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瀬田宏治郎

東大大学院 人文社会系研究科修士課程 合格体験記


1999.3.17


 

1.はじめに
 私は1999年1〜2月に行なわれた入学試験に合格し、東大人文社会系研究科および阪大人間科学研究科の修士課程への入学許可を得た。まだ研究者への道の出発点に立ったにすぎないが、同じように大学院を受験しようとする後輩の一助になればと思い、以下の文章を記すことにする。これはあくまで一つのケースであって、同じようにやれば合格できるとは限らない。とはいえ、行間には良い点悪い点が見え隠れするだろうから、それを読み取れば何かの参考にはなるであろう。
 なお、これは「合格体験記」であるから、試験の内容について詳しく述べることを主眼としていない。だから、大学院受験のための具体的な情報は、個別に私に問い合わせて欲しい。また、一部で情感たっぷりに書かれすぎて辟易する個所もあるかもしれないが、そういうところは飛ばして読んで欲しい。これは私がこの三年を振り返って再構成した「自己物語」なのだから。

 

2.三年生の頃
 私が大学院受験を明確に意識しはじめたのは3年生になってからだった。それまでもおぼろげには考えていたのだけれども、具体的な対策は何もしていなかった。しかし、年齢のこともあったので、三年生に上がる時点で就職か進学かを決めなければならないと思っていた。そして、否が応でも決断を迫られる事態が訪れた。

 

2.1.ドイツ語購読
 それは3年生の4月のことだった。不本意ながら経済学部に進学した私は、経済学部の授業の中に、社会学的な要素を持つものがないか捜していた。すると外国語購読の欄に目がとまった。この授業では、どうやら後期はジンメル『貨幣の哲学』をドイツ語で読むようである。前期に取り上げる本の著者は知らないが、『資本主義の倫理』という題名なので、思想的な内容のようである。ただ、この授業の担当者として上部に記してあった「橋本(努)」という先生は知らない。どんな人なのだろう。非常勤なのだろうか。授業の便覧をよく見ると、参考文献に記してある『社会学がわかる』という本に文章を書いているようである。さっそく生協へ行って確認することにした。すると、まだ28歳か29歳なのに著書も訳書もある!!! 早くも講師となって北大に赴任してくるらしい。これはむちゃくちゃ頭が良くて気合いが入った人ではないのか?
 この授業を取るか否かは大きな転機だった。この選択が進学するという選択とそのまま直結していると当時考えていたし、今でもその考えは間違っていなかったと思っている。社会学的・思想的なことを勉強したいと思って大学に入学し直したけれども、やはり教養時代は遊んでしまい、もっとも不本意な経済学部に進学することになってしまった。初志貫徹を目指すならば、よほど気合いを入れて勉強し大学院で専攻を変えるしかない。だが、なまけぐせの染みついた自分が一人で勉強できるはずがない。それを一挙に逆転するための最後の手段として、この授業は機能しそうに思えた。だが、それは劇薬すぎるようにも思えた。なぜなら、(1) マルクス主義全盛の時代ならいざ知らず、いまどきドイツ語購読の授業をとる人なんていそうもないし、(2) もっと経済学的?な内容ならまだしも、『資本主義の倫理』や『貨幣の哲学』なんて思想的な内容に興味を示す人など、経済学部にはいそうもない。少なくとも、自分の見聞した限りではそうだ。(3) そして極めつけは、先生の引越しの関係で、受講手続き締め切り後に第一回目の授業が行なわれることである。つまり、下見ができないのだ。新任の先生だから、授業だけでなく先生の下見もできないのである。裏にも他の授業があることだし、よほどこの授業内容に関心がある人でなければ受講はしないであろう。
 おそらく、受講者は自分一人であろう。それも相手は恐ろしく気合いが入っていると予想される先生である。そうなると、どのような授業が展開するかは自ずと想像がつく。それまでぬるま湯に浸りきっていた自分に耐えられるだろうか。ドイツ語が達者ならばまだやりやすいかもしれないが、あいにく教養時代サボりまくったために、ドイツ語の単位は全部「可」で、基礎文法も身についていない。2年生の最後になって、やっとドイツ語が面白くなり勉強を続けたくなったが、すでに後の祭りであった。そういった意味でも無理がある選択である。
 こうしてさんざん迷ったが、自分の心根を鍛え直すにはこれしかないと思い、清水の舞台から飛び降りる思いで、受講することにした。そして、これが今に至る最大の分岐点であった。
 実際、授業を受講したのは自分一人だった。どんな先生が来るのか不安になったが、登場した相手は話しやすい人で安心した。私が自分の状況を話すと、大学院への勉強のやり方をいろいろと教えてくれた。ここから大学院へ向けた基礎トレーニングが始まった。
 この時点での、私の学力および知識量を示しておこう。社会学の知識は橋爪大三郎先生の啓蒙書を見て少し得ていた程度で、専門書を読んだことはなかった。例えばウェーバーの名前は知っていても、彼が何をやった人か、どんな著作があるのかはよくわからなかった。思想に関しても、竹田青嗣さんが書いた入門書をちらちら見た程度で、人物の名前ぐらいは知っていても、その思想内容はよくわからなかった。だからゴシップ程度の話はできても、専門的な議論は全くできなかった。その意味で、人文・社会科学の専門的な勉強はこの時点から始まったといえる。
 また、英語に関してもたいした実力はなかった。昔から他の科目は得意だったのだが、英語だけは苦手科目であった。北大に入るときのセンター試験でも126点だから、平均的な北大生よりも低いだろう。偏差値にしても50代半ばぐらい。文章読解はそこそこできたのだが、他が苦手だったので苦労した。実際、一年生のときには英語の単位を落としている。ただ、1,2年生のときに家庭教師で英語を教えたおかげで、自分の中で英文法の再構成ができて、多少は理解が進んだ。
 では、ドイツ語購読の様子について続けよう。受講者は私に加えて、大学院生の方三人が加わることになった。だがあくまで授業の主役は私なのだから、欠席・遅刻は許されない。授業は1コマ目に行なわれたので朝に弱い私は非常につらかったのだが、休むわけにはいかないから何とか出席を続けた。ドイツ語の実力は低かったから読解には苦労したが、力わざででも文法構造を把握しようとした。これを一年続けてみて、文法力や単語力に関してはあまり向上しなかったと思うが、難解な文章の構造をつかむカンのようなものは多少はついたように思う。

 

