act)こと、すなわち代表する(Represent)ことであり、そして他人を演じるものは、その人の人格をになうとか、かれの名において行為するとかいわれる。」(260-261)
・【行為者と本人】「人為的人格のうちあるものは、かれらの言葉と行為が、かれらが代表するものに帰属(Owned)する。そしてそのばあい、その人格は行為者[役者]であって、かれのことばと行為が帰属するものは、本人(Author)であり、こういうばあいに、行為者は、本人の権威(authority)によって行為するのである。」(261)
第二部 コモン-ウェルスについて(第二巻)
第17章 コモン-ウェルスの諸原因、発生、定義について
・人は「うまれつき、自由と、他人に対する支配とを愛する」。
・コモン-ウェルスの目的は「諸個人の安全保障」であるが、これは自然の諸法によって得られるものではない。「自然の諸法が、なにかの権力の威嚇なしに、それ自身だけで、守られるようになるということは、われわれのうまれつきの諸情念に反するからであって、それらの情念は、われわれを、えこひいき、自慢、復讐、および、その他の類似のものへと、導くのである。」(28)
・【コモン-ウェルスの生成】「かれら[人々]を外国人の侵入や相互の侵入から防衛し、それによって彼らの安全を保障してかれらが自己の勤労と土地の産物によって自己をやしない、満足して生活できるようにするという、このような能力のある共通の権力を樹立するための、ただひとつの道は、かれらすべての権力と強さとを、ひとりの人間に与え、または、多数意見によってすべての意志を一つの意志とすることができるような、人々の一つの合議体に与えることであ」る。「これは同意や和合以上のものであり、それは、同一人格による、かれらすべての真の統一であ」る。「これが、あの偉大なリヴァイアサン、むしろ(もっと敬虔にいえば)あの可死の神の、生成であり、われわれは不死の神のもとで、われわれの平和と防衛についてこの可死の神のおかげをこうむっているのである。」(32-33)
・【コモン-ウェルスの定義】「それは『一つの人格であって、かれの諸行為については、一大群衆がそのなかの各人の相互信約によって、かれらの各人すべてを、それらの行為の本人としたのであり、それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好都合だと考えるところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用するようにするためである。』」(34)
第18章 設立による主権者の諸権利について
・【コモン-ウェルスを設立する行為とは何か】「ひとつのコモン-ウェルスが、設立されたといわれるのは、人々の群衆の、各人と各人とが、つぎのように協定し信約するばあいである。すなわち、かれらすべての人格を表現(Present)する権利(いいかえればかれらの代表(Represent)となること)を、多数派が、どの人または人々の合議体に与えるとしても、それに反対して投票したものも賛成したものとおなじく、各人は、かれらのあいだで平和に生活し、他の人々に対して保護してもらうために、その人またはその人々の合議体のすべての行為や判断を、それらがちょうどかれ自身のものであるかのように、権威づける、ということである。」「このコモン-ウェルスの設立から、合議する人民の同意によって主権者能力を与えられた人または人々の、すべての権利と能力(Facultyes)がひきだされる。」(36)
(1)「臣民たちは統治形態を変更しえない。」
(2)「主権者権力は剥奪されえない。」
(3)「多数派によって宣告された主権設立に対して、抗議することは、だれも不正義なしにはできない。」
(4)「主権者の諸行為が臣民によって、正当に非難されることはありえない。」
(5)「主権者がすることは何でも、臣民によって処罰されえない。」
(6)「主権者は、かれの臣民たちの平和と防衛に必要なことがらに関する、判定者である。」
(7)「主権者は、所有権などの諸規則を作る権利をもつ。」
などなど。
→「これらの諸権利は、分割されえない。」
→「臣民たちの権力と名誉は、主権者権力のまえでは消失する。」
→「主権者権力は、それの欠如ほど有害ではなく、害はほとんどすべて、少数者にこころよく服従しないことから生じる。」
第19章 設立によるコモン-ウェルスのいくつかの種類について……
・【コモン-ウェルスの三つの形態】「代表がひとりの人である場合には、このコモン-ウェルスは君主政治であり、それがそこに集まってくる意志をもつすべてのものの合議体である場合には、それは民主政治すなわち民衆的コモン-ウェルスであり、それが一部分だけの合議体である場合には、それは貴族政治と呼ばれる。この他の種類のコモン-ウェルスというものは、ありえない。」(52)
・「権力を制限されている王は、それを制限する権力を有する人または人々に、優越しないし、そして、優越しないものは至高ではなく、いいかえれば主権者ではない。」(61)
・「継承の処置が、現在の主権者の手中にない場合には、完全な統治形態はない。」(63)