2.2. RCST(Reading Circle for Social Theory)
 社会学を始めるにあたって、『【縮刷版】社会学事典』(弘文堂)を買うことにした。今でこそ専門書を何万円も買うようになったけれども、当時は4800円もする本を買うのにはかなりの勇気が必要だった。おおげさに言えば、これを買うことを研究者への道を目指す通過儀礼にするぐらいの気持ちで決意した。自分の中では、ドイツ語購読と並んでこの出来事が、今に至る過程の大きな出発点である。
 さて、大学院へ向けた勉強として読書会を始めることになった(後に、RCSTと命名)。『社会学がわかる』の中で橋爪先生が読書会の大切さについていたので、必要性については感じていたが、どのようにやって良いかわからなかったし、主催者になる自信もなかった。だが、橋本先生が主催者として名前をだしてくださることになり、少しはやる気が出てきた。自分は読書会を主催するような人間だとは思っていなかったので、ビラに名前を出すのはとても恥ずかしかったのだが、何とか勇気を出して貼り出すことにした。ビラを貼るからには読書会で読む本をある程度決めておかなければならない。人文科学・社会科学の古典を読むことにしていたのだが、そもそもどのような本が古典なのかを知らない。社会学に関する知識を得るためには、『社会学がわかる』がとても役に立った。この本を読むことで社会学業界の動向を知ったと言ってもよい。次に役立ったのが、『社会学の基礎』(有斐閣)という本である。これは図書館で偶然見つけた。もちろん内容面でも役に立ったのだが、本の選定で使ったのは巻末の人名索引だった。「基礎」という本に載っているような人なのだから、重要人物に違いない。さしあたりその人たちの本を読むことにした。そこで役に立ったのが、図書館にあった新刊図書目録である。できるだけ参加しやすい読書会にしたかったから、安くて薄めの本を選びたい。そこで、値段とページ数が載っているこの目録は役に立つ。今ではインターネットで検索できるが、当時は使い方がわからなかったので、本で探した。とはいえ本で探すのにも利点がある。例えば、Max Weber の本は、ウェーバーの名で出版されている場合と、ヴェーバーの名で出版されている場合がある。こういうことは、一覧性のある本でなければわからない。インターネットの検索では、検索した言葉でしか出てこないのだから。
 このようにして、読みたい本のリストを作成した。作業をする中で、重要な学者の著作がどの程度翻訳されているかが把握できた。だが参加者が集まらなければ読書会は始められない。実際この種の読書会に参加しようとする人は少ないようで、私のところに電話をかけてきたのは一人(Yくん)だけだった。とりあえず橋本先生を含めた三人で読書会をスタートさせることにした。最初の本は、Yくんと相談した結果、T.クーンの『本質的緊張』にすることになった。元科学少年だった私にとって、科学史の本は理解しやすいと思ったからである。読書会用のレジュメの作り方などわからなかったが、橋本先生にやり方を教わり、何とか頑張ってみた。わずか30ページほどの論文なのに、何度も何度も読みかえし、要点を書き出そうとした。記念すべき第一回の読書会レジュメである。結局Yくんは参加を辞退することになったので、この回の読書会は中止になったのだけれども、先生がレジュメを誉めてくださったので、少しは自信になった。
 二回目は、S.ウォリンの『政治学批判』を読んだ。この時には哲学専攻博士課程の柏葉さんが参加してくれた。何とかレジュメは作成したが、内容の理解度は30%ぐらいだっただろう。議論の内容にもついていけず。
 三回目は、マキアヴェリの『君主論』を読んだ。この時には、政治学専攻博士課程の高杉さんなどが出席してくれた。この本の文章は平易なので、レジュメの作成もそれなりにできたつもりだったし、内容把握もできたつもりだった。今回は議論について行けるだろうと思った。だが、議論が始まると、橋本先生が出した「ヴィルトゥ」という言葉をめぐって議論が始まり、またも理解不能な領域に話は進んでいった。そんな言葉は本の中に出てきただろうか。よくわからないが、議論は出席者の間で進んでいった。
 四回目のP.ウィンチ『社会科学の理念』、五回目のM.ウォルツァー『解釈としての社会批判』はよくわからないままに参加していた。六回目のE.デュルケーム『宗教生活の原初形態』になるとなんとなくわかりかけてきたような気がした。八回目(七回目は欠席)のF.エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』では少し緊張感が抜けてきて三十分も遅刻したので、参加者の皆さんに迷惑をかけた。この時もいろいろと意見を述べたが上滑り。まだまだ実力不足であった。そして九回目のA.ライアン『所有』、十回目のS.フロイト『自我論集』、十一回目のN.ルーマン『自己言及性について』を経て、十二回目のF.ニーチェ『悲劇の誕生』(11/12開催)まで来て、やっと内容についていっているような気がしてきた。読書会に関してある程度の自信が出てきたのはこれ以降のことである。

 

2.3.経済思想史
 さて、この年の10月から、橋本先生の講義およびゼミが始まった。講義はとても刺激的だった。何よりも週に二回ある授業で一冊ずつ本を取り上げるので、毎回読んでいくことをノルマとして自分に課した。完遂はできなかったが、それなりの勉強にはなったであろう。また、これらの本をすべて古本で手に入れようとしたので、札幌市内の古本屋を隈なく歩くことになり、その結果古本屋まわりが趣味となった。
 古本屋まわりをすることにより、いろいろな意味でお金が節約されるだけでなく、本のタイトルにも目が慣れる。何軒もまわれば、各分野の本のイメージができてくる。一方でブックガイドなどを使って重要な本を頭に入れながら、他方で古本屋まわりをすることで、価格のイメージが出てくる。お買い得な本があっても、本に関する知識がなければ見逃してしまう。その悔しさをばねにすることで、重要な本を見極めるための知識を集める意欲も出てくるし、ゲーム感覚でも楽しめる。
 こうして、専門書に関する知識が蓄積されていった。

 

2.4.ゼミなど
 次は、橋本先生のゼミについてである。このゼミの出席者は私を除いてみな二年生なので、上級生としての能力が問われることになった。これは厳しかったが、やりやすい面もあった。自分より上級生がいるとあまり生意気なことも言えないので、発言をセーブする時もある。だが、私一人だけ上級生だったので、言いたいことが言えた。もちろん、自分が一番的確な発言をしなければならない、というプレッシャーはあったが、それは緊張感につながり、プラスに作用したと思う。ゼミではかなりの読書量が要求されたので、ともすれば怠けがちになりそうだったところを、そのプレッシャーが押しとどめてくれた。よいペースメーカーとして働いた。
 私が正式に所属していたのは、岡部先生のゼミである。こちらでは、毎回十数ページ単位の少ない分量で読書が進められた。荒い読み方になりがちな私はここで、細かい読みの重要さを学んだ。
 そして、三年生の冬頃になって、教育学部の大学院生・研究生と共に、R.N.ベラーの『心の習慣』を読む会を始めた。RCSTでは自分よりずっと上の人たちと、橋本ゼミでは下の学年の人たちと議論していたので、同年代の人を相手に議論できる場は貴重だった。この読書会はその年度末まで続いた。
 ここまではある程度順調だったといえよう。最初の頃と違って本の読み方もわかってきたし、専門的な知識もついてきた。読書会を運営する自信もある程度ついてきた。だが大きな問題があった。それは研究内容である。おおざっぱな関心領域は最初からあったのだが、基礎的な勉強を進めていけばいくほど関心は拡がっていき、具体的な研究テーマを絞り込めなくなった。さらにレポートを書くのが苦手だという問題点もあった。そのために、後々まで苦労は続くことになる。
 順調に進んできたかにみえた途上で最初に壁を感じたのは、橋本先生が開講していた「経済思想史」の期末レポートが出せなかった時である。これまでずっと橋本先生の指導をいただいていた手前、中途半端なものは出せない。一番良いものを出さなければならないと思った。だがその高いプライドの反面、能力が追いつかなかった。それまでにある程度のレポートを書いた経験があったならば執筆ペースもわかっただろうが、締め切りぎりぎりにならなければ始めない癖もあいまって、結局形にならなかった。この一件で私は自信を無くした。4年生から橋本ゼミに移ろうと思っていたのだが、橋本先生の正式な弟子となる自信を無くしたので、何もしなかった(これには、ゼミ替えが可能であるか否かが、事務手続きとして明示されていなかったという事情も加わる)。

 

2.5. 言語研究会
 ここまでさまざまな勉強会に出席してきたが、まだ北大内にとどまっていた。私が最初に出席した外部の勉強会は、東大を中心にした若手研究者の集まりである言語研究会である。この研究会の存在は橋爪先生の著作を通じて知っていたのだけれども、私などが近寄れるような場だとは思っていなかった。だが橋本先生に紹介して頂いたことで少しは勇気が出て、東京で行なわれた春合宿に参加することにした。当日出席していた人の数が少なかったということもあり、思ったよりは緊張しなかったが、それでも著作でしか知らなかった橋爪先生が目の前で話すのを見てどきどきした。さすがに熱のこもった議論が続けられ、終了したのは午前二時ごろだった。その後は簡単な飲み会がおこなわれ、みなさんと話すことができた。そのおかげで、対話する勇気が少し出てきたように思う。出席しているのはすごい人たちなのだろうが、それでも同じ人間であって、必要以上に萎縮しなくてもよいことがわかった。雲の上の存在でもないのである。ちょうど鹿児島大学の桜井先生が出席していて知り合いになれたので、先生の主催するメーリングリストに参加することになった。これ以降は電子メールを頻繁に使用するようになり、遠くの人とも積極的に対話するようになった。
 特によく対話した相手は、当時山梨大学工学部博士過程に在籍していた名取くんである。彼とは現在に至るまで、アカデミックベースではない哲学的対話を続けており、その中で有益なアイディアも生まれてきている。

 

 

3.四年生の頃
 堅実に授業に出ている人なら三年生までのうちに卒業単位を取っていると思うが、私はほとんど出席しなかったので、この時点で38単位残っていた。つまり、2年生後半から卒業までに必要とされる単位のうち、半分を残していた。そのため、大学院の準備に専念できなかった。といっても、結局4年生になっても授業にはほとんど出席しなかったのだけども、暗黙のプレシャーを精神面に及ぼしていた。それでも単位が取れたのは、多少なりとも試験勉強をするようになったからだろう。
 また、所属していた登山サークルでは部長になっていたから、時間の兼ね合いも考えなければならなかった。入会した時にはあまり一生懸命にやるつもりはなかったのだが、けっきょく同期の中でエースになってしまったので、かなりの時間を費やしていた。それでも今振り返ってみれば、3年生以降は適切に時間配分ができたと思う。

 

3.1. 翻訳勉強会
 3月末から、橋本先生の下で他の4年生二人と共に、週一回程度のペースで英語翻訳の勉強を行なうことになった。つい先日出版された『時間と無知の経済学』の下訳を私たちが作り、先生がその欠点を指摘する、というやり方である。大学受験用の文章ぐらいなら内容理解ができるつもりだったのだが、今回は本物の専門書であり、経済学の知識に乏しい点もあいまって、訳出にはとても苦労した。その悪文を目の前にしても、先生は文法的な間違いや内容解釈の間違いを適切に指摘して下さり、根気よく付き合って下さった。
 専門的な文章を訳す場合、素朴に移し替えるだけでは駄目である。原義を損なわず日本語にするテクニック、学術書特有の訳し方をこの場で学んだ。この時の勉強が、大学院の外国語試験対策に大きく役立ったと思う。なぜなら、採点する側の研究者好みの訳出方法を身につけることができたからである。ここで学んだ表現を端々に示すことで、採点者に専門性をアピールできたであろう。一緒に参加していた4年生が途中から離脱していったのだが、5月末まで勉強会は続いた。
 また、この時期は大学院「経済学方法論」の演習に参加させてもらった。私がこの授業に取り組む気持ちが不十分だったので、参加状況は中途半端なものになってしまったのだけれども、専門的な英文に慣れるためには役立った。

 

3.2. ルーマン研究会、本遊
 4月から5月にかけて、法学部政治学専攻博士課程の田中さんなど、法学部の院生三人と、経済学部経営学専攻博士課程の山田さんと共に、N.ルーマンの読書会を行なうことになった。分量は一回一冊で、4冊読んだ。ルーマンの文章は極度に難解であり、ルーマンを専門的に読んだ人が参加者の中にいないという事情もあいまって、この時の理解度は30%ぐらいにとどまった(少なくとも、私はそうであった)。前年に『自己言及性について』を読んだ時よりはだいぶましだが、まだ不明瞭だった。でもルーマン理解のための第一歩にはなったであろう。闇雲に思えたこの時の格闘が基礎訓練になり、今の理解につながっている。そして、法学部の院生と知り合いになれたこともプラスであった。
 さらに、4月からは、書評紙『本遊』の編集作業が本格的になった。これは橋本先生の提案によるもので、計画は前年の秋口からあったのだが、出版したのは5月になった。実際の編集や配布作業を行なったのは、前述の山田さんと私である。結局、新しく編集に加わる者が見つからなかったので第三号で終ってしまったのだが、ある程度の経験知は得られたと思う。

 

3.3. テーラー研究会
 6月,7月頃も研究テーマを絞り込むために苦悩していた。この頃は権力論関係の本や論文を読み比べていた。そこで後述の盛山先生の論文を読むことにもなったし、桜井先生へ質問メールを書くことにもなった。結局うまくいかなかったのだけれども、一つの関心領域を持てたという意味ではずいぶん役に立ったと思う。また、この時期以降、とても読み切れないほど雑誌論文をコピーしまくったので、必要な文献を見つけるための感覚はついたようである。
 さて、次に北大以外の人と接するきっかけになったのが、8月に札幌市内で行なわれたC.テーラー研究会だった。この研究会は橋本先生が主催しているもので、東大相関社会科学の院生たちが主な構成員だった。いつもは東京で行なわれているのだが、この時は夏合宿ということで、札幌に移動していたのである。
 研究会は二日間にわたって開催された。この当時は、政治哲学に疎く、理解度は30%ぐらいだったと思うのだけれども、自分の知らなかった新しい世界の目を開かれる思いで(まさに啓蒙された思いで)、議論を聞いていた。この場に参加することにより、東京の研究会の雰囲気を味わうことができて、とても有意義だった。また同時に、議論のレベルは高いのだけれども、自分にとって全く手が届かないものでもないことがわかり、やる気を起こさせてくれるものとなった。

 

3.4. 盛山先生との出会い
 前述の桜井先生が主催するメーリングリストに4月から加入したおかげで、社会学を中心にしたさまざまな人の議論を電子メールで目の当たりにすることができた。これにより、学者業界の雰囲気を多少は味わうことができた。そして、東京の様子も知ることができた。 
 さて、東大文学部の盛山先生の研究内容を知ったのは、前述のように権力論の論文を読む過程でであった。その時期にちょうどタイミング良く、北大文学部社会学教室助手の杉野さんから、盛山先生が札幌に来るという情報を得た。9月の初めに北星学園大学で集中講義をするとのことだった。杉野さんと面識を持てたのも、橋本先生のおかげである。二人が飲む機会に私も同席させていただいたので、いろいろと話が聞けた。杉野さんが盛山ゼミ出身だということも幸いし、進路の相談にものって頂けた。
 以前の私なら、一度も行ったことがない大学の講義にもぐり、面識のない先生に会いに行くなどということは到底できなかっただろう。でも、先生の論文を読んでいたこと、杉野さんから先生の人柄について聞いていたこと、モグリに行くことを杉野さん経由で先生の方に伝えていただいていたこと、そして北星学園大学出身の大学院生に内部の様子を聞いていたことによって、多少は図太くなり足を伸ばす気になった。
 講義は2,3年生向きのもので「社会計画論」と題されたものだった。内容の8割は知っていることだったが、少しでも自分を印象づけようと皆勤した。北大で皆勤した講義は橋本先生のものだけだったにも関わらずである。初日の休み時間に教壇に行き、自分の身分やメールアドレスや興味関心を記した紙を渡しながら、簡単な自己紹介をした。そして、先生のメールアドレスを教えて頂いた。ただ、それ以降はうまい口実が見当たらないので、会話をしに行けなかった。これは、自分の研究計画がまとまっていなかったという弱みからくるものでもあった。
 ところが、講義3日目のことである。この日は北大教育学部院生の片桐さんももぐることになった。さて、昼休みになり食堂へいくと、北星学園大学の先生二人と共に盛山先生が食事をしているのが見えた。それでも口実が見当たらない私は躊躇していたのだが、ちょうど片桐さんが北星学園大学の先生と知り合いだったので、テーブルに押しかけて一緒に食事をすることができた。結局たいした話はできなかったのだが、片桐さんが引っ張っていってくれたおかげでさらに面識を深めることができた。これが現在の身分につながるのである。

 

3.5. 大学院受験準備
 なんとか前期は26単位を拾えた。これで残り12単位である。でも後期であるからプレッシャーはさらにきつくなる。結局、どの授業にも一度も出席しなかったのだが、言いようのない精神的負担はのしかかった。さらに卒業前に論文をまとめなければならなかったのだが、全く手がついていなかった。同時に受験準備もしなければならない。すでに春には東大院生の小林さんに効率的な受験マニュアルを頂いていたのであるが、直前にならないと何も始めない性格なので、全く実行していなかった。それでも前期は言語文化部のドイツ語購読をとることで感覚だけは維持していたが、文法書の勉強も単語の記憶も全くしなかった。その時の訳も正確な文法知識に基づいて行なったのではなく、内容理解から類推した力わざ的なものであった。だから、辞書があれば何とか内容把握はできるのだけれども、素手で試験に臨めば勝ち目はない。それがわかっていながら、なかなか勉強を始められなかった。
 だいたい社会学大学院の試験時期は、秋と冬に分かれている。主要なところでは、早稲田大、一橋大、都立大、東工大は秋で、旧帝大系は冬である(ただし最近は、北大、東北大、阪大は秋冬二回行なっている。名大と九大についてはネット上に載っていないのでわからない)。普通は秋受験でどこかに合格しておいて冬受験に臨むのだろうが、研究計画がまとまらなかったので秋受験からは逃げてしまった。だが、冬に開催する大学の多くは受験にあたって卒業論文ないし卒業論文相当のものを要求する。ちょっと見回したところ、論文なしで受けられるのは、東大文学部の社会学ぐらいしか見当たらなかった(相関社会科学の方は論文必修である)。また本来ならいくつか併願してリスク分散を図るべきなのだが、単位、卒論、そして受験勉強の圧迫がのしかかり、最小限のことしかできなかった。だから、東大文学部の大学院一本に絞ることにした。
 この時期に東大文学部の受験情報を仕入れる上でお世話になったのが、東大院生の川口さんである。最初はあまり考えないで盛山先生へ問い合わせのメールを送ったら、立場上答えられないとのことで(よく考えれば当たり前のことである)、ゼミ生の川口さんを紹介していただけた。そのおかげで、細かい情報を知ることができた。
 さて、東大文学部社会学は論文こそ要求しないが、研究計画書の提出は義務づけられている。また東大は願書提出の時期が早いから、11月中旬までにはまとめなければならない。それでもまったく不十分なものしかできなかったのだが、これ以上逃げることはもうできないから、覚悟を決めて出してみた。さすがに願書を提出してしまうと、受験直前という実感がわいてくる。実際、ちょうど二ヶ月前となっていた。それまで煮えきらずにうだうだしていたのだけれども、やっと踏ん切りがついて勉強を始めることにした。
 大学院受験の第一関門は外国語だそうである。特に東大文学部は二カ国語を要求するから、専門ができる人でも、ここで引っかかり落ちるという。実際の問題はかなり簡単な方なのだが、どちらかの言語の足切りにひっかかる人がかなりいるという。専門試験にも不安は大有りだったけれど、まずは足固めとして外国語の勉強に重点をおくことにした。一日の時間配分は、英語に2−3時間ぐらい、ドイツ語に4時間ぐらい、残りを専門の時間とした。
 英語は、高橋善昭の『英文読解講座』および『英文和訳講座』(共に研究社出版)、それから、後述する社会理論研究会で発表するために、分析哲学の英文60ページほどのレジュメを作成した。そして手が空くと英単語のビデオテープを見た。
 ドイツ語は、大岩信太郎の『よくわかるドイツ文法』(朝日出版)で文法を勉強し、同時にこの本のテープを聞くことで、ドイツ語の感覚をつけるようにした。また、単語は『ドイツ語単語トレーニングペーパー』(教育社)を繰り返しやることで覚えるようにした(ただし、今読みかえすとかなり難点がある本なので、あまりおすすめしない)。そこに出ていないものは、石川光庸『ドイツ重要単語2200』(白水社。語源的情報が豊富である)でフォローした。読解に関しては途中までしかできなかったが、『トレーニングペーパードイツ語教養課程読解編』(これも教育社。同様に、あまりおすすめできない)をやった。
 専門の勉強は、社会学原論対策として、長田攻一『公務員試験合格対策シリーズ 社会学の要点整理』(実務教育出版)、社会学史対策として、『社会学のあゆみ』(有斐閣新書)のパートIとII、社会調査法対策として、盛山和夫他『社会調査法』(放送大学教育振興会)を使った。もちろんただ読むだけでは頭に入らないから、各章ごとに要約レジュメを作っていった。
 一日の生活リズムはだいたい、10時ごろ起床、朝食をとりドイツ語の勉強を行なう。15時ごろに学校の図書館に行く。移動中はドイツ語のテープを聞く。学校に着いたら、英語をやり、専門のうち一科目をやる。19時前にクラーク会館の食堂に行き食事をとる。家で料理すると時間がかかるので、極力ここで野菜を取るようにする。食事を取ってすぐは頭が回らなくなるので、休憩を兼ねて経済学部の情報処理室に行き友人からのメールを確認。その後、食事前に読んだ専門科目のレジュメをそこのワープロで作成。その後、図書館へ行けるかどうかは、その日のレジュメの分量による。図書館も情報処理室も22時前には閉まるので、帰宅の途につく。部屋についたら夕食を取り、シャワーを浴びる。その後は英語をやり、2時過ぎに就寝。頭の活動をよくするために、毎日7−8時間は
寝るようにした。
 試験まではずっとこの繰り返し。それぞれの科目で一日のノルマを決めてこなしていった。多少乱れた日を計算に入れても、勉強時間は平均10時間強といったところか。このリズムを保つために、他の活動への参加は極力避けた。だから、月曜日15―18時に行なわれる岡部ゼミ(これは所属ゼミだから仕方がない)、金曜日18時以降に行なわれる社会理論研究会(後述)以外は、自分の勉強に集中した。もちろん(?)講義には出席していない。週に2日はリズムが狂うわけだが、ゼミに出席している間を専門試験の勉強時間と考え、英語とドイツ語のノルマは確実にこなすようにした。11月まで怠けていたわけだから、勉強体制に入った最初の数日は不安定だったが、一週間も経つと心も体も慣れて、たいした苦痛も感じなくなった。これは、このリズムに入って以来、大好きなお酒を断っていたためでもあるのだろう。テレビもほとんど見ないようにした。

 

3.6. 社会理論研究会
 RCSTも二年目に入ると、初期の主要メンバー(柏葉さんや高杉さんや田中さんなど)が忙しくなって、なかなか出席しないようになり、開催してもほとんど人が集まらないようになった。そのため、最初は月二回行なわれていたのを一回にしたり、宣伝活動を活発にした。扱う本によってはたくさん集まる時もあったのだが、10月を過ぎて私も大学院の準備をしなければならなくなったのを機会に、休止することになった。
 その後、橋本ゼミの一環として、社会理論研究会が始まった。これは毎週金曜日のゼミ終了後に開催され、大学院志望のゼミ生と、大学院生の山田さんや島さんなどが出席した。私にとっては、試験勉強では捉えきれない総体的な知識を得る場として役立った。

 

3.7. 試験直前
 試験前の二ヶ月間、これまでなかったほど集中して勉強したおかげで、試験用の基礎力はだいぶついた。だがそれに終始せざるをえない状況のために、本格的な試験対策としての解答練習はできなかった。いくら知識があっても時間内にそれを表現できなければ意味がないわけだから、解答練習は必須である。これは小林さんに頂いた受験マニュアルの中で強調されていたことなのだが、その段階に入るだけの知識も怪しかったので、詰め込みに終始した。だから、過去問の解答はほとんどやっていない。
 また、4000字程度が目安という論文試験で書かなければならない研究計画をまとめる作業へも、全く時間を割かなかった。外国語試験や専門試験の勉強に手いっぱいだったために、こちらは少し気を抜いていた。これらが、この年の試験に落ちた主要因といえるだろう。

 

3.8. 試験本番
 試験が行なわれたのは、1月24日と26日である。24日に外国語二科目と専門三科目があり、26日に論文試験があった。私は24日の対策で手いっぱいだったから、26日の文案は、24日の晩と25日に考えようと思っていた。それが浅はかだったのである。
 24日の午前中は2時間の外国語試験である。双方ともに短い文章の訳なので、たいていの人は時間を余すそうなのだが、私は自信を持てる訳が作れなかったので、時間いっぱい考えた。
 午後は2時間30分の専門科目である。社会学史はそれなりに書けたと思うのだが、社会学原論に関しては少し物足りなかったと思う。そしてもっとも苦手意識を持っていた社会調査法は、不適切な答えを書いてしまったようである。終ってみた手応えとしては、あまり良いものではなかったが、とりあえず試験の90%は終えたと考え、脱力状態になっていた。
 その日の晩は、山梨の実家まで帰った。26日の試験のことを考えるのならば、八王子の兄の部屋にとどまって対策を行なうべきだった。だが、一年以上帰省していなかったという事情もあり、山梨へ行ってしまった。その車中でも考えればよいのだが、気が抜けたままだった。24日の晩はそのまま寝て、25日の朝が来た。この日はさすがに文章を書き始めたが、確固たるアイディアがあるわけではないから、ひどくできの悪いものになった。それから私は橋本先生の自宅へファックスを送り、検討してもらうことにした。今、考えるとひどいわがままだったと思うのだが、それでも先生は丁寧に答えて下さった。
 そして26日になった。ここでも私は解答練習不足を思い知らされることになるのである。文案の流れを覚えて、見ながら書き移す練習はしたが、空で書くことまではしなかった。ところが、実際の試験になると、自分の記憶のあやふやさがよくわかったし、筆の遅さも実感させられた。そのため、2500字ぐらいしか書けず、内容は尻切れとんぼのままで終った。これが最大の敗因であろう。

 

3.9. それから
 その日の飛行機で札幌に帰った。入試は終ったが、まだ気は抜けない。卒業単位が残っているし、論文も手付かずのままだからである。後期試験まで10日ほどしかない。それまでのようなリズムで勉強すれば余裕があっただろうが、一度崩れるとうまくいかない。入試の結果が気になって中途半端な気分になっていたこともあり、過去問を集めながらも、だらだらとしていた。
 結果発表は誕生日の2月5日であった。予想に違わず落ちていた。こうなると、その後の身の振り方を考えなければならない。まだ大学院をあきらめるつもりはなかったから、そこにつながる身分を探すことにした。その晩は橋本先生がとても親身に相談にのって下され、勇気づけられた。一番良いのはまだ間に合う大学院に入ることだが、調べてみた限りでは見つからなかった。そうすると、
(1) このまま卒業して身分なしになり、受験準備をする。
(2) 留年して北大にとどまり、身分を確保しながら受験準備をする。
(3) どこかの大学の研究生になり、さしあたりの身分を確保しながら受験準備をする。
の三つが考えられる。(1)には札幌に残るパターンと東京に出るパターンがある。どちらにしても授業料はかからないが、図書館は使えないし履歴上も不利になる。(2)はそれまでの研究環境を維持できるという長所はあるが、新しい刺激にはならない。また、授業料もかかる。(3)の場合、その大学の研究生になれるかどうかという問題はあるが、留年するよりは授業料が安いし、新しい環境を得られるかもしれない。
 それから、インターネットを使っていろいろと調べることにした。まだ卒業単位も取れていないのだから、選択の余地なく北大に残る羽目になるかもしれなかったが、とにかく模索してみた。北大経済学部には学部研究生の制度がない。文学部へ行って杉野さんや樽本先生に相談してみたが、受け入れは難しいという。他の大学の研究生は募集期間が終っている。東大の相関社会科学も1月末で終っていた。盛山先生にもメールで問い合わせてみたが、東大外部から研究生はとらない、との返答があった。
 この時点では、(2)の選択肢に傾いていた。試験期間と時期が重なっていたこともあり、留年するか否か(試験を受けるか否か)の判断が迫られていたという理由がある。中途半端な気分で、試験勉強には身が入らなかった。受けずに逃げたかった。だが、田中さんに相談したら、どんな身分でもよいから東京に出た方が良い、と強硬に主張された。リスクは高いが、とにかく環境を変えて刺激を受けた方が良い、とのことである。
 それでも考えあぐねながらも調べを進めていくと、東工大で研究生になれるかもしれないことがわかった。ただ、なるためには向こうの教授の承認がいる。橋爪先生に連絡をとったら、会っていただけることになった。そこでは何か自分をアピールしなければならない。論文を書いていれば見せることができる。TOEFLやTOEICのスコアでも持っていれば能力を証明できる。だが、私には何もなかった。それでもこれまでの努力の跡だけでも示せたらと思い、3−4年生の間に作成したレジュメを全部コピーして、6000字ぐらいで自己紹介と経歴を書いた紙を添付し、郵送した。
 ところが幸運なことに、その翌日に盛山先生から緊急のメールが届いた。電話で問い合わせてみると、2年前から制度が変わって、外部の学生でもその年に大学院を受験した者ならば研究生になれるようになっていたことがわかったそうである。志望していた大学で研究生になれるならば、それが一番である。やはり、大学院を受験する時にはつきたい先生に事前に連絡を取っておいた方がよい。面識を持っていたからといって選考過程で有利になるわけではないが、その後が違ってくる。面識がなくて、研究生の問い合わせのメールも送っていなければ、この時も連絡は来なかったであろう。こちらの連絡先もわからないし、研究生になりたいという希望も伝わらないからである。その後、橋爪先生には電話で事情を話し謝ったが、それでも会ってはいただけることになった。
 東京へ行ったのは、試験が終ってすぐだった。試験の結果には多少の不安もあったのだが、そのことは忘れて、会いに行った。盛山先生は入試の成績やその後のことについていろいろと話して下さった。どうやら、外国語は両方とも足切りラインを超えていたらしい。だが、専門や論文の解答を見ると、あと少しの修行が必要だそうだ。総合的にはどの程度の成績か聞いたら、合否ライン上にはいたがあと一歩及ばず、と言われた。この場合は、試験を受けていたおかげで私の能力を先生に示せていたわけである。それで、研究生として受け入れていただけることになった。翌日は橋爪先生にいろいろと助言をいただけて、とても有意義に過ごせた。東京滞在期間中に試験結果の発表があったのでびくびくしていたのだが、友人から単位が取れたとの知らせを受けて、なんとか胸をなで下ろした。卒業単位ぎりぎりであった。
 何とか落ち着いて札幌に帰った。だがまだ残っているものがある。論文である。卒業論文はないとはいえ、制度的にもゼミ論文は書かなければならない。これまで言い尽くせないほどお世話になった橋本先生に対しての信義としても、これまでの成果をまとめなければならない。だが、その後いろいろとやってみても、どうしても書けない。三月にもなれば部屋を引き払うためにいろいろと準備をしなければならないし、東京の部屋も探さなければならない。卒業するものはみな札幌との別れを惜しんで、最後の時間を満喫している。でも私にはやり残したことがあるから、とてもそんな気分にはなれない。精神状態はどんどん悪循環に陥りながらも、やはり書けない。そうこうしているうちに、札幌を立ち去らなければならなくなる。卒業式の25日になっても書けなかったので、とてもではないが出席できず、最悪の気分になりながら家でワープロに向かっていた。だが、どんなことがあってもこれ以上は遅らせられないから、引用をいいかげんにつぎはぎしただけの、最低限に満たない分量の駄文を提出することにして区切りをつけたのが27日の昼である。ゼミ論文として岡部先生の家に郵送した。そして大学に行き、卒業証書を受け取った。
 その日の夜には、2年の間にさまざまな研究会の場で出会った方たちが、私のために送別会をして下さることになっていた。もちろん橋本先生も出席する。そこには論文を持っていく約束になっていたのだが、日本語の文章としてだけ見てもつじつまの合っていないようなものを、とても渡す気にはならなかった。しかし先生には問いただされたので、後日メールとして送ることになった。おそらく先生はそれを見て、絶句されたに違いない。でも、その晩、みなさんはとても暖かく見送ってくれた。
 名残惜しい思いを胸に、最後の夜を迎えに自分の部屋に帰った。引越し屋が荷物を取りに来るのは翌日の14時である。引越し代を最小限に抑えるために、運び出ししかお願いしていないから、荷物の整理は全部自分でやらなければならない。ほとんど徹夜の状態で、次の日を迎えた。引越し屋が来た時点で整理できていないものは東京に送らず(送れず)、札幌の知り合いにあげることにした。大家さんには16時に引き払うといっていたのに、結局19時になってしまった。その日は18時から、サークルのOBが送別会を行なってくれることになっていたのだが、2時間以上遅刻してしまった。それでも飲み、そしてJRのホームに行った。そこには送別会に来られなかったサークルの人が40人以上集まってくれていた。そしてビールかけは始まり、胴上げされ、握手を交わした。23時30分発の「ミッドナイト号」はホームを離れ、札幌は見えなくなった。
 何も終っていないと思った。卒業式に出られなかったから卒業したという実感は全くわかないし、論文は書けなかったから2年間の区切りもつけられなかった。それでも、心の区切りはつけられないままに、舞台は東京へと移った。

 

 

4. 研究生になってから
 東京に着いたのは29日の午後である。20度をこえる陽気になり、Tシャツ一枚で歩く人もいるその場所には、まだ冬用のコートを着ていた私は場違いに思えた。
 鍵は持っていたから、部屋に入るのは簡単だった。何もないその空間で、荷物が届く翌日まで過ごさなければならない。ビールまみれの体を洗いたかったが、ガス屋が来るのも翌日である。かといって銭湯もない。何となくその晩は過ごした。それからは、部屋の掃除と整理に終始した。思ったよりも手間がかかるもので、4,5日はかかっただろうか。

 

4.1.授業開始
 4月に入るとすぐに学校は始まる。大学院ゼミにも出たかったのだけれども、盛山先生はまず学部ゼミに出るようにおっしゃったので、水曜日にある先生のゼミに出ることにした。それから、G.H.ミードの勉強もしたかったので、大学院の演習に出席させてもらえるように船津先生のところに頼みに行ったら、快く承諾して下さった。他にも社会学・哲学・倫理学の講義やドイツ語の授業に出席しはじめたが、だんだん足は遠のいていき、結局ちゃんと完遂したのはその二つの演習だけだった。また、各種の研究会にも積極的に出席するつもりだったのだが、4月中にいくつか顔を出した後、アルバイトと時間が重なることもあり、次第に足は遠のいた。
 生活のためにアルバイトを探さなければならなかったが、一週間の予定が決まらなければ、どの日に入れてよいのかわからない。そのため、授業予定が決まるまで待っていたら時機を逸し、探しはじめた頃には条件のいいところはほとんど無くなっていた。それでも家庭教師センターに登録したら、時給の高い相手を紹介してもらえた。浪人生で週三回である。こちらは金が必要だったから、喜んで引き受けた。ただ問題は、世界史を教えなければならないことである。私は理系で地理は得意だったが、世界史は全くといってよいほどやっていない。家庭教師センターでは勉強のやり方だけ教えればよいといわれたので、私もそのつもりだったのだが、実際に会ってみると生徒は当然教えてもらえると思っているようである。どうも避けられない雰囲気である。時給3000円の相手を逃がしたくな
かったので、やってみることにした。
 社会科学を勉強するのに世界史の知識は必須である。いつかはやらねばならないと思っていた。これがちょうどよい機会である。生徒に教えるのと平行して自分でも勉強することにした。30章に分かれた問題集を一章ずつ生徒に解かせ、間違えた部分の解説を私がする、という授業を週一回することにした。私の知識はゼロに近いから、受験コーナーで一番厚い参考書(山川出版の『詳説世界史研究』全568ページ)を買って、問題集と合わせて予習をしてから授業に挑む。授業中にぼろがでないようにするために、いいかげんにはできないから、毎回、最低三時間はかかった。その日限りで忘れてしまった部分もかなりあるけれども、少なくともだいたいの世界史の流れはつかめたであろう。
 他の科目に関しては、英語は気楽なものだったが古文漢文は忘れていたから、やはり予習して臨んだ。時給をもらっているとはいえ、やはり時間を割いているわけだから、自分にとって有効なものにしたい。自分の能力を高めるのにできるだけ役立つように、家庭教師のやり方を考えた。おかげで、英・国・世すべて、自分のためになった。できるなら、次は日本史を教えたいものである。

 

4.2. 秋まで
 家庭教師に慣れるまでには時間がかかった。そして、それ以外のことはうまくいかなかった。低調な気分を引きずっていることもあり、消極的になっていく。こちらの友人はみな働いているしすぐ近くにはいないから、平日に気分が滅入っても突然押しかけるわけにはいかない。どうも悪循環になっていく。ゼミでも友人は作れない。これまで人付き合いよく生きてきたのに、消極的になっていく。スランプのまま日々は過ぎていった。二ヶ月に一回行なわれたテーラー研究会の前の一週間ほどはやる気が出て勉強も進むのだが、それが終るとまた元に戻る。
 夏前になって、やっと東大生の話し相手ができた。盛山ゼミに出席していた相関社会科学の4年生である。でも、ゼミ後に食事する程度の仲だから、夏休みに入るとまた一人だった。
 図書館にも最初はなじめなかった。北大図書館とはよい関係が持ててうまいリズムを保てていたのだが、どうも東大図書館とは相性が悪く、閲覧室で勉強するようになったのは夏以降になってからだった。それでだいぶ持ち直したのだが、北大での状態と比べたら低調なまま夏休みも終った。今度こそ秋受験して大学院の持ち駒を得ておきたかったし、そうすべきだったのだが、研究計画はまとまらないし気分も低調なままだったので、また見送ることになった。

 

4.3. 秋から
 10月の後半には盛山ゼミで発表をしなければならなかった。研究生の間に卒論相当のものを書くことが求められていたので、そのプロトタイプの発表である。この時には相変わらず曖昧でひどく不十分なものであるけれども、とりあえず形のあるものが提出できた。そのため、少しは精神状態がよくなった。
 また、この頃から大学院に向けた勉強会をゼミの日の午後に4年生と行なうことになった。ちくま書房の『命題コレクション社会学』を各自が読んできてその内容について議論する、という形式である。途中で抜けていった人もいる中、最後まで残った5人とはかなり親しくなれた。受験勉強的な意味合いで良かったのはもちろんだけれども、それよりも東大内部に対等な話のできる友人ができたということが大きく、かなり気持ちは楽になった。

 

4.4. 受験準備再び
 勉強会を始めたことで、受験対策の情報や、各先生の性格や、ゴシップめいたものまで、いろいろと内部情報が入ってきた。みんな卒論に手いっぱいで、勉強会でやること以外はあまりやっていないようだった。私も同様だったのだが、外国語だけは促成栽培できない。ドイツ語は4月に授業で少しやって以来、まったく手をつけていなくて不安もあったから、12月に入ってから毎日少しづつやった。前年やったものに加えて、北大教養時代の授業でテキストとなっていた、まだ新品同様の中級レベルの教科書をやることにした。それから、知らない単語が出てきたら『ドイツ語語源小事典』(同学社)を参照することで、語源的に覚えるようにした。
 その時期には併願する大学も決めなければならなかった。さすがに翌年も身分なしにはなりたくなかったからである。行くからにはレベルの高いところにしたかったが、それに比例して合格可能性は低くなることになる。それでも自分が関心を持っている分野を研究している厚東先生のいる阪大を受けることにした。教授陣を見ても、他に候補にしていた京大や東北大よりも揃っているように思えた。それに、別冊宝島『学問の鉄人 大学教授ランキング 文科編』の中の「研究評価の高い大学一覧」ではトップになっている。さらに阪大では、卒論を持たない大学出身者は代わりに4000字程度の研究計画書を出せばよいことになっていたので、受験しやすかった。滑り止めにはならないと思ったが、
行きたい大学を受けたかったので、阪大に決めることにした。
 だが、阪大では過去問を公開していない。それでは対策に困るので、研究室の助手の方にメールで問い合わせてみたところ、ありがたいことに非公式ながら過去問の聞き取り資料(文書としては保存していない)を送っていただけた。やはり、受験前には積極的にアクセスすべきである。

 

4.5. 受験直前
 12月中に『命題コレクション』は終ったので、年が明けてから二回の勉強会は、各自が社会学史の予想問題とその解答例を作ってきて、お互いに批評しあうことにした。こうすれば、一度に多くの問題を意識できると同時に、解答例まで頭に入るから、時間を効率的に使える。
 だが、大きな問題があった。論文が完成していないことである。それまで中途半端だった考えが12月末になって大きく進展したのだけれども、文章を書くのが追いつかない。どういうわけか悪循環に陥って、机には向かっているのだが進みが悪い。でも投げ出すわけにはいかないから、受験勉強に時間を割けない。ドイツ語はやっていたのだが、他の科目には触れていなかった。20日の時点でも規定の半分ほどだったので、盛山先生と相談した結果、怠けているのではなくアイディアはできていることが伝わったので、春休み開けまで提出を延期させてもらえることになった。
 さて、本番の23日まで3晩しかないから、効率的に勉強を進めなければならない。執筆中の論文の中で、学説史的に社会学の主要な業績を見渡したので、知識は蓄積されていたのだけれども、試験対策そのものはやっていなかった。英語は家庭教師の過程で意識して頭に入れるようにしていて感覚は忘れていなかったので、特別な勉強はしなかった。専門に関しては、まず、前年の勉強で要点をまとめたレジュメを読み返して、全体的な流れをもう一度復習した。また、『公務員Vテキスト 社会学』(TAC出版)を読み、その中の問題演習をすることで、別の角度から全体の流れを押さえた。社会調査法に関しては、見田宗介「社会意識分析の方法」『現代社会の社会意識』(弘文堂)が一番役立った。また、有名な社会調査事例である『ポーランド農民』や『アウトサイダーズ』の簡単な内容紹介が、宝月誠ほか『社会調査』(有斐閣)に載っていたので、実例を知る上での参考にした。
 また、今回は、勉強会の時に集まったレジュメを参考にしながら、解答練習を行なった。時間がなかったので、他の人が作った解答をほとんど丸写しして覚えたといっても過言ではない。もちろんその内容の妥当性を確かめるために、各種の事典(『社会学文献辞典』(弘文堂)、『社会学辞典』(同左)、『新版 社会学小辞典』(有斐閣)、『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店))を頻繁に参照したのは言うまでもない。

 

4.6. 東大一次試験
 23日の午前中は外国語試験だった。不安もあったが、ドイツ語は昨年よりもかなり感触はよかった。ただ、英語は終った後に勘違いに気づいたので不安になったが、家に帰ってから厳密に採点してみたら、大丈夫なように感じた。
 午後は専門試験である。勉強会での対策の効果がもっともあらわれたのが社会学史の問題だった。これは、専門用語八つのうち五つを選んで学説史的に説明せよ、という形式である。当日臨んでみると、何と幸運なことに解答練習した用語が五つも見つかった。つまり、練習した言葉で間に合うのである。これにはさすがにニンマリした。社会学原論や社会調査法に関しても、勉強した範囲を応用すれば対応できたから、前年と比べたらかなり納得いくものが書けた。
 その日は帰ってすぐ寝た。翌日の論文試験の文案は、24日に作成した。今回は研究計画のアイディアはできていたので、前年ほどは苦労しなかった。ただ、その時の失敗で自分の記憶力の頼りなさを実感していたので、文章を漠然と丸ごと覚えるのはやめた。まず、全体を十数章に分ける。各章の題名は内容を連想させるぐらい詳しいものにする。そして、一度全体を書き移してみる。当日25日は地下鉄の中で、各章のタイトルと順番を書き出せるように練習した。
 試験では多少解答形式が変わっていた。でも慌てず、まず草稿用紙に目次を書き出してみる。そして、あとは応用を利かせながら、文章を書いていった。今年も筆の遅さは変わらなかったけれども、考え込む時間は少なくて済んだから、分量もそれなりに書けたし、話のつじつまを合わせることもできた。

 

4.7. 阪大受験
 阪大の試験は2月の3,5日にあった。4日は東大の一次発表だから、不安を抱えたままでの大阪行きである。過去問を見ると、社会学の古典の内容説明を求めているものもあったので、『社会学文献辞典』(弘文堂)の「基本文献」の部分を全部読むことにした。また、社会科学全体の流れを復習する意味で、富永健一『現代の社会科学者』(講談社学術文庫)を読んだ(ただし、昔読んだ印象と違って、それほど内容豊富でもないし、かなり著者の嗜好が表れているように思った)。本当はもっと対策を行なうつもりだったのだが、東大の試験が終ったので少し気が抜けていて、このぐらいだった。
 3日は外国語と専門の試験である。まずは1時間30分の外国語試験。英語のみで辞書も持ち込み可の下線部訳のみ。でも気を抜いていたら時間ぎりぎりになり、後半はほとんど辞書を見ずに解答する羽目になった。一応、堅実な解答はできたようだが、終った後の周りの会話を聞いていると、他の人は時間に余裕があったようである。少し不安になった。
 次は1時間40分の専門試験1である。論述問題1問と選択問題(社会調査・英・独・仏のうち1問)があった。社会調査にするか英語にするか迷ったが、点数評価のやり方が予想しやすい英語を選択することにした。これも、堅実な解答ができた。
 最後に1時間40分の専門試験2である。これは過去問では学説史的知識を問うものだったのだが、今回は、用語二つが挙げられそれを相互に関連づけて論ぜよ、という問題だった。でもうまい対応が即座には思い付かなかったので、それぞれの用語を解説して知識の豊富さをアピールするような解答にした。私は「理論社会学・社会学説史専攻」を受験したので、学説史的知識を示すようなやり方にしたのである。
 4日に東大の合格が知らされて少し気が楽になった。阪大はすぐに採点を行ない、5日の朝には一次合格者を発表した。行って見ると自分の番号がない。予想よりも合格者が少なくて4人しかいない(倍率は約8倍だった)。周りもみんな出来ていそうに見えたし仕方がないか、と思ったが、帰る前にもう一度受験票を確認したら勘違いに気づいた。
 そのまま、合格者の面接が行なわれた。私はトップバッターである。聞かれたのは一般的なこと(経歴・試験の感想・研究計画・経済状況)である。面接を受けるのは10年ぶりだから予想通り緊張して何もわからないままに終ったが、少しは感覚がつかめた。

 

4.8. 東大二次試験
 ここ数年は面接で落ちた人はいないと聞いていたので少し気が緩んでいた。聞かれたのは志望動機が加わったぐらいで、阪大とだいたい同じである。今回は面接で緊張せず受け答えが出来たが、解答に詰まった部分もあった。今年はここで一人落ちていたから、実は危なかったのかもしれない。

 

 

5. 終わりに
 以上で、合格体験記は終わりである。ここまで読んでもらえればわかるように、私がここまで来ることができたのも、橋本先生のおかげである。ここに至るまでにさまざまな意味でお世話になった人たちと知り合えたきっかけのすべては、橋本先生が与えてくれた。これは感謝してもしきれないだろう。そして同様に、名を挙げきれないほど数多くの人にもお世話になってきた。ここでみなさまにお礼を言っておきたい。
 同じ道を目指す人に対して、及ばずながら私が言えることは次のようなことだ。
 まず、きっかけや人の縁を有効に活用すること。ここまで読んでいただければ、人の縁を大切にすることの重要さがわかったであろう。
 それから、自信を持つこと。後輩からは、私は自信たっぷりに見えたかもしれないけれども、これまで書いてきたように、自分の実力のなさをずっと感じてきた。読書会をやれるような人間だとは思っていなかったし、研究会に出席することなど思いもつかなかった。でも、図々しいぐらいのつもりになってやってみることによって、ここまで来ることが出来た。それは、何か特別な才能のおかげではない。
 私はいろいろな意味でまだ未熟だから、上で述べたことは自分にも言い聞かせ続けなければならない。そのことが、ここまで書いてきたことで再確認できた。この「合格体験記」が、ここまで読んでくれた方の参考にもなったとしたら、うれしい限りである。